第54話 魔女の夢人形の夢
鮮明になっていく。
色あせた絨毯は鮮やかな緋色になり、壁の燭台にいつの間にか灯がともっている。これじゃまるで、時が戻っているみたいだ。
アリス様の言葉通りなら、“魔女の見ている夢”が広がっている。俺たちの時代、俺たちの現実が、魔女の夢に浸食されていく。
『夢を見ているのは貴女ではないかしら。ね、勇者さま』
魔女の視線の先に、既にアーサー様とユリウス王子の姿は見えない。アルバート王子がひとり、生気の無い瞳で魔女のを見ているだけだ。
“魔女の夢に取り込まれないでね”
アリス様が言った言葉の意味。
俺の周囲だけが、まだかびくさい隠し部屋のままだった。だからやっぱり、そういうことなのだろう。魔女の夢が、部屋を飲み込みつつある。
「いいえ、あなたは知っているはずです――ノエル!」
「……っ、」
名前を呼ばれて、ほんの少し引き戻された。
いつの間にかあのもやもやが、つま先に迫っている。
「アーサー様とユリウス王子のところへ、お願い!」
「あら」
魔女が今気付いた、というようにちらりと俺を見た。
ダメだ、魔女を見ちゃダメだ、そう思っているのに目を逸らすことができない。
視線が合うその寸前、何かを打ち消すようにアリス様が叫ぶ。
「ノエル!」
もう一度名前を呼ばれると、今度こそ身体が自由になった。
魔女と目が合ったと感じたのはほんの一瞬で、背を向けて王子のところへ戻る。
2人はアルバート王子の左右にいたはずだ。見えないのはたぶん、魔女が“いない”と信じているからだろう。
でも、アリス様は?
あと、俺は?
どうして無事なんだ?
考えても答えは出ない。とにかくアルバート王子の傍まで行って、見えない2人の名前を呼ぶ。
「アーサー様! ユリウス王子!」
瞬間、俺のまわりの霞が晴れた。
見えなくなっていた2人の姿がいきなり浮かび上がる。
「ノエル……、アリスは?」
「驚いた、なにが起こったのか……」
よかった、2人は無事だ。
俺が立つ場所から、もやもやとした霞は少しずつ晴れていく。魔女に飲み込まれてはいけない。魔女を見てはいけない。この部屋にいてはいけない。
だけど、逃れられる気がしないのはどうしてだろう。
自分の意思では、運だけでは超えられない壁。
身体のどこかに、絶望がこびりついて消えない。
「部屋を出て下さい、アルバート王子も、はやく!」
俺は腕を伸ばして、アルバート王子の腕を掴んだ。王子の身体はぐらりとよろけ、一瞬俺にもたれてからどうにか自立した。
「アルバート王子!」
「……お前、」
「はやく部屋の外へ!」
目に光が戻ったのを確認して、部屋の入り口へと促す。
『あら、ダメよ』
そう聞こえたと思った時には隠し扉の前に魔女が立ち塞がっていた。
まずい。この部屋にとどまっている限り、いずれ魔女の夢に飲み込まれる。
それでも出口はひとつしかない、飛び込むなら俺の役目だと思った、その時だ。
「どいて!!」
鋭い声と同時に、アリス様がものすごい勢いで魔女に突進した。魔女の顔に驚きの表情が浮かんだのは一瞬、すぐに部屋の外へと弾き飛ばされる。
そうだった、アリス様はこういうお嬢様だ。
勇敢で、速くて、強い。
そして誰よりも家族を、兄君たちを愛している。
俺たちは顔を見合わせて、それから出口へと向かった。
『退き、なさい』
「いいえ!」
なだれ込むように王の間へ出ると、倒れ込んだ魔女の上に覆い被さるアリス様の背中が見える。あまりといえばあまりの力押しに、ちょっと頭がついていかない。どうしてアリス様はあの部屋で、あの圧のなか動けたんだ?
『馬鹿な娘。でも、一族の末だというのならちょうど良いわ』
驚いたことに、魔女の身体がみるみる黒く干からびていく。魔女の部屋から出た弊害なのか、それとももともと限界だったのか。
それでも枯れ枝のような右手を伸ばし、魔女はアリス様の頬に触れた。
『貴女の身体、ちょうだい』
干からびていく身体から、あの亡霊が浮かんでくる。
「アリス、離れろ!!」
アーサー様が剣を抜いた。けれど魔女の身体はアリス様の影だ。そして浮かび上がった亡霊は、アリス様の中にするりと溶け混んでいく。
「馬鹿はあなただわ、魔女の亡霊さん」
少し笑って、アリス様はっきりと言い切った。俺がいる場所からは細い背中しか見えない。
「可哀想なアリス、甘い夢はもうおしまい!!」
そう聞こえた瞬間、アリス様の身体がビクリと震えた。応えるように、今度は魔女の声のない声が細く響きわたった。l
『な、ぜ……、どう、して』
黒くひからびた魔女の身体はぐずぐずと崩れ、塵みたいに床に散らばる。覆い被さるアリス様の身体は、微かに光を放っていた。
「私は奥方様が編みあげた、あなたの呪いを解くための人形だから」
ゆっくりと身体を起こし、アリス様は立ち上がる。
俺は、俺たちは誰も、動くこともできない。
”可哀想なアリス”
あれは誰のことだ?
「アリス!!」
アーサー様が飛び出して、アリス様に手を伸ばした。
だけど触れることはできない。アーサー様の手は、アリス様をすりぬけてしまう。呆然とする兄に、アリス様は振り向くとゆっくり手を伸ばした。
「最初から魔女とひとつになって、消える運命だったの」
そう言って、笑う。
光はどんどん強くなって、アリス様の形は少しずつ崩れていった。
髪の先から、指先から、光の粒になって、空気に溶けていくみたいに。
『いや、いやよ、私、あたしは』
魔女のか細い思いが伝わってくる。まるで小さな子供みたいに駄々をこねている。
「もう夢から覚めなくちゃ。私も、あなたも」
あやすように優しく、アリス様の声が囁いた。
動けない。
“お兄様のことをお願いね”――そう言ったあの時、アリス様はとっくに覚悟を決めていた。
「アリス……」
声を絞り出し、アーサー様がもういちど腕を伸ばした。触れることはできない。アリス様はもう、光の粒になって、ふわりと崩れていくだけだ。
「アーサー様、ごめんなさい。ニコラス兄様にも、ありがとうって……」
伝えて、と唇だけが動いた。
もう声すら聞こえなくなって、どんどん空気に溶けて、薄れていく。
その時だ。突然真っ黒な塊がものすごい速さで飛び込んできた。勢いのまま、おぼろげになったアリス様へ突進していく。
『アリス!』
黒い猫、ニコラス様だった。
猫がふうっと毛を逆立てて膨らむと、光の粒たちが集まってその身体を取り巻く。
まるで、別れを惜しむように。
『アリス!!』
もう一度ニコラス様の黒猫がその名を呼ぶと、光は散り散りになってふわりと何かが床に落ちた。
羽根だ。
青い風切り羽根。
空に溶ける青い小鳥のイメージが、また瞼の裏に浮かんで消える。
殺風景な王の部屋。
俺たちは立ち尽くしてアリス様が居た場所を見詰めていた。
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