第45話 城壁へ再び
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『アリス、アリス』
ああ、ニコラス兄様の声だ。
目を開くと、抜けるような青空。
『アリス、こっちだ』
兄様の声は遙か下のほうから聞こえた。
視線を落とすと、そこはいつもの城壁だ。
空を飛んでいる――どういうわけか、私は鳥になっていた。
『アリス、心配しなくていい』
心配? 何の?
そうだ、みんなのところへ行かなくちゃ。
ハッピーエンドのその後に、クラティアの人々を訪れるのが私の役目。
エンディングの青い鳥。
『私はここで待っているよ』
びゅうとつむじ風が吹いて、私の翼を上へ上へと押し上げる。
だけど私は兄様を目指して飛ぶのだ。
『クラティア戦記』のエンディングで、青い小鳥がニコラス・オーウェンを訪れることはなかった。だけどそんなの理不尽じゃない? 私の生きるこのクラティアでは、お兄様はなにも悪いことなんてしていない。
『アリス』
お兄様がこちらへ手を差し伸べた瞬間、頭の中にチカッと何かが閃いた。
遠くで誰かが歌っている……祈っている?
耳を澄ましたけれど、風の音でもうなにも聞こえない。
*******
「アーサー様!!!!」
ニコラス兄様の部屋に飛び込むと、アーサー様がびっくりしたように私を振り向いた。
次兄のびっくり顔はとてもレアだけど、今はそれどころではない。
「アリス様、どうぞお静かに」
傍らのアンナがいつもの調子で私をたしなめる。
「ごめんなさい、アンナ。ニコラス兄様は無事よね?」
無事でないわけがない。何故かその確信があった。
さっき見たあの夢、あれは普通の夢ではない……はず。
「ええ、意識はありませんが落ち着いておられます」
ベッドに近づいてニコラス兄様を見ると、少しだけ血色が戻っている。指先で頬に触れれば、ちゃんと暖かかった。
「よかった……、アンナ、少しの間ニコラス兄様のことをお願いできるかしら」
「それはもう、もちろんです」
「アンナがいてくれれば安心ね」
にっこり笑ってみせると、アンナはまじまじと私の顔を眺めてから頷いた。
「元気が戻ってなによりです、お嬢様」
「落ち込んでいる場合じゃないって気付いたの……、アーサー様、ノエルが来たらすぐに行きたいところがあります」
「落ち着け、アリス」
「あら、これ以上ないくらい落ち着いていますわ」
自分でもびっくりするくらいだ。
おかしいな、ニコラス兄様が夢に出てきたというだけでこんなに安心できちゃう? 理由ははっきりわからないけれど、今の私には“大丈夫”という確信がある。
だけどアーサー様はいぶかしげに首をかしげた。
「何かあったのか?」
「いいえ、何も」
「……そうか。行きたい場所、とは?」
「城壁塔です」
「城壁?」
そう、あの場所だ。
ニコラス兄様と一緒に上り、奥方様の話をきいた。
二度目には、アルバート王子と出会った。
『クラティア戦記』の多くのルートで、ニコラスが命を落とした。
そしてエンディング――青い小鳥が最後の最後に訪れて、外の世界へと飛び去っていくあの城壁だ。
「唐突だな。城壁に何があるんだ?」
「わかりません」
でも、呼んでいる。
「きっと、行けばわかります」
時間通り部屋にやってきたノエルは、私の顔を見てほっとしたようにくしゃっと笑った。
「よかった、思ったより元気そうですね」
「昨日は取り乱してごめんなさい、ノエル」
ニコラス兄様が倒れ私が子供みたいに兄に縋っているとき、励ましなだめてくれたのはノエルだった。うっすらとしか覚えていないけれど、アーサー様を呼ぶように提案してくれたのもノエルだったと思う。
最善の選択肢を選べるあたり、さすが主人公、できる子なんだよね。
「いえ、俺だって驚きましたから」
「ノエルがいてくれて本当に助かったわ。ありがとう」
一歩近くに寄って見上げると、ノエルはちょっと困ったように眉を下げた。
「あの、アリス様」
「それでね、今日もひとつお願いがあるのだけれど」
「お願い……、もちろん俺にできることなら何でも」
ノエルは本当にそう思ってくれているのだろう。
対する私は彼が『主人公』だということを存分に利用している。このところ、そこが少し後ろめたい。だけどもう少し、せめてニコラス兄様が意識を取り戻すまでは頼らせてね、ノエル。
「これから一緒に、城壁に来て欲しいの」
「城壁?」
「ええ、この前行ったでしょ?」
「あの面白いじいさんが番人をしている塔ですね。もちろん良いですけど、あそこに何かあるんですか?」
「よくわからないの」
夢に見たから、とはさすがに言えない。
「……アリス様」
「なあに?」
だけどノエルは真面目な顔で私の顔をじっと見つめる。
予想外の反応だったので、私もびっくりしてまっすぐ彼を見上げた。
「今日のアリス様は、なんだか」
そう言いながら、ノエルがすいとこちらに手を伸ばす。その指先が私の頬にわずかに触れた瞬間――、
「ノエル・ダリュー」
と、部屋の入り口から殺気の籠もった声が聞こえた。ノエルの身体がびくぅっと硬直し、ぴたっと動きが止まる。
「――お前の役目は何だ?」
「はい、副隊長! アリス様の護衛です!」
条件反射のように回れ右をして、ビシっと敬礼。まるでお人形みたいだ。
でもホント、ノエルは主人公で天然タラシなんだよね。唐突な真顔からの接触コンボは私もちょっぴりドキっとしたから、無罪ではない。とはいえここは庇っておかないとノエルの立場というか、生命が危ういかもしれませんわ。
「アーサー様、ノエルは私の体調を気遣ってくれただけです」
「アリス、お前も少し油断し過ぎだ」
「申し訳ありません。ノエルのことは弟のように思えて、つい気安くなってしまって」
素直に、そして無邪気を装った笑顔で謝ってみせると、アーサー様ははあと大きく息を吐いた。
「まあいい。支度はできているのか、アリス」
「はい、もちろんですわ」
「では行くぞ。ノエル、お前は御者だ」
「はい!」
ノエルやニコラス様、それにアルバート殿下がいたことはあるけれど、城壁塔にアーサー様と来るのははじめてだ。
番人のおじいさんは、のんびりお茶の準備をしている最中だった。
「こんにちは、おじいさん」
「おや、お嬢さん。よく来たのう」
「ええ、私ここがとても気に入っているから」
「そりゃあよかった」
おじいさんがちらりとアーサー様を見上げたので、私は慌てて次兄を紹介する。
「こちらはアーサー様。私の二番目の兄で、騎士団に所属しているの」
おじいさんはニコラス兄様やノエルとは顔見知りだけど、アーサー様とは初対面のはずだ。アーサー様は結構な圧があるので警戒されてしまうかもしれない。
「ほうほう、なるほど、騎士団ですか」
けれどおじいさんは気後れする様子もなく、ニコニコして頷いた。
どちらかといえばアーサー様のほうが怪訝そうな表情をしている。
「……アリス、このご老人は?」
「この塔の番人――守衛さんです」
「守衛? この城壁塔に?」
「ほっほ、守衛というほどの仕事なんぞ無いですがのう」
「しかし、」
アーサー様がなおも言葉を続けようとしたとき、不意に後ろから黒い影が飛び込んできて、軽やかにテーブルの上に乗った。
「わ、」
「……ブラン?」
間違い無い、ブランだ。馬車のどこかに潜んでいたのか、それとも普通に歩いてきたのか……この黒猫ならやりかねないので既に驚きは無い。
“どうしてここに”という疑問よりも先に、お小言のほうが先に口に出る。習慣って恐ろしいものですわね?
「お行儀が悪いわ、ブラン」
余所の家のテーブルの上に乗るなんてとんでもない。
慌てて近づこうとすると、おじいさんは軽く手のひらで私を制止した。
「なあに、大丈夫じゃよ」
そう笑って、ごくごく当たり前みたいな調子でブランの顔を覗き込む。ブランも首を伸ばし、金色の瞳で老人を見上げた。
「なるほど、ずいぶん削られたようですのう」
「ニャウ」
「つまり今はアレの力が増しているというわけですな」
「ニャ」
「なるほど、――では、少しだけ手助けするとしましょう」
それがどういう意味なのか思いつくより先に、おじいさんは黒猫の頭をつるりと撫でる。するとブランはひょいと床に降りて小さく身震いした。
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