第19話 余計なもの
「お嬢様、どうぞ」
「ありがとう、マリー」
出されたホットミルクを一口飲んで、私は気心の知れたメイドを見上げた。
「ねえ、私ってお兄様たちに甘えすぎかしら」
「え?」
鳶色の瞳をちょっと見開いて、マリーがわずかに口を開く。
けれど思い直したようで、すぐに彼女は首を振った。
「いえ、そのようなことは」
「ホント? 率直に教えてほしいのだけど」
「もちろん仲のよいご兄妹で羨ましいくらいですが、お嬢様が甘えているようには思えません」
「だと良いのだけれど」
はあ、と勝手にため息が漏れた。
「お城でなにかございましたか?」
わずかに笑みが混じった声で、マリーが小さく首を傾げる。
彼女はここ王都で生まれ育った生粋の都会っ子で、家は穀物を扱う商家だ。5人きょうだいの末っ子という話で、我が家で働いているのは花嫁修業、行儀見習いの一環らしい。世情には私よりも明るいし、そもそも賢い娘で、話をしていると驚くことが時々ある。
「お兄様と会ったの」
「ええ、今日はアーサー様とお帰りでしたものね」
「アーサー兄様だけじゃなくて、ニコラス兄様も」
「まあ」
と、マリーはひとつ瞬きをした。
「このところお二人とも本当にご多忙ですもの、きっとアリス様に会いたかったのですね」
「そうねえ。人前で大人げないやりとりを見られてしまったわ」
「ああ、いつも通り、ですね?」
「そう、いつも通りだったの」
もちろん家の中でも使用人の前でもおかまいなしなのだ。だからこの家のみんなは兄たち、特にニコラス兄様が私に激甘なことをよく知っている。
「もしかしたら、人前で見せることが目的なのかもしれません」
「え?」
「あの二人に大事に思われていると知れば、アリス様をぞんざいに扱う人間は少なくなるでしょう?」
「そっか。私が孤児だってことが知れ渡っているから?」
「はい。まったく隠していない上でお二人ともアリス様を溺愛されておられます。商人だって貴族だって、オーウェン伯爵家を敵にまわしたくはないと思えば、アリス様を軽んじるものはいなくなるでしょう。そういう作戦ではないでしょうか」
冷静な分析だ。
言いにくいこともはっきり言ってくれるから私はマリーが好きだし、信頼している。
「ということは、ニコラス兄様のデレデレはそういうアピールなのかしら」
「いえ、あれはやりたいからやっているだけだと思いますよ」
「……」
「わたしだってアリス様のことが大好きですもの、一緒に育ったあのお二人はきっとものすごーくアリス様のことを大切にしていらっしゃいます」
そんなふうに言われると少し照れてしまう。
「ありがとう、マリー」
「いいえ、本当のことです――ではお嬢様、どうぞごゆっくりおやすみなさいませ」
にっこり笑顔を残して出て行くマリーと入れ替わりに、黒猫のブランがするりと部屋に入ってきた。私の足下にやってきて『にゃあ』と甘えた声で鳴く。
「あらブラン、もう寝るだけなのだけど……今日は私の部屋に泊まっていく?」
「にゃ」
「そう、良い子ね」
今日は色々ありすぎてすごく眠い。
でもまだ、まだやらなきゃいけないことがたくさんある。
私が望むのは兄二人の幸せな人生、その前提としての国の平和。
そのためならこの身を顧みず、どんな無理でも通してみせましょう。
なーんて、とにかく今は眠いのでベッドに潜り込むと、ブランは私の顔のすぐ傍にくるんと丸く収まった。微かに息がかかる距離で少しくすぐったいけれど温かい。可愛くて、私はそのつややかな毛並みをそっと撫でた。
「明日は仕立屋を呼んでドレスの手直しをお願いしなきゃ……」
「フニャ」
眠くなってきた。
ブランが絶妙のタイミングで相づちをいれてくれるのが可笑しい。
「それから……、ノエルがきたら作戦会議ね」
「ニャ」
「大丈夫、ぜったいに……」
もう目を開けていられない。眠りに落ちていくなか、黒猫がニャウンと鳴く声が聞こえた。
「おはようございます」
「おはよう、ノエル」
昼前に現れたノエルは、予想通りあまり元気そうには見えなかった。
部屋からずっとついてきたブランが私の足下にすりよってからノエルのところに歩いて行くと尻尾でパタリとすねを撫でる。
「お、ブランもおはよ」
「ナウ」
「お前は本当に賢いなー、はー」
なんて言いながらため息をついている。これはあれか、やっぱり剣の稽古に付き合わせているせいでアーサー様に何か言われたのかしら。ちょっと悪いことをしちゃったかも。
「顔色が良くないわね?」
「いやいや、元気です」
「アーサー様になにか言われた?」
「あ、はい。『アリスに怪我をさせるな、稽古はほどほどにしろ』って釘をさされました」
あれ、思ったより口調が軽い。ということはアーサー様に絞られて落ち込んでいるわけではないのか。でも、だったら何があったんだろう。
「それより、昨日アーサー様の代わりで騎士団に戻ってからいろいろあって」
「まあ、そんなに忙しかったの?」
「いえ、俺はペーペーですから仕事自体は見張りとか雑用です」
「えっと、じゃあ……」
「それが、城でアリス様のことを見たやつがいたらしくて」
「あら」
確かに昨日はお城の中をけっこう移動したから、騎士団の方に顔を見られていても不思議ではない。
「それで宿舎に戻ったら大騒ぎですよ。あの副団長の妹がめちゃくちゃ可愛い!……って」
「まあ嬉しい。でも、アーサー様はとても素敵な方でしょ?」
「それはそれ……、とにかく宿舎じゃアリス様の話でもちきり、護衛を代われって皆に言われました」
「うーん、それは困るわ」
「俺だって嫌です、こんな面白い仕事なかなかありませんよ」
ノエルはひょいとおどけたように肩を竦めた。やれやれという表情を隠しもしないところがさすが主人公って感じ。
そんなことを思いながらノエルを見ていると、気付いた彼も私をまじまじと見たのでしばらくの間無言で見つめ合う格好になる。日に焼けた顔、榛色の瞳。ノエルは珍しく真面目な顔でじっと私と目を合わせている。それほど際だったところは無いはずなのにこうして正面から瞳を見ていると吸い込まれそうだ。
「面白い仕事かしら?」
「アリス様が面白いですからね」
「そう? 私にはノエルのほうがずっと不思議だわ」
にっこり笑ってみせると、ノエルも顔をくしゃっとさせて笑う。
「不思議? 俺が?」
「そうよ。あなたはきっと、ものすごい強運を持ってる」
「え?」
「だからお願い、私になにかあったらお兄様たちを守ってね」
「……俺が守るべきなのはアリス様です。縁起でもないことを言わないでください」
ノエルの声が低くなって、私ははっと我に返った。
いかんいかん、失言だ。でもやっぱりノエルは主人公だ。
彼の傍にいると、ついぽろっと本音を晒してしまう。ほんの時々、不思議な力で周囲を魅了する才能がある。
私は努めて明るく笑って見せた。
「万が一の話よ。だってお兄様たち、私がいなかったら暴走してしまいそうですもの」
「あー、それはちょっと想像できますけど、」
「でしょ?」
本来ならこの世界に私は存在しない。
ここは迷い込んでしまったゲームの世界、私はイレギュラーで異端で余計なもの、きっと本来は無いはずのバグのようなものだ。ノエルといると、その違和感がだんだん大きくなっていくような気がして、後ろめたい気持ちになる。
「ニャー」
だけど黒猫のブランが一声鳴いて、私はいつも通り快活な伯爵令嬢の外殻を取り戻した。
「そういえば、今日はお茶の時間が過ぎたら仕立屋が来ることになったの」
「急ですね? そんな予定ありましたっけ」
「急に思いついたのだもの、仕方ないでしょ? あ、今のうちに剣の稽古でもしましょうか?」
「やめてください。昨日の今日で剣術の稽古なんてしたら、俺がアーサー様に消されます」
やっぱり禁止されちゃったんだ。
慌てて首を振る姿にはもう”主人公”としての面影は無く、普段通りの人好きのする青年そのものだった。
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