変身〜正義の鉄槌〜(3)

 夜十一時過ぎ。前髪が仰け反っているようでブン、ブンと歩を進める度にその前髪も揺れる眼鏡をかけた男が店に入って来た。色はオレンジで、Vネックの長袖シャツを着ているその男はレジに一直線へやって来てこう告げる。

「あのさ、この缶ビール、ここら辺に傷がついているから返金してほしいんだけど」

 傷? 海斗は男の言う傷とはどこにあるのか見つける事はできなかったが返金の申し出なら手順は決まっていると教えられたマニュアル通りに事を運ぶ。

「はい、返金でしたらご購入時のレシートはお持ちでしょうか?」

「持ってない」

「そうですか。そうなりますと当店でご購入された事を確認しなければなりませんので商品をご購入された日付けと、時間帯を大まかでよろしいので教えていただけないでしょうか?」

長い台詞をよく言えたものだと自分で自分を褒めてやりたくなったが男の態度が急変した。

「なんだよ、その偉そうな言い方。こっちは今すぐ返金してほしいんだけど」

「しかし、レシートがないとそれはできないですね。ですので先ずはご購入した日付と時間帯を……」

「覚えてねーよ、そんなの。お前じゃ話にならん。責任者呼んで来い」

「はぁ、では少々お待ちください」

 久しぶりにが来た。スタッフオンリーと張り紙が貼られている扉を潜り抜け海斗はこの後の展開を憂う。

 ここでもマニュアル通りにマネージャーに電話する事にした。マネージャー不在時、客対応で詰まった事態に見舞われたらマネージャーに電話して指示を仰ぐのが決まりとなっている。

 とはいえ電話をかけても出ない事が多々あるが今日は機嫌が良い日らしく、数回のコールで直ぐに出てくれた。

「そういう事だったら最初の頃に話したと思うんだけど、お客さんの連絡先聞いて後日、責任者から電話しますって言って今日は帰ってもらって。やっぱりレシートないのに即日、返金は受け付けられないよ」

「そうですよね。でも、あの男、様子からしてそう簡単に引き下がらない気がするんですけど」

「あまりしつこかったら警察呼んでいいよ〜。日誌にも書いているけどうちはもうそういう方針だから、遠慮せず」

 簡単に言うのが無責任に感じられた。対応する者はどれだけ怖い思いをしているのか分かっていないと不満はあったがやるしかないと海斗は事務所を出る。

「お客様、ただいま店舗責任者と話したところやっぱりレシートがないとこの場での返金には応じられない……」

「お前、いつまで待たせたと思ってるんだ? これだけ客を待たせておいて返金できませんって随分、客を馬鹿にしてないか?」

 誠心誠意の笑顔を作ったつもりだが出鼻を挫かれた格好となる。男はもはやなにかと不利な状況を口にしてなんとしても脅しにかかろうとしていた。

「いや、待たせたとかそんなの関係なくレシートがないと返金できないってことなんですけど」

「はぁ!? なに、その言い方! こっちは不良品掴まされた客だぞ、なんでそんな言い方されないといけないんだよ!」

 ダメだ、こいつは——海斗の中で我慢が限界に達したが、救いなのはなにもこちらばかりが部が悪いというわけではなかった。一度キレた男だがその後の歯切れは悪かった。周囲の視線が気になり始めたからだ。直接、この場をおさめようとしてくれる者はいなくとも男に対して冷たい、軽蔑した眼はこの場にいる誰もが向けていた。

「おい、外に出ろ。ここだとみんなが見てる」

 さすがの男も世間の眼とやらには屈するらしい。

「わかりました。では制服を脱いできますね」

「はっ? なんでそんな事するんだよ」

で店の外に出る時は制服を脱げというのが決まりですので」

 風向きが変わった、なら次はこっちが攻勢に転ずる時——海斗は対抗姿勢を見せた。

「……お前、本当にそれでいいって思ってるのか? こっちが客だってこと忘れてないか、なぁ」

 に当たってしまったと男は後悔しているかもしれない。がここまでしておいて今更、引き下がるわけにはいかないという意地が男にもあった。

 海斗は制服を事務所に置きに裏に一旦入る。ついでに……。

「あっ、もしもし。はい、えーっと、この場合はなんて言えばいいですかね? コンビニから電話しているんですけど、あっ業務妨害にあっています……はい、はい、住所は……」

 以前、万引き犯を捕まえた場に出くわした時に知ったこと。警察は来るのは遅い。十五分近くはかかるだろうか。海斗は十分くらいまで裏で待つ事にした。

 男は素直に外で待っている。それが健気と思ってしまい、迷惑極まりない客も虚勢を必死に張っているだけでたかが知れていると見る目を改めた。


 警察が来てしまったら男は少しばかりぐちぐち文句は言うものの最後は諦めて去って行く。警察が来た途端、弱腰になるのだから弱者には偉そうに、強者にはごまをする典型的な人間の卑しさを見た。しかし二人の警察官がまるでその場に居ないかのように、顔を一切向けず振る舞っていたのがかなり不自然に映った。それだけ圧がすごいのか。警察官が「どうなさいましたか?」と後ろから声をかけた時も男の顔は固まってしまっていた。海斗は今後もあのようなもはや客とは呼べない奴が来店したら容赦なく警察を呼ぼうと心に決めた。

 これで一件落着、とはならなかった。マネージャーにこの件を報告した時も「あっちゃ〜警察呼ぶまでいっちゃったんだ。ありがとう、対応してくれて」と労いの言葉はあったがそれでやった甲斐があったなどとは到底、思えるはずはなく。

 自室のベッドの上で渦巻く感情を整理した。

 たかが千円前後の時給でなぜここまで怖い目に遭わなければならないのか? そもそも前から例えば誤って未成年に酒、煙草を売ってしまいバレてしまったら売った人間も罰せられるのはどう考えても理不尽だと疑問を呈していた。悪いのは未成年だとわかっていながら買おうとした奴らだ。

 法律的に罰せられる可能性がある、今日みたいに恐喝まがいの事を言われる事だってある。それでこの時給は安いんじゃないかと思わざるを得なかった海斗。

 いや、こんな対応を暇な時間に働いているという大したモチベーションもない学生アルバイトにやらせるのが間違っている。ここで働き始めた当初、接客のプロとしての自覚を持てと言われたが、そんなプロって簡単になれるものなの? 大した教育、研修も受けていないのに。この世界のプロって随分、軽く見られているんだな。

 少しでも問題と思う事は際限なく溢れ出てくる。業務内容と対価が釣り合っていない、これに尽きる。

 なにより——あの男は十中八九、嘘を言っていた。うちであの缶ビールは買っていない。購入した日はいつか? その質問をしても思い出す素振りも見せなかったどころか話を逸らそうとしていた。ではあの缶ビールは他店で万引きでもしてそれを現金に換えようとしたのか。なぜそんな愚行ができる、同じ人間とは思えない。

 善人が腰を曲げてなんとかご機嫌を取り悪人、詐欺師が横柄に文句を垂れ流す。この構図こそ理不尽と言わずなんと言うか。

 元を絶たなければ解決しない。人を平気で騙すような奴はこの世に必要か?


『殺してしまえ』


 そうだ、そんな奴は死んだってかまいやしない。綺麗事なんて聞きたくない。世の中には死んでしまっても問題ない奴は一定数いる。この前、ようやく捕まったひき逃げ犯なんてそうだろう? いなくなれば世の中が浄化されるように清められるまで言えるかもしれない。


『殺してしまえ』


 悪が野放しにされていても、いつか必ず正義の鉄槌が下る、俺はそう信じている。いや、ここは俺がやるべきなんじゃないのか? 他に誰がやってくれるっていうんだ? 


 正義を象徴する白い仮面。それさえ手に入れば僕は喜んでその役目を引き受けよう。もう真面目で誠実な人が馬鹿をみる世の中はごめんだ。


 ——そう変えていくんだ。


 海斗は布団で顔を隠しながら不気味な笑い声を上げていた。その声は次第に別人を思わせるどすのきいた声に変わっていく。

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