変身〜対峙〜(1)

 夕方からポツポツと降り始めた雨は本降りになった。俺は雨は嫌いじゃない。というか、どちらかと言えば好きと言えるかもしれない。そんな奴は珍しいか?

 思えばいつからそう思うようになったのだろうな? 少なくとも小学生の頃は好きじゃなかった。雨が原因でプールの授業が中止になる事もあったしな。そんな無邪気な頃から時が経ち、成長して人間の心は黒く染まる。自然にとっては害しかない排気ガスみたいなものを吸い続けてしまった結果。当然、人間にも有害だ。それを作ったのは人間なんだけどな。

 俺の心は今は暗い湖の底だ。ただ何かにおびえて無心で逃げていたらいつの間にかこんな所に来てしまっていた。そこでうつ伏せになり差し込む太陽、月の光を時に見つめている。

 そんな俺の心を表しているかのように灰色の空の下、涙の雨が降れば心地よくなる。この降り立っている地と心が同期しているような感覚、この時ばかりは優しく包み込んでくれる……。

 こんな詩的な感覚を持つようになったのもあれが原因か。あの一年間で俺は生まれ変わったと言ってもいい。中身も、外見も痩せ細り、肌まで白くなった。

 それと引き換えに無縁だと思っていた感性を身につけた。世界の見え方が大きく変わった。いや元々、持ってはいたが気がついていなかっただけか。

 特別な力を自分は持っていると誰もが信じたくなってしまう時がある。ここから飛び降りた時、もしかしたら別の、新しい世界の扉が開かれるかもしれない。そう、だから私は、僕は死なない——

 そんな奇跡は起きない、と言いたいところだが世の中は説明できない不可解な出来事、現象が起きているのもまた事実だ。これだけ溢れている人間の事ですら全てを把握していない。

 解明されていない事の方が圧倒的に多いのに、奇跡なんて起きないなんて言うのは早計だ。

 そんな奇跡にも、慣れてしまえばいつかそれが奇跡とは言えない日だって来るだろう。分かりやすい例は俺たちが生きているという事だ。なぜだが俺たちは宇宙空間にある地球という星で生まれて、高度な文明を築き上げてこの星を支配している。これを奇跡と言わずなんと言おう?

 そして、この世界にはまだまだ眠っている『力』はある。奇跡、魔法としか言いようがない力が。それだけは信じている。そうでなければこの俺自身を否定する事になるしな。

 ドンっ。鈍く重く、それでいて大きな音が聞こえてきた。間髪入れずドンっと、また聞こえてきた。なにやら穏やかな音ではないな。ここは池袋だ。ちょっとした騒動はそこまで珍しい事でもないが俺は見世物に釣られるようにその音の方へ向かった。目的は果たせなくても良いにありつけるかもしれない。

 たどり着いたのは有料駐車場だった。停めている車、しかも高級車だ。あれはまさかランボルギーニか? その屋根の上に乗っかり金属バッドで車体を殴りつけているイカれた野郎がいる……。

 両手で金属バッドを持ち天高く振り上げた時にそいつは俺の気配に気がついたらしい。体を反転させて振り向く。

 その瞬間、俺は子供が初めて暗闇を怖がり泣き叫ぶような気持ちになった。この歳にもなってなぜ暗闇を怖がる? それは、本当の闇を初めてみたからかもしれない。

 話が違う——いや、俺が楽観的になりすぎていただけだろうな。その点は反省する。だがしかしこうして目を合わせるまでこの危険を読み取れないなんて、まだまだ未熟なようだな。もっとを上げないと……。

 よくよく見れば異様な、異形とも言えるシルエットであった。髪の毛がなまはげのように長くボサボサとしていた。抹茶色の、合羽のような衣を身に纏っている。その嫌悪にも似た外見とは裏腹にわずかに覗かせる生足をみるだけでも美しく鍛え上げられているとわかる。

 顔は……左目まぶたの上、右の頬が大きく腫れ上がっておりたんこぶみたいなできものがあった。果たしてそれで視界は大丈夫なのか?

「はーっはっはーー!!」

 いきなり奇声を灰色の空へと向けて上げた。これは地球上に存在する生き物の声か? 人間だと仮定して声の低さ、声色からして男か? いやしわがれた声、老婆の声にも聞こえるか。

 それと同時に閃光、雷鳴。現在の天候はこの異形が現れるがゆえに用意された演出かと頭を過ぎる。

 威圧をなんとか振り払い、右ポケットに手を入れる。震える手、それでも染み付いた動作でスムーズにスマホのカメラを起動させた。邪魔だと傘をやや乱暴に地面へ投げ捨てた。

 ブレないように、この一瞬を逃すな……! カシャっ。シャッター音。スマホをおろして再び目をやる。ニヤっと唇を横に広げて笑っていたような気がした。

 そいつは勢い良くジャンプして車体の屋根から降りる。逃げた……追いかけなければと反射的に思った。傘を拾い上げ閉じ、全力で腕を振る。濡れるなど気にしてはいられなかった。

 が、あいつの逃げるスピードは尋常ではなかった。陸上の金メダリストでもあんなに早く走れないんじゃないか!?

 もはや忍術でも使われて消え失せたとしか思えなかった。それだけの身のこなし、

 どうもがいても敵わない、その敗北感の中で俺は大粒の雨を頭から浴びる。

「うわっ、なんだよ、これ」

 背後から若い男の声が聞こえてきた。車の持ち主がやって来て被害に気がついたようだ。あんな車が買えるくらいのボンボンだ。助ける必要もないだろう。

 唯一の収穫、それはカメラにおさめた事。撮れ具合を確認してみるとなかなか上手く撮れていた。

 写真越しからでもこいつの圧を感じる。生で直視した時と比較すれば生温いと吐き捨てられるが、兎がライオンと対峙した時にどうすれば勝てるか? など馬鹿なことは考えず一目散に逃げるようにこいつは俺にとってもそんな存在だと直感が訴えていた。関わらない方がいいと。

 なにかが崩れ落ちた。これは俺のか、なにか?

 俺はこの写真を安原に送ろうと決めた。あいつの意見も聞きたい。俺の中ではもう答えのようなものは出ているが、一応。


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