エネルギー吸収→解析→(5)

 自分とは全く違う要素で構成されている人だからこそ惹かれる部分はある。それでたまに齟齬そごがあり不快に思う事もあれど、角岡は基本的には良い人、そう確信できた日でもあった。

 それはあんなことをいきなり言われてもというものは微塵もこちらに伝わってこなかったからだ。それはそれで凄い事かもしれない。だからできる限りその純真さに応えたいと思う。

 今日は真っ直ぐに帰る事にした。なるべく早くこの頭の中にあるパズルのピースを整理したい、その一心で。

「お前、なにジロジロ見ているんだよ!」

 バスを降りると男の怒鳴り声が耳に入る。近くでなにやら揉め事が起きているようだがこの声を聞いていると激しい胸の痛みに襲われる、そうして急いでこの場から走り去る。駅周辺では月に一回くらいのペースでどこか頭がおかしいんじゃないかと思わざるを得ない人を見かける。先月は駅のホームで向かい側のホームに向かって何度も怒鳴りつけている中年女性に遭遇した。もちろん誰に怒りをぶつけているのかは分からない。逃げるように遠くへ離れた。

 そんな光景は田舎から都心へ引っ越してきたばかりの無垢な若者にはたまったものではなかった。

 この危険を避けるためにやや遠回りしてしまったもののなんとか無事に家へとたどり着く。無事にとは一体、また何に怯えているのか? 古谷はなんとなく分かり始めていた。

 一昨日の時のように玄関のドアを閉めて鍵をかける前を向き自分の部屋を見ると安心してしまった。ここに居る間は安全なはず、この壁が守ってくれる、誰かに狙われているスパイの気持ちとはこういうものか、なんともスリリングな体験であった。

 消防車、いやパトカーのサイレンが近くまで来ていた。窓から外を見るがその車体が見られる事はなかった。平穏な街に見えても、どこかでは緊急事態に見舞われている、普段は見えない所を見ようとしている古谷。そのまますね辺りの高さがある机に向い、その上に置いてあるノートパソコンを開いた。


 どこにでも命を脅かすような危険が潜んでいるし、どこにでもドラマチックと言えるようなシーンが起こっている。自分の直ぐ近くでも、例えばこの壁の向こう側。ただ見えていないだけで。この世界とはそういうものである——

 本当に自分は作家なのではないかと今日ほど強く思えた事はない古谷。目をつむり深呼吸して指を動かした。


「えっ、もうできたの?」

 一週間を少し過ぎた頃。古谷が頼まれた小説が出来上がった事を角岡に告げた。

「うん。もちろん本当だったらもっとこうした方がいいって箇所がいくつもあるだろうけど初心者のゆいにはとりあえず小説の面白さを伝えられるだけのものは出来たかなって思ったから」

「それでもまだ一週間しか経っていないじゃん。それだけの期間でそこまで言えるだけのものが出来るってすごいじゃん」

「文字数は確か、一万文字以内に収めたから、そのくらいの長さだったらこのくらいでも出来るよ」

「一万文字って……私にはその半分の文章書けって言われても多分、一週間じゃあ無理だわ」

「メールでデータ送っていい? プリンターは持ってないから。それだとなんか本を読んでいるっていう気にならないかもしれないけど」

「うん、全然いいよ。じゃあ早速帰ったら読んでみるわ!」

 友達とはいえ、いや友達だからこそ自作の作品を読ませるというのはどんな反応が返ってくるのか気になって終いには胃が痛くなってくる。

 古谷が書いた小説のあらましはこうだ。

 主人公は古谷と同じ大学生の女性。働く事になったコンビニ、バイト先で好みの男性がいた。最初は女性の方は夕方、男性の方は夜という事で働く時間は一時間ほどしか被らなかったが、思い切ってその男性が働く時間でも働く事にして少しずつ話す機会を増やして距離を縮めていく。

 が、この行動に出たのは主人公だけではなかった。ほぼ同じ時期に入ったもう一人の同い年くらいであろう女性も負けじと少し遅れて割り込んでくる。

 客観的に見て意中の男性と気が合っているのは主人公の方でこのままでは勝てる見込みがないともう一人のライバルとも言える女性は、必死で稼がなければいけないという最もらしい事情を話して、自分を優先的に入れてほしいと店長に相談する。

 それを了承してしまうと夜の時間帯、人が余ると判断した店長は誰か別の時間帯に移ってくれる人はいないかと探す事にした。そこで最初に声をかけられたのが主人公であった。

 さらに夕方の時間帯はできれば早朝は無理で、夜十時までしか働けない高校生を優先させたい、大学生の主人公であれば早朝の時間帯も出られる日があるだろうという話を持ちかけられてしまった。

 提案された通りそれは可能だったためまさかの少しの時間でも会う事は許されない早朝の時間帯へと移る事になってしまった。

 そこから視点が男性視点に移る。なぜ彼女は朝の時間帯へと移ってしまったのだろうか? 残念でならない心境が綴られる。

 それだけならまだしも、代わりにどちらかと言えば苦手な部類に入る女性とよく一緒に働く事になってしまった。基本、無口で何を考えているのか分からない、暇な時に雑談目的で話しかけても返事がぎこちない。愛想の良さは主人公と雲泥の差。夜十時を過ぎると二人きりになりそれが余計に苦痛であった。

 数ヶ月後、いよいよ耐えきれなくなった男性は自分も働く時間を変えようと決心した。しかし突然、早朝へ移るのは不自然かもしれない、そう思われるのが嫌で、仕方がなく深夜帯へ。それだと店長も人手が一番薄い時間帯への移行で歓迎された。

 だがこれで深夜番から朝番への交代で再び主人公とすれ違いざまではあるが再会を果たす事にもなる。

 なぜ彼も働く時間帯を変えたのか? もしかして……ここからまた視点は主人公へと変わる。

 「お疲れ様」だけでは物足りなさ過ぎる、もっと話したいけど話しかけれない、そんなもどかしい両者の想いを叶えてくれたのはある一人の新人アルバイトであった。

 その新人アルバイトは遅刻癖があり、深夜帯の一人に来てくれるまで残ってくれないかと頼まれる事が多々あった。

 そこで残ってくれたのは……これをきっかけに男性の方はどうせ彼が遅刻して残る事になるなら最初から僕が朝まで働きますと事を言ってに思われず男性の方も朝番でも働く事ができた……。

 二人がレジ台の前で肩を並べて見つめ合い今度は「おはよう」と挨拶をして、きっとこの後は二人はさらに仲を深めてゆくゆくは付き合う事になるのだろうと予感させるところで終わる。

 高性能な知能を持った人間が自由に考えられる創作話なのに特にそれらしい事は何にも起きない話である。が、これがにあった話を土台にしていると途端に説得力のある話に仕上げる事に成功していた。

 それを持たせる事によって読者を惹きつける事ができると古谷は知っていた。こういう事ありそうと思わせる事によって。そういう意味では今までで一番自信を持って書く事ができた。

 エンタメ性が強い、映画にもできるような話を書いた方が角岡には優しいだろうとも思ったが敢えて退屈気味にしてその説得力で勝負してみた。

 ちょっとつまらなかったと言われる覚悟もあるが、もしも肯定的な意見が出てきたら、きっとこれが面白いならプロが書いた小説はなおのこと面白いと思えると積極的に他の本も勧められて読書好きを一人増やす事ができるかもしれない。

 もっと若い人にも活字だけの本を読んでほしいというのが古谷の密かな願いであった。

 意外にも早く読んでくれたようだ。次の日には読んだと言ってお待ちかねの感想を聞かせてくれた。聞きたいけど、聞きたくないような、こんな気持ちになるのも久しぶりであった。角岡のなんとも言えない表情、これはいまいちな評価か、構えるように言葉を待つ。

「いや、なんというか読み終わって不思議な感覚になったわ。読み返してみればそんな特別な事なんて起きていないんだけど、どんどん読み進められて、最後はえっここで終わり? って思って……もっとこの続きが読みたいって思ったの、かな?」

「なる、ほど。そうかもね。例えばこれが恋愛映画だったらここまでが第一幕で、次の第二幕から本番ですみたいな流れだと思うから」

「そういう事か。だったらこの続きも書いてよ。私は絶対に主人公を遠回しに追い出した子がこのまま黙っているはずないって思うんだけど」

 この続きがあるとしたらどうなるだろうか? そこに想像を及ばしてくれて、それだけで嬉しくなった。作品を通して読者が何か色々と想像を働かせる、考えてくれる、これも狙いの一つにある。

「続きか〜そこはまだ考えていないけどゆいがそう言ってくれてこのお話もまだまだ広がりそうだなって思う。確かにあの子がこのままでいるはずないかもね。言われてハッと気がついたよ」

「でも、ちょっと嫌な印象で書かれているけどこっちの子の気持ちも分かるな。そういう行動に出たくなるのもそうだしあと……好きな人の前だと極端に緊張して、もう頭が真っ白になって何もできなくて相手側から見れば俺のこと嫌いなのかな? って思わせちゃうくらい恋愛が下手な所が」

「へぇ〜ゆいがそこに共感するなんて意外かも。しかもちゃんと読み取ってくれたんだね。好きなのになんで男性側にそんな印象持たせるの? って矛盾した書き方して、それにはこういう理由がありますって説明する文はなかったのに」

「それは、数少ない二人との会話からそんなところかなって思ったのと……それと私もきっとこんな感じになっちゃうだろうなって重なる部分があったからだろうね」

「えぇ〜そうなんだ。それこそ意外だよ。普段のゆいからは全然、想像できない」

「ほんとこの持ち前の明るさが誰にでも、好きな人の前でも出せればいいんだけどね」

 最後はしんみりと話したゆい。その表情を見て、そしてポロっとこぼれ落ちたしずくが床に落ちて飛沫しぶきが跳ねる。その透明な雫にはゆいのあまり思い出したくない、でも時おり脳裏をぎる過去が映し出されているように見えた。


『……くんがね先日、俺の前では急に無口で暗くなるから嫌いなんだろうなって言っているところ聞いちゃった。ゆい、やっぱりここから挽回するのは相当厳しいかもしれないね』


 ため息と同時に吐かれた言葉を確かに聞いた。彼女のかげを見てしまった。日頃、接する姿からはなかなか見えてこなかった暗部を初めて。

 この話が角岡に突き刺さったのは間違いなかっただろうが、炙り出して良かったのか怪しい過去をくっきり浮かび上がらせてしまった。

 小説とは、言葉とは、誰かを傷つけてしまう危険性もはらんでいる。ちょっと予想外の作用が生まれてしまったかもしれないと唇をギュッと閉じた古谷。

「里英は好きな人の前でも普通でいられる?」

なにやらその質問には切実さが伝わってきた。

「う〜ん、少なくともこの子みたいに無口になったり暗くはならないかな。頑張って気に入られようと努力すると思う。とは言ってもまだ彼氏できた事ないんだけど」

「私も。正直、私はこの子みたいに近いものがあるから、このままだとできないんだろうなって思ったりしているけど」

「そんなの分からないじゃん。そう自覚しているならな変わる努力をしていこうよ」

「……そうだよね。分かっているんだし逃げないで克服して行かなきゃね。まずは好きな人を見つけるところからだけど」

「頑張ろう。私もできる限り応援するし。恋愛経験が乏しい私ができる事なんてたかが知れているかもしれないけど」

「そんな事ないよ。誰かそばに居てくれるだけで助かる事もあると思っているし。ねっ、今度は失恋した後にめでたく待望の彼氏ができる話書いてよ。里英の書く話ってすごく本当にこういう事ありそうって思えたんだよね。だから現実的にあり得るそういう話、考えてみてよ。どうせ世に出ている恋愛ストーリーなんて非現実的なものばかりでしょ」

 現実的に起こり得る恋が成熟する話。そんなものを果たして小説にする価値はあるのか? またすごい注文をしてきた角岡だがこれも一つの助けになるなら、先ほどの言葉に嘘をつきたくない。無理だと断る事は心情的にできないでいた。

「地味にハードル高そうだから、書けるか分からないけど、良いネタを思いついたらなんとか書いてみるよ」


 ぼんやりとしながら街を歩く古谷。こころはどこか上の空といったところか。早速、帰りの道中で良い案は思いつかないかこねくり回している。

 ふとあのコンビニへ寄りたくなった。わざわざ方向転換して向かう。今日はは居なさそうだ。のところはどうなのか確認してみたくなったが今日のところは叶わないか。そうと判断したら見切るように店内を出た。

 出入り口前で人々がほうぼうへ歩いていく様子を探るように首を動かして視線を突き刺す。

 を上手く利用できればまた新しいものが生み出せるはず、その欲求が強くなっていた。

 この後の用事はなかったので探索気分で駅周辺を歩く。フラットに流れているように見えても、どこかで波の浮き沈みが激しい事が起きているかもしれないと目を凝らす。

 おおよそ何百人もの男達が一斉に何かを唱えていた。呪詛とはこの事を言うのだろうか。歩みを止めて硬直する古谷。しまったと思った。またがやって来てしまった。

 前方、数十メートル先に丸い濃い黒色サングラスをかけて長い黒髪のカツラを被った男がいた。あれは地毛ではなくカツラだろうというのは直ぐに分かった。口はだらしなくよだれを垂らしているように開いていた。足を引きずっているのは相変わらずだ。

 この前、見た時とは大きく印象が異なり、また奇抜な格好をしているが外見が変わっても中身はそう簡単に変えられないように古谷にはあいつがこの前の男と同一人物だと迷う事なく見破った。

 変装をして自分というものを隠しているのか? それはなにか後ろめたい事があるから?


『悪いのは俺じゃない、悪いのは俺じゃない。言う事を聞かなかったあいつらが悪いんだよ。だからああするしかなかった、ああするしかなかったんだよ。なのに警察なんて呼びやがって。馬鹿じゃねーの。なんでそこまでするんだよ。ささっと大人しく俺の言う事聞けばそれで済んだろうによ、全く』


 今日は鮮明に男の叫びが聞こえてきた。もっと探ればこの言葉の背景を読み取る事ができるかもしれない。が古谷にそれを受け止める器、鋼の精神は持ち合わせていなかった。このままでは危険だ、後ろへ振り返り走って逃げた。

 その瞬間、ぷつりと張り詰めた糸が切れたような感覚になった。あのおぞましい合唱も途絶えたがそれには気にも止めずあの男から離れる事を優先させた。

 なりふりかまわず走っている最中、古谷はもしかしたらあの感覚は男の意識が途絶えた瞬間を捉えたのではないかと思っていたがまた引き返して確認する勇気はない。

 ハァハァと息が乱れるまで走った。たどり着いた先は東口のバスターミナル。

 言ってしまえばあの男は理不尽な文句を言う悪質なクレーマーなのかもしれない。そう、よくいる存在。だが運悪く警察を呼ぶ対応を取った所に当たってしまった。自業自得なのは言うまでもないが、男は非を頑なに認めようとしていない。その成れの果て、ただそれだけの話。

 ニュースにもならないような事だが男のショックは相当、大きいようでもはやまともに生活できているのか怪しいレベルだ。

 あのままもっと深く入り込んでしまったらその絶望感にこちらも錯乱でもしてしまったかもしれない。

 事実は小説よりも奇なり。いや、現実は一見、小さな事件でも当事者からしてみればとてつもなく重くのしかかり、直ぐに立ち直りが難しいほどの事件だという事だ。

 それもする覚悟はあるか?


 古谷は知らなくていい事を敢えて知る必要はないと結論を出した。自分が心穏やかに暮らす事、先ずはそれが一番だと。

 まだ胸が震えている。もうこれ以上、私の心を乱さないでと、そう懇願するように自宅のアパートへと急ぐ。なぜこうも続けて怯えながら帰らなければいけないのか嫌気がさす。

 もうこんな力はいらない、そう泣きそうになりながら天に訴える。だがその見上げた空は色褪せたような、薄い紫色に染まっており季節を失ってしまったようであった。これはあの男の心の色を表しているのか?


(了)


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