エネルギー吸収→(2)
「あっ、里英、お帰り。よかった、早かったね。さすがに開演直前だと並んでなかった?」
「ううん」
質問に答えたわけではなくただ曖昧に返事だけをして古谷は席には座らずしゃがみ込み、何か祈っているように背中を丸めた。
と、そのしゃがみ込んだタイミングで照明が消えた。湧き上がる歓声。一斉に立ち上がるファン。予定時間より十五分押しで開演した。
スクリーンにオープニング映像が映し出される。大音量の音楽。まだしゃがみ込んだままの古谷を案じる角岡だがもう声をかけても自分の声は届かなさそうだ。ただ黙って見ているしかできなかった。
古谷は顔を上げてその映像を見る。始まる前の気分をより高めるために作られた映像。その心意気は古谷も感じ取っているようで自然と頬を上げる。表情がだんだんと明るくなってきた。そしてゆっくりと立ち上がる。角岡にもう大丈夫だというニュアンスで頷き、安心させた……。
「あのさぁ、もしかしたら私、人混みが苦手なのかも」
古谷は帰りの電車内でこう打ち明けた。
最後の曲では互いに涙を流した。信じられないくらいの至近距離で推しのメンバーが見られた、銀テープもゲットできた、目の前で繰り広げられている光景、何もかもが夢のようで二人はそれを全部、受け止め切れるキャパシティがなくこぼれてしまう幸せをなんとか抱えて帰りの電車に乗る。そんなギリギリとも言える状態なので口数は少なかったが、とにかくそれぞれ目に焼き付いたものを思い浮かべながら良かった、やばかったと似たような感想を何度も言い合った。それがひと段落しての発言。
「そういうことか。でも、ライブ中はすごい元気だったじゃん。飛び跳ねたりして」
「そこはもう多分、大好きっていう気持ちが大きく勝って乗り越えたんだと思う」
「じゃあさっき、水道橋から電車に乗った時はきつかったんじゃないの?」
「それは、もしかしたら直ぐ降りるって分かっていたからそうでもなかった」
「そういえば人混みが苦手って聞いて高校時代、国語の先生もそんな事言ってたわ。その先生、映画や演劇を観るのが好きなんだけど両隣に人が居ると顔が青ざめて気持ち悪くなるっていうから、いつも席は一番端っこにしてもらっていざという時は直ぐに立てるようにしているんだって」
「その気持ち分かるかも。要は人混みと直ぐにそこから抜け出せなくなる恐怖というのが合わさって、そんな症状が出るってなんとなく思っているから」
「それが本来、息抜きにしている趣味で出るのは可愛そうだね。里英、これからはどうするの。ライブに行くのが怖くなったりしてる?」
「まだ、正直、怖い部分はあるけど、でも、ライブ中は全然平気だったし、なんとか上手く付き合っていこうかな。それに、もしかしたら今までの人生で殆ど人混みって言える場所に行った事がなかったから、いきなりこんな大都会に来て
「そうか、そっちの線だよ、きっと。十八歳まで通学は自転車で満員電車も経験してこなかったんでしょ。それがいきなり五万人以上の人が一ヶ所に集まった場所に来れば、そりゃあ人によっては圧倒さえれて目まいの一つは起こすって」
「うん。でも、それってつまり私ってお昼に言われた通りちょっとか弱い女子って事なのかな」
「そうなのかもね。私には理解できない世界かも」
ふふっと笑い合う二人。一時はどうなるかと思ったが終わり良ければ全て良し、この件についてはそこまで深刻に捉える事なく今日という日を終えた。
とはいえこれを機に人混みの中に居ると急に体調が悪くなるといった症状に悩まされている人はどのくらい存在するのか軽くインターネットで調べて見た古谷。あの日、経験した症状と照らし合わせ、人混みの中で体調不良になる人は不安障害の一種、パニック障害と主に言われていると分かった。
こういう人は決して少なくはないのではと思っていたものの、出てくる情報量からしてそれなりに訴えている人がいて認知されているという印象を持った。自分だけではないと分かるだけでもどこかホッとする。
調べ始めると色んなサイトにアクセスしたりワードを付け足したり、変えたりして検索してしまう。
その過程で『会食恐怖症』なんていう病名も出てきた。読んで字の如く他人と同じテーブルで食事をするとパニック障害と同様の症状が表れるという事だ。ほんと世の中にはそれが原因で? というような色んな病名があるとつくづく思う。
最初に異変を感じたのは角岡と昼食を食べた時。古谷はあの時の感覚を思い出してしまう。
一度、そのような経験をしてしまうとまた同じような状況になった時に発作が起きてしまうのではないかという恐怖が生まれて悪循環になってしまう予期不安というのもあるらしい。
なぜこんな事が起きるのか、原因は? というところに着目してみて要は自律神経の乱れからくるのではと言われているが、はっきりとした原因は明らかになっていないと言ってよさそうだ。これをすれば確実に大丈夫という対策もない。
今のところ病院に行こうという気はないが古谷は人間とは思った以上に複雑な生き物だとスマホの画面を真っ暗にして映った自身の顔を見て思う。世の中には色んな理由で体調を崩す人がいる、それを知るきっかけになった。
あの日以降も似たような症状は出たがそこまで酷いものではなかった。それにパターンというのも見えてきた。
やはり初めて、或いは普段は行かない場所、かつそこに人がある程度集まっていると緊張からか気分が悪くなる時がある。特にまだ大学に入学したばかりの一年生なので最初はそういった場面が多かった。しかし必ずしもそうなるとは限らず、その違いは何なのかまでは掴めていない。
なにはともあれ幸いにも生活していく上で支障はない、他人にも迷惑をかける事はなかったのでこのまま言った通り上手く付き合っていけると思っていたところでの急な発作であった。
しかも今日は今までと何かが明らかに違った。無意識にあの男の後ろ姿を思い浮かべると青白い煙が蛇のように絡みつき、頭の中で誰かが居座って聞き取れない、意味不明な言葉を呪文のように唱えている。古谷は耳を両手で塞いだ。
それがピークだったのかその数秒後、ざわめきはサッと地に沈みカツ、カツという誰かの足音が聞こえてきた。顔を上げて階段のある方向へ向くともうあの男はいない。ある程度、離れたことで悪夢は過ぎ去ったのかと思い当たる。
「大丈夫? ちょっとは顔色良くなってきた気がするけど」
角岡の声。「うん、良くなったみたい」仰る通り、そう言いたくなるのを抑えていつも通りの関係性にふさわしい返事をした。
「よかった。今のは何だったの?」
「分からない。ただあのまま進んだら危険だって判断したから止まっちゃったのかも」
「危険って……なに、動物的、勘ってやつ?」
「そうなのかな?」
「まさか、あの前を歩いていた男のこと? 私もちょっと歩き方とか、足を引きずっていて気味悪いなとは思っていたけど」
「うん……そうだと思う」
原因はあの男。それは間違いないと古谷も同意した。
「私ですらちょっと近寄りがたいなにかを感じたから、敏感な里英は余計感じるよね」
「うん、確かに怖かった」
「でも原因が分かってよかったよ」
「えっ、どういうこと?」
「だって、最初は人混みでもない、広い場所を歩いていただけなのにいきなり座り込んで、またあの時みたいに体調崩したの? って焦ったけど、原因はあの気持ち悪い男を見てしまったからだって分かったから」
そう言いながら先に立ち上がる角岡。
「……私、そんな理由でもこんな風に体調崩しちゃうってこと?」
しゃがみながら言う姿は助けを求めているようにも見えた。
「あっ、そうか。それはそれで問題ありか……」
新しい疑問が生まれてそのまま黙り込む二人。明日、月曜日の憂鬱で人はもう家に居るのか、改札前の通路と思えないくらい辺りもシーンと静まり返っていた。
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