エネルギー吸収→(1)

 休日の電車内、夜十時を過ぎているからか車内はガラガラである。窮屈に感じる事なく二人だけの空間を形成して今日、楽しかった時間を振り返っている。

『まもなく……』

降りる駅名が機械音声によって告げられた。電車が減速し始めると乗務員が改めて駅名を告げて乗り換えの案内も付け足す。扉が開きホームに足を付けて見慣れた景色を見ると今日一日が終わったと実感する。

 改札口を鉄道ICカードをかざして抜ける。その流れで駅の地下通路を古谷里英ふるやりえは友人の角岡かどおかゆいと電車内から引き続き談笑しながら肩を並べて歩く。右へ曲がり地上へ続く階段が見えてきた時だった。

 数メートル先を歩く男が居た。古谷の視界にその男が入る。ちょうど真後ろから見ている形だ。

 頭。紺色のヘアバンドのような物を付けておでこを覆っている。なぜだが目線が右斜め上を向いている。そんな具合だったので眼鏡が部分的に見えた。

 胴体。オレンジのジャンパーを着ている。フード付き。両手に皺くちゃになった茶色い取手付きの紙袋を持っている。中には新聞紙をいっぱいに詰めているらしい。袋からはみ出ているからそれが分かる。

 下半身。ベージュのズボンを履いている……そのさらに下、左足首があらぬ方向へ曲がっている。なぜなのか?

 そこから全体像を見てみると普通ではないと誰もが思う格好、いや状態だった。左足を引きずるように歩いている、視線は真っ直ぐを見ずに斜め上、既に意識がどこかへ飛んでいるのではないかと疑いたくなったが彼は今、歩いているのでそんなはずはないのだが、まともに会話を出来ないかもしれないと直感的に思った。

 そんな男をじっと見ているとジジッ、ジジッというノイズが聞こえてきた。ドクドクというリズムが後に続く。そんな音が聴こえ始めると男の向かっている先は階段ではなく、景色が一変して蒼い煙が充満する暗い穴へと突き進んでいく。

 そう空間の変化を認識すると聴こえてきた音はいつの間にか幾つも重なりまるで一つのノイズミュージックを奏でているようだ。キーキーという風で半開きの鉄扉が揺れて鳴っているような音も加わり鼓動、リズムが小刻みに鳴っている。

 ポチッ——どこかで聞いた事がある音。そうだ、レコードの針が回転しているレコードに乗る音に似ていた。

 だが音は鳴り止む。その合図は我に返ったとも言えた。幻覚は消えて元通りになる周囲。古谷は立ち止まっていたと先を歩いている角岡を見て気がつく。

「うん? どうしたの立ち止まって」

 角岡も隣に古谷がいない事に気がついて立ち止まり声をかける。

 その掛け声に反応は示さず、それよりもこのままのスピードで歩けば男を追い越すのは確実、だがあの男には近づきたくないという恐れで頭は埋め尽くされていた。

 古谷は視線をあの男から外して斜め下を向く。近づきたくないどころか直視すらできなくなっていた。

「なに、どうしたの?」

友人がおかしい、異変だと認めた角岡は小走りで古谷に歩み寄る。軽く腕を伸ばせば触れられるくらいに近づいた時には息が荒くなっていた。どんどん悪化していく。

「ちょっと!」

 遂にはしゃがみ込んでしまった。背中を丸めて額を膝の上に乗せる。角岡も身を案じて同時にしゃがみ込んだ。

「なに、またあの発作?」

あの発作、そう言われてみてハッとした古谷。確かに、これはあの発作と似ているかもしれない。しかし……。

「でもどういうこと? ここ人なんてまばらでしょ」

角岡が古谷の思っている事を代弁してくれた。そうなのだ。今、自身が立っているこの場所は人混みとは言えない。大丈夫なはずであった……。



 四月下旬。大学進学のため実家を離れて一人暮らしを始めた古谷はいきなり一大イベントを迎えた。大好きなアイドルグループのライヴに初めて足を運ぶ事ができたのだ。高校生までは生まれがそんな人気アイドルグループがライヴを開催してくれる事は先ずない地方出身者だったのでなかなか叶わなかった。

 それが首都圏の大学に進学したおかげで日帰りでも行く事が容易になった。古谷はあと二年で成人するというのに子供が初めて遊園地に行くように前日は眠れない夜を過ごした。

 JR水道橋駅を降りて直ぐに東京ドームの屋根が見えてきた。電車の中には同じ目的で水道橋駅に向かっている人と思われる人が何人も乗っており既に古谷の心の中ではお祭りは始まっている。駅周辺は早くも古谷が今まで見た事がないくらいの人でごったがえしていた。

 走っていると言っていいスピードでドームの目の前まで行った。早速、本日の会場をスマホのカメラで何枚も撮る。ほとんど同じ角度からなのに三、四回シャッターボタンを押してしまう事もあるほど興奮してしまっていた。そのせいかシャッターボタンを押す指も僅かに震えている。

 だが今はこんな事をしている場合ではなかった。逸る気持ちを一旦、抑えて東京ドーム正面に位置する22ゲート付近で古谷は一足早く会場に到着している角岡に無料通話アプリLINEを使い会場に着いたという内容のメッセージを送る。さすが角岡も常に気にかけていたのか返事が二十秒以内と早い。どうやらちょうど22ゲートから近いグッズ売り場に並んでいるらしく、しかも今なら通路沿いに並んでいて列に入りやすいから早く来てとの事だった。

 そのメッセージを既読にしてそのグッズ売り場付近に行くとそこを少し通り過ぎた先の奥から誰かが顔を横から出して盛大に手を振っている。角岡しかいない。よくそこから見つけたものだと感心する。さすが視力は裸眼で未だに2・0あると言うだけある。

 古谷は近くまでは行くも角岡は列に割り込む事を要求している。それには気が進まない様子だった。

「良かった、早く見つかって。ほら、早く」

とはいえここは従うしかない。拒否して正直に最後尾から並んだら今度は角岡との関係がぎくしゃくする。古谷は申し訳なさそうにロープを跨ぎ角岡の元へ歩み寄る。

「あの、ごめんね。遅刻しちゃって」

古谷は先ず謝った。そもそも自分が寝坊して遅刻しなければ列も割り込まずに済んだというのが余計に胸を痛めた。

「それはもういいよ。里英は今日が初めてなんだし」

「何度も何度も明日のために少しでも寝なきゃって思ったんだけど、眠れなくて。だからもう一睡もしなくていいかなって思ったんだけど、まさかいつの間にか寝ちゃってて……」

「私も似たような状態には何度もなるけど、ってか昨日もそうだったし。でも、そこからちゃんと時間通りに起きれないあたり里英もまだまだだね。これから慣れていこう」

「うん。でも本当にゆいの言った通りこれはグッズ買うのに相当、時間かかりそうだね。正直せいぜい一時間くらいで買えると思ってた」

 古谷達が現在、並んでいる所ではグッズ売り場となる特設テントは見えない。ここから何度も、もどかしいくらいグルグル回りようやく辿り着けそうなくらいに列は長く、いくつもその列が区切られて作られておりその光景には開いた口が塞がらない様子の古谷。

「一時間で買えるくらいだったらあんなチケット取るのに苦労しないでしょ。グッズ販売開始まであと一時間だけど、そこから二時間は並ぶってみておいた方がいいね、私の経験上」

「ゆいはそのさらに一時間前から並んでいたんだもんね。約四時間か……」

 一緒に行ける友達を持てて感謝する気持ちと、やはり後から来た者はちゃんと並ぶべきではないのか複雑な思いが絡んだ。

 ちょうど真上に太陽が燃えていたので肌寒い気温だったが寒さは凌げて待つ事ができた。が、列が動くとたまに高いビルの影にあたり一気に地面の冷たさが伝わる。そんな激しい気温差とも戦い少しづつ前へと進む。ようやくテントの白い屋根が見えてきたと思っても遠回りするように何周もクネクネ曲がる事になり近づいてそうでまだ遠い。この阻まれているような道中、古谷にとってはちょっとした試練に立ち向かっているような面持ちであった。

「お待たせ!」

 並んだ列が運良くスムーズに会計が終わり古谷は先にグッズ売り場の出口近くで角岡を待っていた。その角岡も十五分後、ようやく抜け出す事ができて合流する。

「もう私の列、すごい数のグッズを買う人が多くてさぁ。極めつけは次で私の番だっていうところで、前の人が五万くらいの買い物しててさ。それで何度も何度もスタッフさんが後ろにグッズ取りに行ってて、その間にも隣の列は次々と会計が終わってて遂には私より後に並んだ人にも追い越されちゃって、この間に欲しいグッズ売り切れないか不安だったよ」

角岡は角岡で自分にしか分からない不安と戦っていたそうだ。

 時間はちょうどお昼の十二時を回っており昼ご飯を食べようという事になる。東京ドーム敷地内には多数の飲食店があるので探すのに苦労するという事はない、どこにするか迷うくらいだ。それと同時に初めての東京ドームという事で古谷のためにこの中を歩き回って観光もする事にした。

「普通にライヴとか関係なく今日一日ここら辺を回るだけでも時間潰せそう。わっ、すごい」

 ラクーアエリアを歩いている時に一瞬の轟音と叫び声が聞こえた。サンダードルフィンというジェットコースターが建物の穴を抜けて走っている。こんな野球球場に遊園地とショッピングモールが一体となっている場所など古谷の地元では望めるはずもなく半ば放心状態であった。流石あの読売巨人軍のホーム球場である。

「あっ、東京限定ご当地コラボグッズは今日の分、売り切れだって」

スマホで情報をチェックしていた角岡が言った。

「うそ、もう売り切れたの?」

「良かったね私達は間に合って。おそらくこの情報が出たのが五分くらい前だから私達が買い終えて、三十分後くらいで売り切れたんだと思う」

 グッズを買ってから三十分以上が経過している。そろそろ歩き回ったのもあってお腹が空いてきた、そう思ったと同時にたまたま見かけた看板に古谷は立ち止まってしまった。角岡がその様子を見ると「なに、銀だこ食べてみたいの?」と視線の先にあるものを見ながら問うと「う、うん」と答えたためお昼ご飯は銀だこに決まった。

 入ったタイミンが良かったのかどこの飲食店も混んでいるという印象の中でここは比較的、空いていたため室内の席へスムーズに座る事ができた。

「なるほど、噂に聞くだけあって確かに美味しい。里英、ナイスチョイス。ただ熱い……」

予想以上にころもの中が熱いらしくやや食べるのに苦労していたが、角岡もまだ食べた事がなかったようでその味の美味しさに驚きも濃かった。朝早くからグッズ売り場に並び長時間立っていた後の食事は格別に美味いと思いきや、古谷の顔には影が差し込んでいるように暗かった。うつむき気味でもある。

「……どしたの? なんかあんまり食べてないみたいだけど」

何より手が動くスピードが遅く全く食事が進んでいなかった。もうお腹いっぱいという頃合いには程遠く、なぜこんなに美味しいたこ焼きを口に入れないのか角岡には理解できないでいたので心配の声もかけたくなる。

「ごめん、なんか急に食欲が無くなってきて……」

首を傾げながら小声で言う。この急に襲ってきた症状に古谷もかなり困惑している。

「もしかしたら緊張のせいかな? 初めてのライヴで」

「緊張のせいって。里英、そんなか弱い女子だったの?」

「いや、私的には今までそんな自覚はないんだけど、部活の練習試合の時とか緊張でお腹痛くなった事は何度かあったし、それと似ているんだよね」

「練習試合って。里英って文芸部って言ってなかった? 何の試合があるの」

「あっ、中学時代は剣道部だったんだ。でも私、勝ち負け決める勝負事には全然向いていないって痛感して、一年で辞めたの。しかも剣道だと一対一だし」

「なるほど。はかま姿は凄い似合いそうだけど、里英が竹刀持ってあの独特の掛け声あげている姿は想像できないわ。どちらかと言えば弓道の方が良かったんじゃないの? あれなら体と体がぶつかり合う事もないし」

「うん、私もそれは思った。けどあいにく弓道部はなかったんだよね。」

「そっか。まぁ、その気持ちは分からなくないけど、本当に体調悪そうになるのはやめてよ。ライヴは誰も敗者は出さない優しい場所だよ。せっかくの初ライヴなんだから、体調悪くて途中で帰りましたなんて嫌でしょう」

「うん、ごめん。もちろん帰るつもりなんてないけど、ちょっとゆっくり食べさせて」

 水分をとると幾分か落ち着くらしく、古谷はいつも以上に水を飲みながらなんとか食べ切った。店を出て外の空気を吸うと、どうやらだいぶ改善されたらしくその後はいつも通りに過ごす事ができてひとまず安心する。


「えっ、最前列だったの?」

「そう、なのかな」

 角岡はスマホ画面に表示されている席番号を入念に確認する。

「やっぱりここで合っている! 里英、すごい夢の最前だよ!」

会場に入り所々に設置されている席案内表を見ながら席を探し二人は驚愕の事実を知った。

「アリーナA4ブロックってだけでもう神席確定だったから、その後の何列とか何番とかよく見なかったけど、まさか最前だったとはね〜」

席に座ってみてその正面に広がる景色を見て角岡は跳ねるように喜びをあらわにする。巨大スクリーンと白い柵。公演中はこの柵に寄り掛かりながら楽しめるという事だ。

「席が分かるのって公演二日前だしね。私もとりあえず最前ブロッックだったらもうどこでも良いやって気持ちでよく調べなかった」

「そこが電子チケットのハラハラするところだよね〜。そもそも初めてこのシステムになった時も、あと二日で当日ですけどチケットが手元にないってどういう事って思ったし。でも、里英様、ありがとうございます。やっぱり里英なら良い席を当ててくれるって思ってた」

「なにいきなり様なんて付けて。私は別に何もしてないから。こんなのただ運が良かったって言うしかないでしょ」

「その運、を引き寄せるのは誰かって言ったら里英のように誰にでも優しい人にやってくるんでしょ」

 あと十分で開演時間となっていた。周りの席はどんどん埋まり空席は無くなる。誰もがまだかと始まりのときを待っていた。緊張がより一層、高まる。古谷も例外ではもちろん無かったが、またあの症状が音も立てずやってきたと悟る。

(えっ、また……どうしてこんな時に)

しかも昼食時よりもひどいかもしれない。息苦しさ、吐き気といったあの時には無かった症状もある気がする。なぜいきなりこんな風になってしまうのか頭が混乱する。

 胸が苦しい、これはいよいよまずいかもしれないと焦り始めた。その焦りが余計に悪化に拍車をかけているのではないのか、もう冷静ではいられなくなった古谷は。

「(ダメかも)……ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね」

「えっ、トイレって、あと十分切っているよ!」

その言葉に立ち止まらず席を離れる古谷。小走りで後ろへと去っていく。

 壁に寄りかかり息を整える。実際に吐く事はなさそうだが「おうぇ」というような声を小さく出してしまった。

 本当に自分はこのままライヴを見て大丈夫なのか、すっかり遠ざかってしまったステージを見て真剣に考えた。出歩いてる人は少ない。開演間近なのだから当然だ。立ち止まっている自分はさらに目立ち、あの人は何をしているのか等といった眼で見られているかもしれない。

 深呼吸する。呼吸を意識した。そうする事で肩の力が抜けた。今まで相当、りきんでいたと分かる。

 一年でも剣道部に入って良かったと思う点はウォーミングアップで体育の授業では教わらないようなコツを教えてもらった事だ。

 そこでは呼吸を意識しながらやりなさいと言われた。息を止めずに吸う、吐くを意識的に行う。そして体に力が入っていない部分はないか点検しながら。

 力んでも良い事なんて一つもない、そう耳にタコができるくらい顧問の先生から言われた。稽古中、肩に力が入っていたりすると直ぐに指摘された。基本、穏和で優しい中年の男性であったが間違っている事をすると「違う!」ときっぱり言う厳しさも持ち合わせていた人だった。

 鼻から息を吸い両肩を上げる。そしてストンと肩を落とすと同時に息を吐く、このストレッチもそうだ、他の運動部ではやっていないようなアップ。それを何回か繰り返す。

 古谷はここで教わったストレッチを定期的に続けた方が良いと感覚的に思いずっと欠かさず寝る前に続けていた。何かの目的があったわけではなく、多少の運動はしているという自己満足みたいなつもりで続けていたが、その力まないというのは他の事をやる上でも大切な事なのではないかと読んだ。だからテストの時や受験の時も心がけていた。

 これからも、ずっとこの意識は役に立つ、その認識はこの状況になって正しかったと確信を得る。この時のための備えだったかと。

 今日みたいに体調が悪くなった、精神的に追い込まれた時には落ち着くために深呼吸して力を抜く。そう思うほどこの対処は効果的だった。

 とりあえず持ち直した気がする。乱れた心は整いスッキリしたように顔は凛々しい。剣道部に感謝の気持ちが込み上げる。

 古谷はまた急いで自分の席に戻った。

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