22
引き伸ばされた感覚。
そのなかで裸の女の子が振り向く。
長いまつげが震える。
髪と肩には水滴が滴っていて。
腕が弾んで、胸を隠して。
肩に髪が、ハラ、ハラ、と――、
「――す、すみません!!」
ソーマトの効果がなくなると同時、セイジは壊れそうな勢いで扉を締めた。仮にも自分を殺しにきたかもしれない、という相手との遭遇ではあるのだが、それでも裸の女の子を相手に冷静に対処しようというには、セイジは“まだまだ”だった。
悲鳴を覚悟していたセイジだったが、しかし
「……――失礼。濡れましたので」
飛んできた声は、思いの外に落ち着いたものだった。
「雨にあいましたの」
「……雨?」
「そう。風邪になるといけないので、エアコンの排気にあてて服を乾かしていましたのよ。ごめんあそばせ」
濡れたから衣類を乾かそうとした、というのはともかくとして、下着まで裸になってエアコンからの排気に服をあてるという発想は、逞しいというか、豪快というか。
「――あの……とにかく……ごめんなさい……」
「……マジでお気になさらないで。――それよりも? あなた様、あたくしのこと、もう聞いてまして? あたくしここの関係者ですのよっ!」
壁越しに、忙しなく衣擦れの音がする。
「博物館って好きですわぁっ!。あたくしが好きな郷愁(サウダージ)が満ちている」
言ってることは無茶苦茶だし、セイジだって流石に信じられないが、それよりまずは動悸を落ち付けたかったし、なにより今この場にゼラを呼びたくなかった。
セイジはかなり動転していた、パニクっていた。ゼラはここにいないのに、まるで浮気現場と勘違いされそうなところを見られたような気分だった。
なぜだか、どうしようもなく、セイジはこの女の子をゼラに会わせてはいけないような気がしていたのだった。
(…………に、似てる……すごく……! ――でも、どこが……? ……な、なんで、こんな似てると感じるんだ……)
美人だから、とか。
年格好だとか、髪の毛の色が明るいからとか。そういうことだけではない。何が、とは言えないのだが――。
「過去って、それだけで素敵。そう思いません?」
「え? あ、ああ、それはすごく同感に」
「ねえ、このこと内緒にしませんこと? お互いにそのほうが良いんじゃないんですの?」
「そ、それはもう……ええ、はい!」
「それと、なにかタオル的なもの、いただけませんこと?」
「え? あ、ああ、はいっ、これは気づかずに――」
つねに背を向ける感じでカニ歩きみたいにしてセイジがキョロキョロと周りを探った。ハンカチならポケットに入っていたが、あの長い髪と裸体をすべて拭うには不足に思える。と、カバンに、ちょうどよいものがあったことを思い出した。
「――あの。これでよければ、どうぞ。使って下さい」
「……え、これ、いいんですの?」
セイジがフアヌに渡したのは、薄手の白衣だった。
白衣にもグレードというか、よそ行きと普段使いがあるのだが、これは使い捨てもできるようなヤツで、大学の研究棟にいけばヤマと積まれていたりする。
持っているとナニかと便利なので、外出のカバンにぶち込む理系学生は、セイジでなくても、そこそこいる。
「…………」
この時。
フアヌの眼の前には完全に無防備なセイジの背中があった。
私怨ない相手とはいえ、ここでいま殺しに来ているはずの相手の切り落とせる腕と貫ける心臓があったというのに。
「obbligato」
しかし、フアヌはさして逡巡せず、見逃した。
衣類を整え、薄手の白衣で髪の水気を拭きとり――そのまま、裸のうえから素肌にのせて身に纏った。
「ごきげんよう、セイジューロ。また会いましょう、今度はゆっくり。コフィーでもご一緒しませんこと?」
刹那、フアヌの気配がかき消え。どぅっ! と爆裂するような音を立てて現れた灰色の影が、ダッキがたった今の瞬間にフアヌがいた空間を粉微塵に吹き飛ばしていた。
「……前にゼラと言い合いになったことがあるんです――」
しばらく額に手をやって項垂れていたカワナが、鳶色の瞳を、眠たげにすら見えるほど薄く開いた。
頭痛が酷くて寝込みたい、といった面持ちだが、それも当然だ。
予知能力。
千里眼。
そんな力の持ち主が目の前にいる、とそれだけでもキツかったが、それでもカワナは『眼使い』が他にもいるのか、とまずは確認した。が、同類がいたらそれもすぐ見える、というスミの答えに、目眩を覚えて椅子に突っ伏した。
まだ、居てくれたほうが、マシだった。
唯一となるともう、居る方の勝ちが確定してしまう能力だ、どう見積もっても。この世のどんな兵器より強い。というより、ほとんどすべての武器が無意味になる。
「ゼラと君はいつもやってるだろ」
「まだゼラが今よりずっと小娘だったころですよ、今も小娘だけど――本当に来て間もない頃。コンビニの肉まんで感動してて、胸も小さかった頃」
「あの頃は可愛かったな」
そして今ここに、ススキノハラスミがいる。
片方の陣営の、実質的なトップの一人と言っていいスミが、あろうことが何度も何度も私の友達だ、仲良しだ、と口走りながら――今のこれを理由に、もう賢連は、いつでも総攻撃を仕掛けられるだろう。
「なにがキッカケだったかは忘れてしまいましたけど……『カワナは魔女じゃない』って言ったんですよ、あの子が」
あの島にはマナ使いという希少魔眼の持ち主がいる。それは保護対象魔眼である。島は非戦地と決まっている。
そこまではカワナも知っていたし、まあそんななら強いか、何かしら厄介な類の魔女なのだろう、とは思っていたが……想像していたより、ひどかった。
「まあ私はそもそも魔女よりも剣士よりですから、その言葉自体はそれほど腹が立つようなことではなかったんですけど――このお酒もらいますよ」
「あの、それ料理用ですけれど」
「構いませんから頂きます」
おそらくは度数がそれなりに高そうな紹興酒を、カワナは瓶から直接サラサラと喉に流し込み、音も立てずに瓶を置いた。
瓶首を掴んだ指は離れない。
柔らかな仕草のせいで錯覚しそうになるが、とんでもない量が一発で消えていた。
「あの頃のゼラとしては、あれが最大の侮辱の言葉だったわけです。そしてそれが態度で伝わりましたから、まあ大人気なくも当然ながらブチのめしたんですけれど。――アノときも私、すこし酒が入っていましたしね」
イズミカワナ、あなたは魔女じゃない。どうしてそんなに憎いというならさっさとススキノハラに挑まないの? かつて倒されて悔しいから、いつか屠ってやるんだ、それはいいわ、けれど理由がなんてみっともないの。
「君ら、そんな話をしたことがあったのか。なんでまた」
「だからなにがキッカケだったのかは思い出せないんですって。ともかく私が言ったのは立場と大局というものがある、ってことです。いまスミ先生と私が仲間割れしたなら喜ぶのは魔道士側だけで均衡が崩れたらそれこそお前が困るのよ、って。そしたら――あれはまるでなにかのスイッチがはいったみたいに見えた……仰向けで鼻血を拭きながら、目だけは気色悪いくらいギラギラさせて言うんですよ、それはもう――」
錬金術師は、それだから駄目なのだわ。ねえカワナ、私が教えてあげる。一度戦うと決めたなら、倒す以外のことなんて考えなくていいのよ。別にヤバくも凄くもなくない? だって、あいつら(魔道士)と滅ぼしあい戦い殺し合うことは、もう決まってるでしょ。私はお母様とお父様に酷い仕打ちをして城(いえ)を壊した連中を許さない。――ワナ、カワナは自分(カワナ)自身のことじゃなくて、ALI(こちら)とか、賢連(むこう)とか、関係ない他人のことばかり。あのね、聞きなさい。自分の手も目も力も届かないことを考えるなんて、そんな見苦しいことはデシャバリでバカな女のすること。魔女は、違う。魔女は違うわ。魔女が想うのは自分。自分だけ。自分にとって大事なものだけ。自分と、自分の男、自分の子。自分の犬。自分の真の友。ここまで。ここまでよ。ここまでしか愛を分けない。愛さないならどうでもいい。けれどこの愛を侵されれば魔女は怒る。自分のため、自分の家のために必ず戦う。それで世界がどうなろうかなんて、どうでもいいのよ。魔女はその魔眼でこの星の大きさを見ているはず。己の儚さを識っているはず。女一人の力が届く境目を識っている。――恋した男は手に入れて、可愛い子供は好きなように育てて、犬と友達と遊ぶ――コレ以外はしない、コレ以外はできない。出来もしないことを口先だけでいじくるような見苦しいこと、女はしてはダメです。
「……なんとも……。強烈ですね……」
マーガレットが呟く。
ススキノハラは、イヤイヤながらという態度を隠しもせずに、それでもカワナが料理をやめてしまったので代わりに水場で米を研いでいた。米研ぎに関してはそれほどもたついてもいない。
「きっとそれは、ゼラの母親の言葉そのままの通りなのだろうね。子供ってのは親の真似を完璧にやってのけるものさ。……まあ、マジメに魔道士ぶってた頃があったんだな、あのコギャルにも」
「……魔女とはかくあるべし、女とはかくあるべし――。多分、今のゼラだったら『古草っ、馬鹿みたいだよね』なんて言うでしょう」
カワナがしてみせたゼラの声真似があまりにも似ていたのでマーガレットは驚いたが、ススキノハラは反応せずにシャカシャカ音が乱れなかったところを見ると、普段からたまにカワナは真似しているらしい。
「――けれど私は、正直なところあの時のゼラ……というより、ゼラあんなふうに育てたあの子の母親のことを――心から恐ろしいと思った……。私、勘当されていますから、自分の母親とも仲が悪かったというのもあるんでしょうけれど――あれは怖い女の娘なのだと思い知りました。なにせゼラのそれは鞭で叩き込まれたモノではないんですよ、歪みも恐れもなく、ただ真っ直ぐ『母のようになりたい』とギラついた目で信じて笑う子を育てるなんて。――ゼラの芯は、あの子の母親で染まっていたわけです。あー、違います、今もです、今もあの子、芯はあのままですよ、変わっているようで変わってない。救いようがないくらい『雪と氷の魔女』ですからね、いちど漬かった漬物から塩も糠も抜けるもんですか」
瓶の酒がとうとう空になった。
泉川魚は酒に酔わない。
というよりは、酒が頭のほうにいかない。
アルコールがまわれば体は火照るし、気分も心地よくなりこそすれ、それで思考や視界にまでどうこう影響が行くタイプではない。
これは彼女の流派『氾濫』の血統に引き継がれているある種の特異体質でもあった。
「……それで?」
「はい?」
「その話で今あたしに何を言いたいんだ、カワナ」
「知りませんよそんなの。私いま動転していますから。酒もはいってそれこそ頭で考えることの一切をやめてヒト暴れしたら気持ちいいでしょうね。――けれど」
泉川魚の血は、乱暴な言い方をすれば、アルコールの恩恵だけを受け取れる。つまり『氾流』にとり、酒は純然と、一戦交える前の燃料、兼ドーピングなのだった。
「ゼラの母親が『眼使い』の存在を知った上でああいう教育をしたのだとしたら、あるいは逆に知らないでそうしていたのだとしたなら、尚更……。――癪ですけれど、ゼラは今の私のように、頭痛になったり酒が欲しくなったり、しないのでしょうね」
「カワナ。あたしは別にね、マーガレットにこれからALIの味方をしてくれと、そう言いにきたんじゃあないよ。あたしがALIも賢連も、魔道士だろうが錬金術師だろうが知ったこっちゃあないっていうのは前から言っているだろう」
「んなこと言ったって誰も信じませんよ」
「君とマーガレットさえ信じてりゃいいんだ」
油の跳ねる音が賑やかに鳴り、美味しそうな炎が鍋からあがった。マーガレットの料理の腕は、ちょっとした料理好きとかいうのの範囲を超えているようだ。しかもそれらを半分くらいは座った状態のままこなす。
スミが大皿を棚から何枚かみつくろった。
「これから世界は荒れる。だから、その前に、一度だけ顔を見たかったんだ。見せたかったんだ。あたしだけじゃない。ゼラとサミ君のことさ」
マーガレットは無言で、油と水分が奏でる音色に集中していた。茹でる料理も挙げる料理も、突き詰めていけば塩梅は音で拾うしかない。
「マーガレットはこうしているがね、イイヤツなんだよ」
酒瓶を片付けようとしていたカワナがスミに背を向けたまま少し吹き出して笑った。諦めとも嘲りともつかないような笑いだった。
「マーガレット“も”他人を見捨てられない」
白い皿のうえにとろりと牛肉の風味がとけたソースが拡がる。揚げたオニオンとポテトをソースに触れるか触れないかのところに並べる。
「いつかなにもかもがマズイことになって、その時――マーガレットなら二人をどこか良いところへ、せめて飢えないようなところへ、逃してやれると思う……ちょうどあたしたちが、この島へあの時代に流れつけたように」
「――スミちゃん」
愚痴が過ぎたかな。
殆ど独り言のようなスミのつぶやきには、マーガレットもカワナも応えなかった。
「他に食べたいメニューがあったら、言って。私とスミちゃんは、しばらくここから外にでられないもの」
「なに?」
「それでは、いってらっしゃい、カワナさん。ご武運を――」
突然、島が揺れた。
無論、本当に島が揺らぐはずもないのだが、揺れたかのように錯覚するような轟音を響かせる程度には、その船の着岸は酷かった。
カ――――――――――――――――――――――――――――!!!
ワーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!
ナーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!
そしてその轟音よりも更に酷い、声が。
どんな強力な拡声器を使ってもこうはなるまいという音量と歪で、しかし明らかに拡声器など使っていない生声が、降り注いだ。
カワナが大きく舌打ちした。
そして一切の躊躇もなくその場で服を脱ぎ捨て、裸になりながら術着を鞄から引き出し、まるで一挙動に纏った。結びの衣擦れはもはや一つの音にしか聞こえないほどの速さだった。
袴に胴衣という全く魔法などとは縁遠そうに見えるその姿だが、これが魔女としての泉川魚の正装、いや、単純に最も効率よく闘いやすい姿なのだ。仕立てには氾流式の魔術的、あるいはカワナ式の戦術的な裏付けが織り込まれている。
迷いなく、櫂剣を手に駆け出す。
キッチンを出ると同時、
「でてこないでくださいね。お二人」
扉を外から櫂剣で殴りつけ支え棒ごと鍵をつぶし、更に体を回転させての連ねたもうひと殴りで、扉ソノモノを床にめり込ませ、あとは振り返りもせずに駆けて行った。
「……カワナ、あの野郎……トイレどうするんだよ……」
「トイレならキッチンにくっついてあるから大丈夫」
「――そうかい、そうだよな。君のことだものな」
「そうでなくても、水回りは同じ場所になるものでしょう」
内側から見ても分かるくらいに変形した扉を見て、スミがため息を付いた。
高く。
空に舞いながらフアヌ・ノリーズが微笑んでいた。
「サミー? サミー、サミー? サミー・セイジューロ。セイジューロ!」
まさか鉢会わえることになるなんて。
まさかあんなふうな男だったなんて
まさかこんなにも予想外なカタチで。
「なんですのあの灰色の毛むくじゃら。あんな化け物がいるなんて聞いてませんわよ。人間以外とやりあうのはごめんですわ」
フアヌは自らの迂闊を恥じたりしない。
先行に失敗したことに反省したりもしない。
勝つのが大変そうというだけの理由で、戦いたくない相手からさっさと逃げたことにも、なんの気負いも感じてない。
そんなことより。
今はもっと大事なことがあるのだから。
「あれはラムジェシカさんかクルセスカさんが責任もってなんとかするべきですわ。そうそう。ええ、私(わたくし)が打ちのめす相手は――」
フアヌが魔眼『傘使い』の右目を閃かせた。
魔眼幻視で捉えるのはクルセスカが一切の減速を許さず岸壁に激突させ、そのままめり込ませた豪華クルーザー。
いまや船体はへし折れ完全に挫傷し、破壊され尽くした電気系統から火花がパチパチと散っていた。
その無残さたるや、いったい何億何十億する船舶なのかは分からないが、見るものがみれば卒倒する有様だ。
「(華麗なるフラミンゴの空)」
フアヌが『傘使い』の魔眼を閃かせ号令を呟くと、そんな船の死骸から、まるで死肉を喰らっていた蝿が舞い立ったが如くごうっと一斉に何かの影が吹き出した。
フアヌの忠実な『傘』の群れだ。
「――kkk……kkkk(クククク)」
傘の魔女がヒクヒク笑った。
白衣を顔に押し付けて息をすい込んだ。安物の白衣でも、その美貌に纏うと、まるで天使の翼衣のようだった。
「やっべぇ」
笑う。
頬を染めて笑う。
生まれ故郷の国で咲く大樹の毒花が、繁殖期には視界を覆い尽くすほどに赤く咲くみたいに。
灰色の影に遅れて駆けつけるゼラの姿をその目で、魔道士式の術式が刻まれていながら、両目ともに視力4.0に迫ろうかという瞳で認める。
「kkkk!」
ファヴェラ(貧民街)の小娘から貴族のお嬢様になった『傘使い』。
妾腹の隠し子ですらない、娼婦との落し種だった。
突然に本家の娘達が全員病死したとかで呼び戻された。
あの日、バルト・ノリーズ(初対面の父親)に向けて浮かべた、あの時の笑みよりも、もっと華やかに、もっと。
幸せな運命を胸に感じたときは、素直に笑え。
「Quem ri por último ri melhor(最も笑っている者が、最後には勝つのだから)!」
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