16
「島の景色ってやつは、ゾッとするくらい変わらないね」
歩きながら、スミがつぶやいた。
ダッキの灰色の後ろ髪の隣では、ゼラの明るい色の髪が揺れている。
セイジには理由が分からないが、ダッキはとにかく自分から話すことが出来ないというが、そんなことはお構いなし、とゼラは一方的に
――あなたどこで生まれたの? あなたはどのくらい生きてるの? 魚と獣はどっちが好き? あなたの家族は? ――
延々、ダッキに話しかけている。
ダッキはもちろん返事をしなかったが、視線でちゃんとゼラの相手をして、つまり答えてはいないが、無視はしていない。
(本当に、珍しいな、ゼラさん……)
ススキノハラは数歩ごとに景色をぐるりと見返すような歩みをしているせいで、遅れがちだったが、そこにセイジは歩調を合わせた。
ダッキもひょっとしたら心配性なのかもと思うくらいコマ目に振り返り、みんながちゃんとついてきているか確認している。
島の道は申し訳程度の舗装しかされていない。
「今でこそこれだが、そこそこ賑やかな頃もあったんだ。この島。サミ君、戦後の日本っていうと、君らの世代はどんなイメージがある? 第二次の大戦」
「え? えっと――……そうですね、やっぱり、悲惨というか……戦争で、それもましてや敗戦なわけですし当然でしょうけれど。でも、なにより印象的なのは『飢え』とかでしょうか」
「間違ってないね」
「祖父母も曾祖父母も、よくそんな話を。いつも腹をすかせていた、と」
「なにより『飢え』の時代だった。戦中より本当の飢えは戦後にあった。あっちでもこっちでも飢えていた。飢えると人間、本性がでてね。――自分が辛い時にどれだけ他人にしてやれるか、というのが、その人間の本性だと、誰かが言った。しかし皮肉さ、そうなるとね。優しいというか、まあつまり甘い人間はますます甘くなり、醜いヤツはますます醜くなるってことだ。……すると、どうなるか? ふふ。嫌なものだったよ。目に入る者すべてが露悪的でね。あたしは――」
セイジは、何度か頷きながら、スミの、長く途切れない思い出話を、聞いていた。
普段、ユノカ教授の話し相手をする時もそうだが、年配者の話を聞くとき、セイジはほぼ、聞き役に徹する。
それが話す当人の過去を含む話ならば、なおさらだった。
実家で祖父母に幼いころ可愛がられたから、年寄りの話しを聞くのが苦ではない、というのもある。
だがそれより、そこにはセイジなりの哲学というか、科学屋を自称するうえでの信念めいたものもあった。
生きている時代が違いすぎるのだから、老いた人の話す言葉の意味やその背景を、どうあっても若者は真の意味で理解することは不可能だ。
ならば半端に無責任な異論反論は慎む、少なくともその場では。
仮にどれほど自らの考えと違っていても『過去』に置いて、若者である自分には『知識』しかなく、しかし老いた人のそれは『経験』の言葉であるから。――過去、時間、経験。これらは何より貴重な『資料』なのだから。
往々にして、こういうところがあるせいか。セイジを相手にすると老いている人は、どんどんと話すことが多いのだった。
「良心だの善意だのがある人間ほど、そうでない人間に虐げられた。この世はろくでもないよ。まあ何にしても酷いもんだった……。――でもね。この島は、そういうふうにならなかったんだ。だから、ここにあたし達は、逃げてきた」
話している間は、過去に想いを馳せていたのか、どこか暗い表情だったスミが、ふと、微かに笑みをうかべてセイジを見た。
「つまりここには戦後でも食べ物があったのですか?」
「そう。この島の戦後に飢えの記憶はない」
「飢えがない? 全くですか?」
「ただしくは、ここいらの島いくつか。だね。食べ物はいくらでもあった。パン、マーガリン、ステーキ、缶詰、チョコレート、ケチャップ、チーズ、インスタントコーヒー」
「あ、なるほど」
羅列された食べ物を聞いて、セイジが思い当たる。
「米軍だ」
「そのとおり。ネイビーがいたのさ。あいつら停泊地に島を選んでいたんだ。本土からほどほどに距離があって住民が数えるほどしかいない島。つまり、こういう」
「そして交流があったんですね。島民達と」
「ネイビーはアメリカから食べ物をいっぱい持ってきている、だが毎日似たようなものを食べると飽きてくる。目の前には魚をとって食べる日本人。自然な流れで、フレッシュフィッシュ・プリーズ、交換しないか、とね。この島にかぎらず、戦後の日本にはいくつかそういう『飢えない島』があった。つい最近まで互いに敵だったわけだが。漁師も海軍も、海にいる連中というのは……どこか、なんというんだろうね。楽天的とは違うんだが、現場主義というか」
「リアリストだった」
「ん、まあ、そんなとこか。海という『死』が身近だからだろうな。なにせ人というのは一緒に食べたり飲んだりすると情が湧く。ある時は刺し身を作ってやったのに焼いて食べようとするのを無理矢理に食わせたり、ある時はチーズが食えないっていう奴に、お返しだとばかり食わせたり、ね。あたしはもともと洋食が好きだったし、英語もわかるしで、居心地がよかった。夜はあたしのバイオリンにあわせて踊ったりして、楽しかったな…………」
「そのまま映画にできそうな話ですね」
「ナンパもよくされたよ」
そりゃあそうだろうな、とスミの若がえりによる姿を見たことがあるセイジは思ったが、同時にあの美形というだけではなく高貴さというか、侵し難い迫力を持ってるたあのスミの若き日に愛の言葉をかけたのだとしたら、そのアメリカの人はなかなか男というか、勇者だよな、と同時に巡らせたりもした。
「ふふ………この島で大事なことを学んだ。――人生で最もすべき努力は『怠ける努力』ってことさ」
ススキノハラが舌を出し、わざとらしいくらいに笑ってみせた。
「いついかなる時所(とき、ところ)でも、工夫さえれば必ず怠けられる。必ず楽を出来るメソッドがみつかる。寝ルヨリ楽ハ無カリケリ、浮世ノ馬鹿ハ起キテ働ケ。君も、これを座右の銘にしなさい」
島の中央、つまり小高くなる山のなかに向かって続く道は、次第に狭くなり、頭上を木々が覆って空が見えないような景色になっていった。
「あたしの知る世界の真実の一端だ」
「でも、この島がそんな感じだって、よく当時に分かりましたね。辿り着けたのが凄い。だって有名だったら、もっと大勢が押し寄せたでしょうに」
「全てマーガレットのおかげなんだ。……あたし達は、けっこう長く、一緒に暮らしていたんだけどね」
舗装がなくなり、砂利道になり、短いトンネルを抜けると、先頭に居たダッキが歩を止めた。今一度、クルリと身体を捻って、全員を見る。
翡翠の瞳が――着いたよ――と云った。
「なんか……学校みたいな建物ですね……」
「……ほんとう」
セイジにカワナが同意する。
ゴツゴツとしたコンクリートの角ばった外観は、小ぶりとはいえ、たしかになにか一言で説明するなら「学校」だった。古く小さな田舎の廃校舎、といえば、かなり正確に雰囲気が伝わるだろう。
入り口の柵は、元のしつらえは立派だったようだが、今はもうボロボロになってしまっていて開けっ放しだった。まっ平らな屋上には八木式アンテナが傾いている。
そんな風なのに立て札が、これだけはピカピカに真新しく、まるで毎日書きなおしているみたいに鮮やかで、
『あなたのための博物館』
と、大きく筆字が白インクで描かれていた。
その下には木片が立てかけられていて、そこには油性マジックでササッと同じく館名と、くわえて「無料」「見学者は用紙に名前を記入」「ゴミを捨てないように」という内容が日本語にくわえ、英語、フランス語に中国語はもちろん、アラビア文字やポルトガル語やら、とにかく沢山の言語で書き添えられていた。
「やっ……懐かしぃ……」
カワナがなんだかそわそわしていた。
玄関(エントランス)まわりも、まるでというか完全に、いわゆる『小学校の来客用玄関』の趣だ。
「……やっぱり学校だわ、これ……古い学校。ほら、この小さいサイズ感」
「学校ですよね。いや、地方の資料館にも、こういうのありますけど」
「私の行ってた小学校、こんな感じでした、見てみて、このへんとか、すっごい学校っぽい、やだ、もう、凄く懐かしい」
もちろんカワナとセイジの通った学校は全然違うが、そんな二人が同時に懐かしいと感じるのだから、不思議だ。
「このあたりも。もうほら、全部。すごい」
下駄箱だの壁だのを指差してはしゃぐカワナは可愛かったが、ゼラはピンと来ていなさそうだ。
「あたしピンとこないな」
「ゼラは日本の小学校に行ってないもの」
「ていうか、あたしゲンエキだから。なつかしーってのが分かんないのかな」
「これ、やっぱり、もともと学校だった建物、ってことかな……」
セイジの呟きに、
「いいえ。はじめから、博物館として建てましたよ」
奥から新たな声が答えた。
「島にいた大工さんに頼んだのですけれど。その大工さん『コンクリートの建物は消防署と小学校しか作ったことがない』って言うものだから……だったら小学校でお願いします。って、そしたら、こんなふうに」
現れたのは、車椅子に乗った女性だった。ダッキがすぐさま傍らに控えた。
「……マーガレット……!」
「スミちゃん……久しぶり」
スミがマーガレットと呼び駆け寄った人物の風貌を、前もって聞かされていなかったセイジとゼラは、少々戸惑った。
顔面が包帯でグルグル巻きにされていたのだ。
「元気そうじゃないか……」
包帯に、車椅子。
ともすれば痛々しい、という記号的ですらあるその姿を見て、スミはしかし笑顔を浮かべている。
「スミちゃんも。相変わらず若々しくって、いいね」
「あたしのこれはインチキ」
スミにしては珍しい、本当に珍しい、何の一つも皮肉めいたもののない、明るく柔らかい笑顏だった。
「……マーガレット、君が元気でいてくれたことは、君じゃない100人、1000人が元気なことより嬉しいよ」
「相変わらず、キザなことをさらりと言うよね、スミちゃんは心が若いのよ、きっと」
表情の見えない顔が、セイジ達を向いた。
口と、鼻孔と、つまり空ける必要のある箇所以外は、本当に容赦なく覆い隠されている。目にも包帯は巻いてあるが、見えてはいるようだった。
「ようこそ、皆さん。メリークリスマス」
殆ど肌の露出がない服装だったが、ひざ掛けからのぞく足首の肌などは、どう形容していいのかが分からない色をしていた。少なくとも、軽い日焼けのあと、などという生易しいものではない。
ハンセン病、という知識がセイジの脳裏をよぎった。だがそれと断定できる特徴までは見当たらなかった。
「お茶を用意していなくてごめんなさい。こんなのしかありませんが、皆さんよろしかったら、どうぞ」
膝の上に乗せてもってきていたのは、茶色い缶コーヒーだ、Daidoの甘いブレンドを、セイジ達ひとりひとりに手渡した。
丁度いい暖かさで、ゼラが一口のんで嬉しそうに、美味しいと言った。
「ごめんなさい。私、少し、イロイロと、あって。こんなで。けれど他人に感染してしまうようなものではないから。安心して下さい」
マーガレットが自ら車椅子の車輪に、か細い指をかける。ダッキは従者のような素振りだが、椅子は押さないらしかった。
「館内(おうちのなか)へどうぞ。ちょっと展示エリア以外は掃除が行き届いていませんけれど、なにせ普段が普段だから、若いお客様が嬉しい」
「あ。あの」
くるり、と車輪(ルビ:きびす)を返したマーガレットに、セイジが声をかける。ゼラがセイジのその横顔を見ていた。
「ひょっとするとこういうのが、失礼に当たると申し訳ないのですが……」
「はい?」
ゼラが、とても嬉しそうに笑みをこぼした。ゼラはセイジのこういう表情というか、有様がとても好きなのだ。
大きな犬が耳を倒して、遠慮がちに。
たとえば、ふと我が家に現れた、主の客人に近付こうとする時と同じ顔だ、とゼラは思う。たまらなく嗜虐欲を唆られる、とも。
「車椅子を、押しましょうか……? 子供の時、町内会のボランティア活動で押し方を習いましたから。まあ、事故を起こしたりはしないかと」
「……――あら」
マーガレットはその包帯越しに、
「あら、あら。まあ」
セイジを、まるでなにか観察するように眺めた。
真似するみたいに、ダッキもセイジをじーっと見ていた。
「どうしましょう、スミちゃん」
「ん?」
「若い殿方に親切にされちゃった。はしゃいじゃいそうだわ」
「なに言ってんだか」
「ありがとう。――お許しいただけますか? ズェッラ・レーベルウィング」
マーガレットは、セイジを飛び越えてゼラに問う。
そのふいの問いかけに、
「ええ、どうぞ」
ゼラが答えた。咲き誇るような笑みで。
マーガレットが、セイジについてをゼラに伺い立てた意味――少し遅れてそれを理解したセイジは、この一連に一切も動じないどころか当然という態度をとったゼラに、なにか今一度、度肝を抜かれる想いだった。
「え、わ、あ、あの、ちょっと――」
面食らうセイジに、なぜかダッキが、ベッタリとセイジに身体をよせてきた。というか、擦り付けてきた。
腰、足も、胸も、今にも頬ずりすらはじめそうだった。
「ふふ、ダッキはやっぱりセイジのことが好きだって」
「………」
セイジには、本当に不思議だった。
こんなにも独占欲――というかもはや『所有者』であると拘るゼラが、なぜ、どうして、ダッキにだけはどこまでも許すのか。
セイジだけ、分からなかった。
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