12
「見て秘書さん。こんな山の奥でもネットが通じる」
「まあ。本当」
「日本はすごいね」
グリフォニカが雪の降り積もる森の中を歩いていく。
iPhoneの画面にGPSマップを映して、方角を確認するみたいにしながら歩く様は、どう見ても都会の現代っ子だ。
魔道士なのにスマートホン。グリフォニカは『表の顔の維持に必要なのだ』とワガママをトウシていた。
鬱蒼とした森。日が陰りきっていないのに、もう仄暗い。
小鳥のそれより断片的な音色は蝙蝠だろうか、冬の森に渦巻く獣の気配も、その生家の環境から森慣れしているグリフォニカには都会の音よりむしろ退屈だ。
タクシーを降りた駐車場からそうだったが、今二人が進んでいる道も申し訳程度にしか舗装されていなかった。
恐らくここに道がある、と分かっていないと殆どの人間が気づけないだろう。ミスウィックはスーツケースをいくつも器用に転がしながら歩いていた。こんな凸凹の酷い上でスーツケースを転がすのは酷く重たいはずだが、ケロリとしていくつもの車輪を自由自在に操っていた。
「雪が多い。本当に今日から降り出した。夜にはもう白しか見えないかもしれない」
「魔道士の天気予報は当たりますね」
「星夜会には雪が要るからね」
グリフォニカと秘書のミスウィックは、シンカンセンの旅路を行儀よく過ごし、とある駅でタクシーを拾った。
個人タクシー、運転手は若い女性だった。
この土地の出身だがしばらく都会にでていて、しかし最近戻ってきたんですよぉ、と聞いてもないのに話すそのなにやらやたらに善良そうな女性は、たしかに発音の端々に特徴的な訛りがあった。
ミスウィックが指定した目的地があまりに遠かったから、運転手の女性はかなり驚いた素振りを見せたが、二人の外国人然とした風貌と、さらに近くに外国人居留地がある、ということに。「それでか、なるほど」と納得して、なにやら張り切った様子で、長距離運転をスタートさせた。
三時間以上は走った。
殆ど会話は無かったが、ぽつぽつと、その運転手の女性が東京にいたころのちょっと面倒な出来事とか、故郷に帰ってきてからのこととか、お坊ちゃん可愛いですね、日本語がお上手ですね、とか、そんな内容を話した。沈黙の時間も多かったが、それを苦にするタイプの三人ではなかった。
最後の一時間は、うっすら雪の積もった山道を、ひたすら曲がりくねった。
――あ、ここで。
なにかの目印でもあったのか、ミスウィックが声をあげた場所は、周囲になにも見当たらない、ただの山の中の道路の真ん中だった。
ホントにここでいんですかぁ? あぶないですよお間違えてませんかぁ? 暗くなると雪ヤバいんですよぉ? せめて近くのコンビニまでぇ。
慌てる運転手の女性に、ミスウィックは丁寧に、両手を添えて国際銀行の小切手を渡した。
あ、うわ、すいませぇん、うち、現金しか――。
言いかけて、金額をみて。
もう一度見て。
ゼロの数と、単位もちゃんと日本円であると確認して――運転手の女性がバタバタしはじめた。
訛もますますひどくなった。
日本人でも聞き取れないくらいだった。
――ノー! トゥービッグ! マネーッ! メイビー! ミステイク!。
かなり簡単で、しかし正しい英語に、グリフォニカは微笑むと自ら小さな身体を乗り出して。
――日本円で払えなくてごめんなさい、安全運転を、ありがとう、どうか受け取って下さい。
と、笑顔で伝え、油紙でくるまれた四角い砂糖菓子を、握手するように手渡した。
――食べてみてください。僕の国のお菓子なんです。
新鮮なバターを切った時みたいな匂いが香った。
――すごい良い匂い……。
勧められるがまま、運転手の女性がそれを舌に乗せた。
――え――……
そこから、もう彼女の記憶は、なんだか曖昧なのだった。
鮮烈なのは味の記憶だけ。
口福しかない数秒間。
それは、あえていうならハルヴァ(※編み砂糖。Chałw。主に中東、トルコなどで愛される極細の繊維状に編み上げスパイスで香り付けした糖の)
甘い糸が砕けて、ほどけて。
その度に極彩色の香りが喉の奥にまで染み込んでくる。
息をすると涙が出そうなほどに、いい匂いがいっぱいに広がって、なのに切なくなるほどの口溶けで消えていく。
美味しい、なんてものじゃない。
甘い。甘いということが、こんなに幸せなことだったなんて。
目を閉じて、開きたくなかった。
少しでも長く味わっていたかった。
「――ぁ、れ……」
気がつくと、二人の姿は消えていた。
ボンネットには雪が積もっている。
もう足跡すら新雪に埋もれて消えていた。
こういうふうにして優しい魔道士は。砂糖菓子の王子様は人の世を通り過ぎていく。
グリフォニカの吐いた息が真っ白に煙る。
「あった。見えた……」
家とか邸とかというより、館(やかた)といったほうが良さそうな建物だ。
壁面すべてが屋根にいたるまで石畳模様で、カタチは一見するとグルリと丸い。
だが実際は上から見ると、この館はなんと七角形をしていた。丸みを帯びた正七角形、アラブなどで流通するフィルス貨幣と同じ形だ。
手入れの全くされていない庭が朽ちかけた柵に囲まれている。柵の周囲には、英語とドイツ語と、他にもとにかく、なんらかのアルファベット系言語で記された立板が散見された。全て「関係者以外は立ち入りを禁ず」「ここは私有地」といった内容だ。
この異様の館は、まず過疎と、さらに深い森という二つで物理的に人の目から隠されていた。
さらに仮に何かの偶然で人の目に触れても、多種の異言語で標されたエクスキューズが忌避感をもたらし、近づく者が殆どいないし近づいた者がいても踏み込まないように誂えてある。
三重の封鎖。典型的なくらいの『魔法使いの住処』だ。
「坊ちゃま。出迎えが、見あたりませんが」
庭の中にニョロリと石が並べられた玄関へ続く細道を、グリフォニカの革靴が踏みしめていく。
雪をえぐった足跡は、すでに複数あった。
「星夜会に出席する者は平等だ、出迎えなんて、いいんだよ」
「仮にそうだとしても。館の主は来客としてグリフォールを出迎えるべきです。不敬に違いはありません。――ご注意を」
「大丈夫。でも、ありがとう」
いかにも重たい軋み音をたてそうだった玄関扉はしかし、グリフォニカのか細い指が押しただけで、つぅ、とスムーズに開いた。
男が立っていた。
仁王立ち、というのに間違いはないのだが、なにかとてもそんな字面があわない頼りなさが、ただ立っているだけで伝わってくる立ち姿だった。
「……セディックコンの株があがった……」
「は?」
「……台湾のIT企業……」
「いま、妻が、売ったわ、ってメールしてきたから……。これで、たぶん二万ユーロくらいの儲け……」
かなり、ビジュアルに特徴のある男だ。
中年どころか初老の年齢に見える顔の皺。
顔色はファンデーションでも塗っているんじゃないかというくらい青白く、そのくせに唇は健康そうに血色豊かだった。黒い髪は量が多くボサボサで、くせ毛なのかスタイリングしているのかは分からないが、凄まじいボリュームに膨らんで見えた。
痩せていて、背はとびきり高く見える、髪型のせいもあるだろうが、実際二メートル近いだろう。若いころはワイルドな感じのハンサムだったかもしれない、という面影もどことなくあるのだが、その輝きを失って久しいことも嫌というほど伝わってきた。
黒の革、黒のブーツ。
その上から『こうすりゃいいんだろ』と声が聞こえてくるみたいにマジックローブを羽織ってあった。
紫外線に弱そうな色素の瞳が、むず、と動いた。
「……たぶん株ってボクをダメにしているかも……妻のことは愛しているけど彼女ちょっと優秀すぎるっていうか……ボクなにもしなくてもいいんだもんなあ……――……――イヴ・ハノンは、僕だ」
「え」
「イヴ・ハノン。が、僕だよ」
「ハノン……。ハノンって……貴方が……っ!?」
グリフォニカが目を丸くし、同時にミスウィックはその目つきに警戒心を露わにした。従者として、さっ、と主の前に身を置く。
理由は明快。『危険』だからある。
ハノン、という名を響かせる由縁たる魔眼は、ただ一つ『危険』という一点において、突き抜けているのだった。
「イメージと違う? よく言われる……」
「あ、いえ、そういうわけでは」
「気にしなくくていいよ、なんだか失敗したミュージシャンみたいだ、って思うだろ。ボクもそう思う。妻の趣味なんだ。ボクは妻の買う服を着るだけさ――ハハハーアァ」
それが彼、ハノンの、ただの『笑い』なのだと理解するまで、グリフォニカは数秒を要した。
あまりにもか細い、まるで力なく溜息をついたようにも聞こえる笑いだった。
そうでなくてもハノンというこの男、つらつらとよく喋ってはいるのだが、声も実に力なく、とにかく音圧が低い。ところどころ聞き取れなくなるくらいだ、まるで例えるなら瀕死の病人のつぶやきだ。
「……ドラッグはやらないよ」
魔道士のなかで『最も危険』とされるその魔眼には、あまりといえばあまりにも、あからさまな銘が刻まれている。
――『毒使い』。
徨毒(ルビ:ポイズニア)のイヴ・ハノン。
「……言わせてもらうと、ボクに変なニックネームつけるなら毒(poison)じゃなくて病原体(virus)のほうだろ……って思うんだけどね……ハハハーアァ」
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