07
「それで、は……っ、ひっ……ぅぐ……皆様、よいお年を……めりーくりすます。……ひっぐ……」
目の周りを真っ赤にして、鼻をしゃくりあげながら、それでも丁寧にお辞儀だけはして、グリフォニカが後部座席に乗り込む。運転は秘書の女性だ。パパッ、と代わりのクラクションが鳴り、ボルボが城から去っていく。
「HAHAHA……、マジ泣キサセテシマイマシタ……」
さすがに少し気まずそうなところを覗かせるローランドと、その後ろでは、子供を泣かせた共犯者の二人、タズネとユナがいびきをかいて雑魚寝していた。
タズネはどこまでも満足げな寝顔で。
かたやユナは、かなり苦しそうに悶ている。
ローランドも、同じかそれ以上のアルコールを摂っていたはずだが、すっかりもうアルコールは抜けているらしい、きっと肝臓の性能が根本的に違うのだろう。
いっぽうコトネとサンゴは、冷めてしまってそれでも美味しい料理たちを、腹八分目の上からチマチマ積んでいくように齧っている。
セイジも静かに咀嚼していた、はじめから別場所にいた彼にとっては、今がやっと遅い夕食だ。
「冷めた揚げ物……美味しいよね」
「科学者の意見を聞こう、どうぞ、サミ先生」
「ああ、と……それは、ですね。揚げ物は、つまり塩、ナトリウムと脂分で血液濃度が緩和されるから相乗効果があるんだ。冷めたほうがそのバランスが強調されるから妙に美味しく感じる――というメカニズムで」
「うわあ……本当に答えたよこのヒト……ひく」
「ひく」
「……君らが聞いたんじゃないか……」
「リンさんはサミさんみたいな人ってどう思いますか?」
「モー、カンペキタイプジャナイ」
「サミ先生ざんねーん」
「アーン、チガウ! セイジサーン! 私ハ嫌イ違ウンデスヨ。キズツクナ? アンズルナ?」
「だ、大丈夫です、ありがとう……」
そんなところに、
「――相も変わらず目眩がするような着付けをしてるね君は……」
ゼラを連れたススキノハラが降りてきた。
ススキノハラのほうは、いつもの和装で年姿は「老婆」にしてあった。ゼラの方は制服のままだったが、サッキと違って髪は解いていた。
「セイジおまたせ。うわ、タズネちゃん寝てるし。おつかれ。ミス・ローランド。だいじょぶ?」
「ダイジョブ。オツカレデスタ、ススキノハラセンセ、ゼラ」
「おいおい、なんだいそれベルトかい? 袴の上からベルトを巻いてるのか。君の日本語は外国人だからというのを差し引いてもひどい」
「スイマセン」
「あ。ねえセイジ。ちょっとこっち来て」
ゼラがセイジに笑みかける。
上の階を指差して、ぱちぱちとウィンクをしてみせた。
「え、いま? ゼラさん」
「そう。いま。二人で話したいの。おーけ?」
右目を閃かせていた。ゼラの魔眼は左だから、これは普段なら魔法を使うときにしか動かさない方の瞼だ。
「……ん、わかった」
セイジは微かに表情をこわばらせ、しかしそれを努めて隠した。急ぎ足のゼラに引かれるようにして階段をあがっていく。
「ゼラちん一気にいった、すげえ……。きゃー。セイジさん引っ張ってったよぉ……」
「うん……、やっぱ欧米だな……、欧米JKだから……」
今日は一応クリスマス・イブ。倫理的な良し悪しは置いといて、日本の女の子の間では、一般的に――やっぱり、そういうことが一挙に進展することが多い、とされている日でもある。
サンゴとコトが、いろんな感情のこもった視線で、ゼラが【男連れ】で消えていった階段のほうを見送る。
「しかし、悪い人ではなさそうだけどさ……サミ先生さんって、あれか……」
「あれって?」
「ゼイラさんは本当にラブモードはいっているんだなあ……別に、全然、カッコよくないぞ、あれ。悪い人には、まあ、見えないが」
「うえ、このタイミングでそんなこというー? コトリン辛辣だなあ」
「ゼイラさんが普通の女子なら言わない。でも、エルフだ。性格もいいし。エルフなのに……。つり合いってのがあるだろう」
「本人が幸せそうなんだからいいじゃん。いっつも、セイジかわいい、セイジかっこいい、やさしい、素敵、頭いい、ってムカつくくらい言ってるし」
「んん……」
「それにさあ、あたしはゼラちんみたいな美人が、じゃあお金持ちとか超ハンサムとくっつくぞーってほうが、なんか、逆に嫌な感じする」
「なんで?」
「愛って、不釣り合いなほうが美しいじゃん。――て、あ、なんか今すげえ良いこと言わなかった? あたしやばくない?」
「……でも、勿体無いなあ……」
「……ひょっとしてヤキモチ?」
「――そうかもしれない」
「へへ、でもちょっと気持ちわかるな」
「君たち、うちのゼラのクラスメイトなんだって?」
突然、JK二人をスミが覗き込んできた。
別にスミは何かしらの威圧感を与えようとしたわけではないのだが、和装で年配というだけで、若者にはそれなりの緊張を与えてしまう。
「あ、はい! あの、はい、そうです!」
「今日はお招きいただき、ありがとうございましたっ。おい、タズー、起きろバカ」
「いいんだよ、そっちのお嬢さんは起こさなくて。せっかく気持ちよく寝てるんだから。良い宴だったみたいだ。ありがとうね、今日は来てくれて」
「すっごい楽しかったです」「一生の思い出にします」
「はは。それはなにより、よかった。まあ、ここがあたしの持ち城ってわけじゃないのだけれどね。城の主もそう言われれば喜ぶだろう」
スミがヒュルリとソファに腰掛ける。和装を着慣れている人間特有の静けさ、立ち居振る舞いの端々に、指先と腰が着崩れを防ぐ仕草とか動作が織り込まれていて、
(うわ、すげ)
なによりもそれが無意識の自然体であることに、思わず、サンゴは見惚れた。
「さすが、ゼラちんのオバアさまだなあ……」
「ん? なに?」
「あ、ああ、あっ、いえ……っ。やあ……やっぱ……綺麗だなあって思っちゃって……ゼラちんと似てるわあ、って」
「んん、あたしとゼラは、似てないだろう」
「いえいえ、似てます! 似てますよ!」
うん、うん、と横でコトネが頷く。
「なにより美人ってところが問答無用に!」
「ほう? おやおや。ははあ。嬉しいねえ。この『年の姿』で美人と言われるのは、本当に嬉しいよ。まして君のような別嬪のお嬢さんに」
「う、うちは若いだけで……」
「若いだけで服飾誌の表紙モデルになどなれるものかよ。ねえ? ゼラから聞いてるよ、スタァさんなんだろう君」
「スタァじゃないです! アイドルとも違います! モデルしてるだけです、てかゼラチンのが美人だしさあ……ていうか、ゼラチンの親戚とか友達って、みんなガチ美人じゃん、って……なんかさっきちらっといたロングヘアの人もまじやばかったし……あ、でもほんとマジお祖母様に比べたら、まだまだ! どいつもこいつもですよ! お年を召されてなお美しいって、凄いことです!」
「……若さに勝る尊さはないさ」
ススキノハラが、ソファの上で軽く指を組み、瞳を細めて笑む。その仕草がまた様にななっていて再びサンゴは見入っていた。
(………)
一方『天才』コトは、ここへきて、ちがうものを感じた。
「ところでそちらのお嬢さんも、背筋がなにやら凛々しいね、素晴らしい姿勢をしてる。武術かなにかを嗜まれるのかな?」
「……あ……う」
その視線に気づかれたかのように話しかけられて、コトが言葉に詰まる。
「ああ、はい。ちょっとだけ」
「あ。コトリン凄いんですよっ。合気道ですよ合気道。ね? 天才合気道。勉強もトップクラスだし」
「お、折本さん……」
「文武両道か。爪の垢をうちのゼラに少しくらい煎じてやりたい」
「……あの」
「ん?」
「…………なにか……武術……されてます……よね?」
「ああ、そうか。わかるか。はは。大したものだね、なるほど。まあ若い時に、ちょいとだけね、あたしの時代のお嬢さんのおたしなみって程度」
「コトリンすごいじゃん見るだけで分かるんだ。お嬢様武術ってかっこいいー、どんなことしてたんですか?」
「まあ剣道だよ。昔の剣道みたいな」
「じゃタズーと同じだ」
(……―――剣道……剣道って……そんな……こんな………?)
「本当に、ゼラには勿体無い友達だ。どうかこれからも仲良くしてやっておくれ。ああ、そうだ! お小遣いをあげよう」
「え、えええ、そんなお気遣いなくっ」「うちらもう十分たのしんでますんでっ」
「子供の遠慮は要らんこと。おいカワナ。カワナー」
スミがふらりと立ち上がって奥にいそいそ引っ込んでいく。ひとしきりカワナを呼んでいたが、パタリと止んだ。
そしてなにやらゴソゴソとやってから、戻ってきた。
「はい、Merry Christmas」
やたらいい発音で祝い、茶封筒を差し出す。
福沢諭吉が透けてみえていた。
* * *
ゼラはセイジの手をさっと握って、そのまま引っ張るくらいのペースでドンドン邸の奥へ連れていく。
「ゼラさん、なにがあったの?」
「とにかく来て」
「そんなにヤバいこと……?」
「いいから」
(どうしても個室でないと話せないくらいヤバいことがあったのか……)
普段ならゼラから手を握られているだけでも、相当な緊張と幸せを感じるのだが、状況が状況なだけに、セイジの表情は険しかった。
それなりの広さと複雑さを持った『魔女の城』だが、間取り等はゼラの頭に完全に入っているらしく、足取りが迷うようなことはなかった。
「はいって。あ、やっぱ待って、あたしが先はいる。――ん、いいよ」
「ここ空き部屋? 何の部屋かな?」
「たぶんゲストルーム。で、普段は書斎とか物置にって感じの部屋だと思う」
ゼラが選んだ部屋は、邸の最上階になる三階の、階段をあがってぐるりと回り込むようにしないと見つからない、少なくとも真っ当な日本の建築様式ではまずありえないような位置にある一室だった。
狭く、暗い。
窓はなく、明かりが一つだけ。そこに本棚と机、さらに小さいソファーベッドが、手狭に、しかし実にうまい具合に配置されていた。
ソファに腰掛けながら、こういう部屋がある家っていいなあ、などと考えつつ視線を巡らせていたセイジが、何かに気づいたように、あ、へえ、と呟いた。
「この部屋、そうか。さっき僕がグリフォニカ君らと話していた部屋の、ちょうど反対側に向かい合ってる」
「あ。すごいじゃんセイジ。よく分かったね」
「面白いな。すぐにはわからなかったけど」
「ここ、いちおう魔法使いの邸だから、普通の家とかよりどこがどこか、ってわかりにくいように作ってあるの。あたしの生まれた家も、案内がないと絶対お城のなかで迷子になる感じだった」
「面白そうだね。そういうの好きだ」
「ねえセイジ。セイジって生まれた家、けっこう広かったりする? なんかセイジ、お邸慣れしてる」
「そう……かな?」
「はじめてこういう大きな家に入れられた人って、けっこうどこを歩いていいのかとか、どこに座ったらいいのかとか、キョロキョロするの。でもセイジ、へー、ひろーいとかは言ってるけど、なんかビビってないもん」
「……あ、ああそうか! うん、うん分かった。ゼラさん、私さ、子供の時に凄いお金持ちの友達がいたんだ。それでそいつの家、お邸でね。僕よく遊んでたんだ。そのせいだよ多分。でも忘れてたな」
前触れ無く子供時代の記憶が蘇って、セイジが無邪気に顔をほころばせた。僕、とついつい一人称まで子供時代にもどっていた。
「お金持ちってどんくらい?」
「けっこう。ちょうどこの邸くらいあったよアイツの家も。政治家の子供だったんだ。うん、大臣とかで、たまにテレビでてたような人。あいつのおかげで僕は『政治家って儲かるんだな』って子供心に思ったよ、ハハ、ああ懐かしいや。あいつ今なにしてるのかなあ。途中で東京に転校しちゃったんだ。まあ家がああだから仕方なけど、あのときは、寂しかったな」
「仲良かったんだ」
「たぶん。でもそういえば高校の頃に一度だけ里帰りしてきた時に、会ったきりだ。そのうち会えるといいな。でも、だからそれが理由だよ」
「ねえ、スミ先生も言ってたよ、お前の男は、態度だけは不思議と誰が相手でもどこでも堂々としてる、鈍いだけかもしれないけど、って」
ゼラがするりと『男』だなんて生々しい表現を言うものだから、不意打ちされたセイジは視線を泳がせた。
「でね、セイジ。話」
ゼラがほんの少し首を傾げるようにして、セイジを見下ろした。自然体に笑んでいる表情だったが、瞳は微かに緊張しているように見えた
「……まずいことが、あったの?」
「あのねセイジ」
「私が、グリフォニカ君と話してるあいだに? それとも話した内容がなにか凄くよないことを口を滑らせた、とか、もしかして――」
「セイジさん」
「あ、はい」
最近、ゼラがセイジにさん付けをする時は、以下の3パターンのうちのどれかだ。
ひとつめ。セイジを叱る時。
ふたつめ。セイジを誂う時。
「あたし以外の女の子と、あまり仲良くしないで」
3つめは、こういう時。
「………――は?」
気の抜けた返事をしてしまったセイジの瞳を、ゼラが真っ直ぐ、迎え撃つように見つめ返してくる。
「ゼラ、さん? あ、あの、ごめん、それ……どういう意味で……」
「『あたし以外の女の子と、仲良くしないで』って、言ったの」
「それは……」
「今日、見てたから。聞こえてたし。サンゴちゃんとかタズネちゃんとかコトさんとか、それにカワナ師匠やローランドとも。セイジすごく、すごく仲よさそうに、楽しそうに話してた。なんで? 今日あったばかりなのに。今日あたしが紹介したばっかりなのに。仲良くなるの早すぎる。なんで?」
「………え、ええっ……と……――え、でも、ゼラさん、は……僕をこの部屋まで連れてきたのって……それ、言うためなの?」
「そうだけど?」
そのセイジの言葉に、きゅ、とゼラの眉がはねる。
ゼラのその目は、まるで飼い犬を窘める時の、主の目つきみたいだったし、セイジも全く、叱られている犬みたいな感じになっていた。
「なに? ねえセイジ、こういうこと、あたしだって人前で言ったりしたくない」
「あっ、あの、あ、ご、ごめん……! 違うんだちょっと、予想してたのと、違ったな、ってだけ、で……」
セイジはちょっとしたパニックを起こしていた。
はじめ一瞬だけは、予想して覚悟していたような魔法使い同士の危険なことがはじまってしまったのかとか、そういうのじゃないなら良かった、と思おうとしたのだが。
しかしどうも、これはゼラから、今――これは怒られている(叱られている?)、と思ったら、いきなり混乱した気分になってきていた。
「で、でも、さ、ゼラさん」
「なに」
ゼラが眉をもう一度、鋭く跳ねさせると、情けないくらいにセイジがピクンと身体を反応させる。
「あの……ですね……その、ゼラさんの友達や仲間な人達だから、私なりに、その……いい関係を築こうと思ったっていうか……それに、ゼラさんも、はじめ来たときに友達だから仲良くしてね、って言ったから、……言ったよね? それで……」
「あたしが仲良くして、って言ったから、してたっていいたいの?」
セイジは、膝の上に腕を乗せて指を組んで、それをまた解いて、また組んで、視線もうろうろあたふたと泳がせていた。
オチツキガナイ、という日本語の意味を、外国人に伝えるなら今のセイジを見せればいいだろう。
叱られている大きな犬。
そしてそんな犬の耳が、首が、瞳が、指が。
自分の言葉で赤くなったり震えたりしながら怯えるみたいにしていることが、ゼラにとってはもう、胸の奥が蕩けそうになるくらい甘くて、嬉しい。
「――あの……」
「なに? セイジ」
楽しそうに、幸せそうに……でもそれを顔にはまだ出さず、ただ口元をサディスティックに歪めて楽しんでいる。
「――ふふっ」
いきなりゼラが、
「ふ、ふふっ! あはっ! ああ、あははっ、わーっ、あは、セイジーっ!」
セイジに乗り出して、飛びついてきた。殆ど覆いかぶさるように、セイジをソファーに押し込んだ。
「ねえ。セイジ。あたしが、あたしの友達だからセイジ仲良くしてねって言ったの。ちゃんとあたしだって分かってるよ」
「……え、えっ……ゼラさ……」
「セイジが悪くないの、分かってるの。でも、でもね。仲良くしないで、欲しい。理屈じゃないの、セイジ」
セイジの肌はもうとっくに真っ赤だ。ゼラの肌も赤みがかかって、下の血管も火がついたみたいに熱い。
「セイジ想像してみて。ねえ、あたしになって」
「ぜ、ゼラさんの、立場で?」
「セイジがたとえば、さっき言ってたセイジとの子供の頃からの友達をね、あたしに紹介するの。でもそれは男の友達。紹介して、彼とも仲良くしてやってよ、ってセイジが言うの。あたしによ?」
「……――あ」
もうそこまでで。
セイジにも分かった。
「そしたらあたしが『うんわかった』って、で、ずっとその人と、セイジがいないところで、あなたが知らないこと、聞こえないこと、笑顔で楽しそうに、話したりしてたら。どう思う? どう感じる?」
「――嫌だ」
「ね?」
「うん」
「わかった?」
「……わかった。ごめん……ごめんなさい、ゼラさん。私は、本当に、気がまわらないんだな……今度から気をつけるよ……」
「――ん。よろしい」
「……あの……」
「ん?」
「……でも、少し嬉しいよ……ゼラさんが、そんなふうに――その……ヤキモチ……ごめん、みたいなのを、感じてくれたと思うと、なんか……少しじゃなくて、たいへん嬉しいです……はい」
「……セイジ」
「そ、その眼鏡、新しいよね……? 似合ってます……今日も綺麗です…………言おうと思ってた……ので……」
「……」
ゼラがセイジから身体を起こす。
いちおう、二人はゼラの両親と双方の「良心」において、線を超えないことを約束している。している、が。
「あ、あの、ゼラさん……これ以上は――まずいから……」
ゼラはセイジから離れたが、ソファの上からは降りなかった。
制服の一番上、ブレザーを脱いで。ゆっくりメガネを外して、腕を伸ばしてテーブルに置いた。
そして、ころり、とソファに、無防備に仰向けになった。
「……ゼ……うぁ……」
思わず、セイジからまるで獣が唸るみたいな低い声が漏れる。ヨダレが今にも落ちそうだった。
ゼラが寝転がったまま、セイジを見つめた。
ふぅ、はぁ、はふ。
甘く喉からの音が混ざるのを隠しもしないで、蒸気した吐息と、滴り落ちそうなくらいに潤みきった瞳で、見そめた男を魔女が目で舐る。
手を伸ばせば、手を伸ばして。
ほんの一歩でも乗り出せば好きにできる、男の力任せにどうとでも出来る。そのくらいの近さで、ゼラの胸はシャツを押し上げていて、汗を弾く太腿はスカートから伸びて、ソックスにつつまれた足先の指が丸まっていて。
「………」
「……セイジ、目が怖いよ」
「あ、ごめ――っ」
ゼラの甘えた震える声が、ほんの一握り最後に残っていた青年の理性を一瞬、くるりと掘り返した。
そして、その一瞬を
「おいでセイジ。えっちしよ」
ゼラ(魔女)は逃さなかった。
部屋の空気ごと、脈打たせるような声。
とうとう跡形もなく理性が吹き飛ばされて、首輪を外してもらったみたいな勢いで、襲いかかった。
歓びの悲鳴があがった。
「ぁあ……あっ……セイジに犯される……」
押さえきれず、笑う。身をよじらせて、舌を覗かせて、処女の体で笑っていた。
「……――あ、あはっ……大好きな人に、レイプされちゃう……、あ……っ ※ここフィン語に」
夢を見るような顔で、舌すら覗かせて。――愛しい男の心を、自らの魅力(ちから)で獣(けだもの)にまで貶してやった――。魔女としての至上の悦びだ。
セイジの腕が、ゼラの服を破くような勢いで――、
「あれぇ? ここトイレ? じゃないの? ――あ」
あまりといえばあまりのタイミングで、入ってきたのは顔色の悪い三つ編みだった。
「……――あ。
あ、ああ、あああ、ああああ……!!」
こ、これって……!
あ、ご、ごめ、ごめんなさ……ッ! う、うわ、どうしよ、ごめ、ごめんなさいレーベさ――ッ!」
「――うわあああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
ゼラの大声は、もう絶叫に近かった。
「ぜ、ゼラさ……ッ!?」
「うわあああああああああ!!! なにこれ!? なにこれ!? いやだあ! もう! うそだあこんなん! やだあああああああああ!!!」
思わず耳を塞ぎつつも、セイジがあたふた取り繕う。尿意も何もかもスッカリ忘れたタズネが怪談を転がり落ちるみたいに逃げていく。
「こんなんないよそんなん! やだーーーーっ!!! てかセイジも、なんでやめてんのッ!? なんで!? うそだあこんなの!!!???」
「お、押ちついて……ッ バレる……」
「はあああああ!? 何いってんの!? バカ!!! バレてるに決まってんじゃん! セイジバカ?! 見られるのも聞かれるのも覚悟してたよあたし! それなのになにこれ! 酷いよこんなの! ヤル気まんまんだったのに! ヤラれる気まんまんだったのに! 酷い! ていうかもうヤッてよ! ヤリたいでしょセイジだってほら! めっちゃその気だったじゃん! ヤッてよもういいから! ゴーホー! ね!? ゴーホーだから! ミセーネンだけど、ホゴシャドーイあるから!!」
「な、なにを……!」
「わああああああああああああんッッ――!!!!!!!!!!!」
ゼラは手足も顔もブンブンさせて喚いて、ついさっきまで壮絶なまでの色気は跡形もなく消えていた。
――おうおう、やっちまッたなタズーやっちまったなホントちょっとマジ。
犀楽さんコイツの骨このままやってあげていいぞ。
痛い痛い痛い痛いあああでも仕方ないわホントごめんレーベさん。
うわああああああああああん。
…………あ、あの
逃げるな!
逃げんな!
ここで男が逃げちゃだめって思うの……っ!
お前は黙れ! ――
邸の上の階から聞こえてくる、やかましくも平和なそれを、下の階で魔女達がノンビリと見上げていた。
「ゼラはしくじったみたいだねえ、どうも」
「んふふ。情けない弟子」
面白がりつつどこかホッとしているようなスミと、一言で切って捨てるカワナ。意外にも素直に気の毒そうな顔をしているのはローランドだった。
「いったいレーベルウィングは、あの男のどこがそんなに良いのでしょうか……」
ようやく酔いが冷めたのか、ユナが壁に寄りかかって煙草をゆるゆる蒸しながら、呆れたように呟いた。
細巻きを緩くつまむ指の角度といいい、立てた膝の上にトンと乗る肘といい、なにやら煙草を吸う姿がキマっていた。
決して望まない経緯であったとはいえ、城主になったことでユナのその振る舞いは従者のそれであったころとは変わっている。
恐らくは意識してそうしているのだろう。
物憂げで寂しげな様子は、そもそも少年的、中性的だったユナの容姿を引き立てていて、タズネが『ハンサム』と騒いだのも無理はない。
ただその様がキマっていたからこそ――ついさっきまで泥酔して他人のオッパイに話しかけていた人間が、なにを――的なことを、この場の全員が想っていたが、そこは誰も口には出さなかった。
「……今日は邸を使わせてもらって悪かったね、それに饗しにまで奔走してくれて、感謝しているよ。ユナ・チャンドラー」
「……どうか必要なとき以外は、私をチャンドラーと呼ばないで下さい。先代(イザラ)のような生き方は私には荷が重い。一刻も早く従者の生活に戻ることを望んでいます」
「あてはなにか、あるのかい?」
「なきにしも。グリフォニカ様に相談をしました。チャンドラーか、その遠縁でも『煙使い』の血縁を探し、グリフォール家庇護のもとで再興を、と。彼の選ぶ人間であれば、先代の魂も受け入れます。……イザラは彼を愛していましたから」
「まあ、あたしも協力するよ。出来ることは、ね」
ユナがタバコを吹かしながら、静かに首肯した。
「先生、グリフォール卿は今後どうされますか?」
カワナがするりと切り出す。
どうだったか? ではなく、どうするのか? と訊ねていることを、スミはいちいち問いたださない。
それに、この場にいる全員がカワナの問い方で正しいと思っている。。
「……美しい子供じゃないか。眩しいくらいに」
「愚かしい子、と?」
「いや、あの子は恐らく、とても賢いよ。いい子なのさ」
「いくら子供でもあれは少し、無菌状態に育ちすぎているのでは? それに、なにやら、こう、子供のくせにというか」
「生意気?」
「それです」
「いいさ。理想がある証だよ。理想を卑下するガキなんて、カワナ、それは賢いんじゃあない、ズルいだけさ。現実主義者を気取ると他者を見下すに都合がいいからね……。しかしサミ君と馬が合いそうなのには参ったな……」
「揃って仲良く囀っていますからね、こう、ピュアピュアと」
「とっとと父親にでもなっちまえばいいのにね、二人共。そうすりゃあ、ちょうどいい塩梅になりそうだが――」
「ところで先生。私の財布からお金を抜きませんでしたか」
「……」
「先生」
「ああ、借りたよ。6万円。ゼラの友達の子らに、少し早めのお年玉をあげた。あたし財布を持ち歩かないから」
「……ひ……、一人あたり、つまり……二万円……!?」
「高校生だし、そのくらいいいじゃないか」
「あげすぎですッ!!!!」
「そろって固辞するもんだから子供が遠慮するなって叱りつけて握らせたよ。可愛いよねえ」
「3千円くらいで十分なんですよ! そんな……っ!! そ、そしてなぜ、さも当然のように私の財布から……っ!?」
「え、だってカワナ、あたしに現金を持たせてくれないから」
「持たせたらその日のうちに使うじゃないですか」
「もう……ちゃんと返すよ。すぐに。いいだろ?」
「お酒とおせちとお餅とお酒代だったのに」
「正月の酒代込で6じゃあ、ちと足りなくないか。――さて」
ひゅ、と。
スミが襟を正し、衣擦れの音を鳴らした。
魔女達が静まり返る。
会話が止むと、途端に冷たい冬の空気と、森のほうから耳をすませば鹿の声や蝙蝠の羽ばたきらしき生物の気配があり、ここが山にある孤邸なのだと感じさせた。
カワナはまだなにかモノ言いたげだったが、それでも押し黙り、上の階からいまだに続く平和なドタバタカシマシも、この数瞬には魔女達の意識から遠ざかった。
「あたしから、伝えることが数点ある。明日から、……ローランド。君が星夜会へ行きなさい。カワナと『風使い』の役目を代わって」
「オエッ? 私デスカ? ……ナンデ」
「なんででも」
「――ン、リョカーイデス。ススキノハラ先生、ケレド、カワナマスターデ師匠、モシ代理ワタシトテモ、ナンコウデス」
「軟膏?」
「ディフィカルト」
「困難ね。キミ、もういいから母国語で喋りなさい。私は英語と仏語くらいなら大体分かるから(※英語のルビをふります)」
「ン―……。それは確かに、英語で話せばこの通り、楽ではあります。ですが、せっかくの日本語学習の機会ですから、多少の迷惑と無礼があることは存じておりますが、私のハイブリッド第三外国語学習に付き合っていただけないでしょうか?(ここは英語)」
「普通に喋れたのか貴方……!」
「ユナハ私ナニジンノ人ト思ッテタ」
「だからそれやめなって。ドコ大学だ君?」
「オレゴン州立大学」
「……高学歴じゃないか……」
「日本語専攻では評価Aプラスを獲得しました。(ここまでは英語)。ンァー。――私ノ家レドモンド、都会デハチガウ。私ノOregon、ハ、ドチャクソ、カントリー・サイドデス。トテモ自然イイデス。野菜オイシイ。オススメノヒトサラ、ストロベリー・レモネード」
「飲み物はヒトサラって言わない。ああ、あと、タチバナ。君は、いや。君の先代は、アメリカ系だったかな。なんにしても英語圏だろ」
「……チャンドラーのルーツはスコットランドです」
「なら君。悪いがローランドと一緒にいっておくれ。よほどのことがない限り、自分の城と家を守ることを最優先してくれていい。星夜会のあいだはあっちもこっちも目が行き届かない。ユナ・チャンドラーの新しい魔眼が役に立つ」
「従いましょう。私はそもそも貴方に逆らえないのだから。――但し、私は先代チャンドラーの遺志をなにもかもに優先させる。私は誰とも戦わない、傷つけない、殺さない。なにをされようとも、何を言われようとも、断じてだ」
「だから君を信用するよ。チャンドラー」
「……この魔眼にはまだ慣れません。お忘れなく」
「それをなるだけ使わせないようにしたいのは私も同じだよ。カワナとあたし、それにゼラは、サミ君を連れて少しばかり余所者が手を出しにくい場所へ出掛けてくる。翠島(すいのしま)だ」
島の名が出た瞬間、そこに何が居るとされているかを知るユナの表情がヒクリと動いた。知らされていないローランドは無反応。カワナの彗眼はユナの表情を見逃さなかったので、少々、面倒くさそうな顔をした。
「あたしの友達に会いに行こう」
* * *
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