一章「早秋の歌」

「瘦せた肩、毛並みに疲労の色を浮かべた馬が、白い泡を吐きながら鞭打たれ、重い荷を引きながら急な弓形の橋を渡っていく」

織田作之助だっただろうか、うろ覚えの言の葉をブツブツと呟きながら私は、古い石畳を歩いていた。

遠出をすると分かっていてドクターマーチンの3ホールを履いてきたというのに、私の右足はもうずっと前から限界を訴えていた。


早秋の空は厭味ったらしいほどに晴れていて、時折強風が私の前髪を攫う様に吹いている。

坂の上にたどり着き、十字路の看板を見上げると目的地が近いことが分かった。

そして、視線を再び前に戻すと、古い薬屋のショーウィンドウに一人の女の幽霊が映っていた。

女幽霊は、黒く長い髪に疲れた色の肌、白いシャツの上に赤いカーディガン、ブルージーンズ姿で、重たそうな荷物を抱え右手に杖を突いていた。


あぁ、酷い顔だ。と、私は一車線ギリギリの細道の向かいに立つ私の幽霊を見て思った。

に、しても、私は道に迷ったのか?

私を手紙で呼んだ相手は駅から5分で着くと書いていたし、住所はここら辺のはずだ。

全く知らない土地で私は途方に暮れそうになりながら、ポケットからスマートフォンと手紙を取り出すと、差出人の住所を地図アプリに入力してみた。

すると、私の降りた駅から”車で”5分の場所にそこがあると分かった。

どうやら降りた駅を間違えたらしい。

私は小さくため息をつくと限界を訴える足を鞭打ち再び歩き出す。


それからしばらくして、地図アプリのナビ機能が目的地の前に着いた事を告げると、私はその建物をまじまじと見た。

それは、古い木造の古書店で、古めかしい看板には「桔梗堂」と書かれている。

レトロな景観を守るために古い建物が多く残っている事は知っていたし、この古書店もその一つなのだなと私は思った。


しかし、長い間雨風に曝されていたであろう外観は、どこか不気味ささえ感じさせるようである。

意を決して私は、すりガラスの引き戸を開けて中に入ろうとしたが、鍵でも掛かっているのだろうか、ガタギシと音を立てるだけでちっとも開かない。

「逆だよ」

不意に頭上から声がした。

少し後ろに下がって上を見ると、二階の窓から黒い羽織にTシャツ姿の男が少しずれた眼鏡の奥からこちらを見ていた。


「その引き戸、左側しか開かないんだ」

「夢見坂来生さんですか?」

と、私が上階の人物に問いかけると男は「そうだよ」と短く答えた。

「入っておいでよ」

そう言われて私は、引き戸の左側を開けてみた。

すると引き戸は少し軋んだ音を立てて、開いた。


中は古本の独特の匂いに満ちて、それと同じくらい沢山の古書に満ちていた。

「うわぁ」

思わず私が声を上げると、店の奥からトントントンと階段を降りる音が聞こえてきた。

私は本棚の狭い隙間を大きな旅行用の鞄を持って奥へと進む。

そして、年季の入ったそろばんの置かれたレジカウンターらしき所に夢見坂さんは居た。


眠そうな真っ黒けの猫の背を撫でる夢見坂さんは、まだ三十五だと聞いていたのに白髪の混じった頭をしていて、近くで見るとより老けて感じられたが、左口元のほくろがどこか子供の様にも感じられた。

「なぜ、今更手紙なんか寄越したんだろうって思っているかい?」

「えぇ、父と母は離婚してもう十年になります。父方の関係者から手紙が来るなんて思ってもいませんでした」

「そうだね。そして君のお父さん、僕にとっての一番上の兄さんは八年前に失踪して、今では死んだことになっている」

「えっ?」


父が八年前に失踪した。初めて聞かされた事実に私は困惑し思考を乱された。

母から聞いた話では、父は養育費も払わず故郷で親の脛をかじりながら生活しているロクデナシだったからだ。


思えば私が十五の時に離婚してから、父方の親類からは一切の連絡もなかった。

そう、母の葬儀の時にも弔電一本寄こしもしなかった。

それが二十五になった今、私宛にわざわざ親展で手紙が来たのかと、私は不思議に思いながらここに来たのだった。


嫌な予感がした私は、今すぐ帰りたくなった。

しかしそれと同時にせめて私を呼んだ理由ぐらいはハッキリさせて置きたくもなった。


「ここじゃあ何だし、二階においで。お茶でも飲みながら話そう」

「えっと、はい。お邪魔します」

黒いマーチンを脱ぎ上がると、少々急だが狭い階段があった。

「足が悪いようだけど上れるかい?」

「はい、ゆっくりなら行けます」


私は階段脇に杖を立てかけると、ゆっくりと段を踏み上がって行った。

どうやらこの建物は二階が居住スペースになっているらしく、大きな窓のある居間らしき部屋に招かれて座らされた。

重い荷物を下ろし、一息つくとお茶を出されて一口飲んだ。


「さて、僕は君の事を知りたいが、ここは年上かつ、男である僕から話そう。

実の話なのだけれどもね、僕は君のお祖父さんの後妻の連れ子でね、君のお父さん達からは、母子共々邪険にされていたものだよ。

まぁ、僕はそれなりに義父さんと母さんに愛されていたから気にはしてないけどね」

「だから父と姓が違っていたんですね」

「そう」

「だったら尚更、手紙で私をここに呼んだ訳が分かりません。

私はもうずっと前に父の籍から抜けていますし、血縁的にも夢見坂さんとは何の繋がりもないはずです。

もし、父の“何か”の尻拭いをさせられるのであれば『私はもう、父とは何の関係もない人間です』と言ってすぐに帰ります」


私がいつでも立てるよう身構えると、夢見坂さんは苦笑しながら

「そう警戒しないでくれ。僕も君のお父さんたちとは絶縁気味でね。失踪した時も、一番最後に電話が一本入ってきたきりなんだよ」

と、言った。


私がさらに疑問を深めていると、それを読み取ったのか夢見坂さんは、にっこりと笑んで言った。

「君さえ良ければの話なのだけどね、僕と結婚する前提で同居しないかい?」

「はい?」

あまりの事に私が硬直していると、夢見坂さんは、私の手を取りゆっくりとした口調で私の核心にしみ込ませる様にもう一度口を開いた。


「七瀬あさぎさん、僕のお嫁さんになってくれませんか?」


「えっ⁉ あ、あの、話が全く見えないんですけど?」

「あぁ、今すぐ答えなくても良いよ。とりあえず今日は泊って行ってよ」

「待ってください! 私達、今日初めて会ったんですよ⁉」

思わず私の手を優しく握る手を押しのけ後ずさる。


夢見坂さんは、ニコニコと笑みながら、

「驚かせてしまったね。でも、あさぎさんを呼んだのは他でもなく、この言葉を伝えるためなんだよ」と、告げた。

私はというと、もう訳が分からなくなり、ただ何か言わねばと口を開いたり閉じたりしたが、結局何も言えなかった。


「ああ!そうだった!僕は今のあさぎさんの事を詳しく知らないんだ!失礼だけど君の事を詳しく聞かせてくれないかい?」

夢見坂さんは、真剣な表情で私を見つめる。

私は、ジーンズの右裾をギュッと握ると重く口を開いた。

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