第11話 7月25日 その2
くそ、やられた。
物音がしたから、火喰鳥が帰ってきたかと思ったので隠れていたが、まさか警察だとは。
突然、投げ技を仕掛けてきた男は電撃で何とかしたが、そいつが覆いかぶさるように気絶したせいで動けなくなるなんて間抜けすぎる。そいつはかなり鍛えられているようで、サンドバックのように重かった。しかも俺に銃を向けているこいつは、この前ダーマカレーで取り調べを受けた高慢な長身女刑事だ。名前を有栖といったか。
だとしたら、この気絶している男は松野か。
松野は礼儀正しい男だったので不用意に傷つけたくはない。
電撃を飛ばして、拳銃を叩き落とそうかとも考えたが、そんなことをしたら松野に強い電流が流れて死んでしまうかもしれない。
「おい!その頭の頭巾を取って顔を見せろ」
有栖刑事はドスのきいた声で要求する。
こいつに顔を見せるわけにはいかない。蛇のように陰湿そうな女だ。顔を見せたら最後、どんな罪をかぶせられるか分からない。この歳で警察にお世話になるつもりは毛頭ない。
「銃を向けるのをやめろ、この男を殺すぞ」
もちろんそんなつもりはないが、相手に交渉の主導権を渡すわけにもいかない。拳から火花を放ち威嚇するように見せつける。
「お前、噂の稲妻男か?」
「だったらなんだよ!おい、近づくなよ!殺すぞ!」
彼女は銃を下し、つかつかと近づいていた。余裕な表情で、俺に殺す気がないことを見抜いているようだった。
「おいおい、高校生の分際でそんな物騒なことを言うをやめろよ」
「え?」
「穀京私立高校に通う高校二年生の菅原璇臣君だろ?」
「……」
「驚いて声も出ないようだな」
全身の血の気が引いていくのが分かった。俺のことを知っているのは、重かヴィシュワさんしかいないはずだ。だが二人は信頼できる。どこかで頭巾をかぶるのを見られていたのか?いや、そんなはずは無い、見られないように注意深く辺りを注意していた。
だったら告げ口したのか?重が?ヴィシュワさんが?
そうなのか?
俺を裏切った?
困惑、失望、疑惑や怒りをかき混ぜた不安定な感情によってまともな思考を保つことは不可能だった。
近づいてきた有栖刑事を振り払うこともできないほど気が動転していた。顔を隠す頭巾を外されたようだが、もうどうでもよかった。
気絶していた松野が意識を取り戻したようでふらふらと立ち上がった。
倒れている俺のことを見た途端に、全身に芯が通ったようにしゃんとなって俺を押さえつける体勢になった。
こいつの力で押さえつけられると息もまともにできないだろうな。となぜか客観的なってそうに思った。俺の電気対策なのか警棒で抑えつけながら、松野は口を開いた。
「この少年はなんです?」
「巷で話題の稲妻男だ」
「この子が……やはり若い。いったいどんなからくりで電気を操っているんですかね、改造したスタンガンでも使っているんでしょうか。ものによっては補導ですね」
「知らん、どうなんだ?」
俺に聞いているようだが、それを無視をして聞いた。
「俺のこと誰から聞いた?」
有栖刑事が答える。
「内通者のことを言うわけないだろうが。それよりもさっきの質問に答えな」
どちらも主導権を明け渡すつもりはないようで、このままでは両者まともに会話ができそうもない。別に秘密にする意味もないだろうと思い、俺は答えることにした。
「分かった言うよ。俺は別にスタンガンとか使っているわけじゃない。自ら電気を発電できるんだ」
俺が拳から火花を出した後、拳を開き何も持っていないことを示すと、有栖刑事の仏頂面がさらに険しい顔になった。
「有栖さん、これ、どう思います」と松野が訪ねると「うるさい」と怒鳴り返した。
「す、すいません」と松野は弱弱しく謝った。
「教えたから、内通者を教えてくれよ」
「だめだ」
「だったらここから帰してくれ……」
「いや、まだ聞くことがある、ここで何をしていた?」
「火喰鳥に今朝の誘拐事件について聞きたいことがあってここまで来たんだ」
「ああ、今朝あった誘拐事件か」
「俺の友達の重が攫われたんだ」
「重……?重桃がか?」
ふと違和感を感じた。
有栖の反応から考えると誘拐事件の被害者が重だとは知らなかったとみえる。
俺が重の名を出したときに初めて、重と誘拐事件の二つが結びついたような反応だったからだ。だとしたら、なぜ誘拐事件の被害者を知らないのに、なぜ重のフルネームを知っている。
二人はいったいどういう関係がある?
「……なぜ重の名前を?どんな関係が?」
有栖刑事は少し考えて答えた。
「内通者は重桃だったからだ」
「……え」
重がそんなことしたのだから、理由があるはずと思った。
だが、やはりそうか、とも思った。
何とか重を庇おうとするが、怒りの感情は消えなかった。頭が混雑して思考がまとまらない。
「ショックか?」
「……」
「おい……おい!」
もっとも聞きたくなかった犯人が出てきたことを信じたくなかった。
足が地面についていないような浮遊感に飲み込まれて、意識があるのかないのか曖昧な状態に陥っていたところを、顔を叩かれて呼び戻された。
「おい、彼女を助けたいのか?それとも、そこで惨めなウスノロでいるのか、どっちだ」
俺は質問に答えず、ただ聞きたいことを聞く。
「聞かせてくれよ、なんで重は俺を売ったんだ?」
有栖刑事は深いため息と軽蔑の目を俺に向けて、口を開いた。
「時間が勿体ないな、……よし、言いたいことまとめて話すからな。一年ほど前から、人間とは思えないような猟奇的な犯行を繰り返す奴が県内に現れた。私は奴を捜査していた。
で、ここ一週間は新しく現れたバケモノを追っていたんだ。通称、稲妻男、つまり、お前のことだな。お前の起こした穀京銀行での戦闘を詳しく捜査すると、稲妻男と親しそうに話していた女学生がいた、という情報にたどり着いた。その女学生が重桃だと分かるのに、そう時間はかからなかった。
初めて会ったとき重は怯えていたようだった。いつか、何者かに襲われて命を失うと恐れていた。彼女は自分も父親のようになると言っていたな。だから取引を持ち掛けた。そして、警察で重を保護する代わりに、重は稲妻男の情報を提供するという条件の取引は簡単に成立した。お前の情報、年齢から交友関係に至るまで教えてもらったよ。
以上だ、満足したか? 彼女の思うところがあったんだろ、裏切ったと思いたいならそう思いな」
何故、警察に頼ったのか、俺にはそのことを何も教えてくれなかったのか、知りたかった。
いろいろな感情が湧き上がり、それを警察に押し付けた。
「もしその話が本当なら、警察が保護するっていう約束はなんだったんだよ?重はなんで攫われた!」
「私が知りたい。恐らく警察に犯人と繋がっている奴がいるのだろうな。だとしたら三屋が脱走できたのも合点がいく。敵は思っていたより巨大らしい」
その無責任な、自分は無関係だと主張するような言い方に腹が立った。自然に拳に力が入り、睨みつけていた。
すると彼女がたしなめるように言った。
「おいおい、怒るのは結構だが、今は冷静に物事を判断する時だ。怒りに任せて行動すると過ちを犯すぞ」
「どの口がいってんだよ」
「怒りに任せて私たちとやり合おうっていうのか?で、そのあとはどうする。これ以上犯人の手がかりがあるのか?」
「……ない」
「ないだろう、だったら怒りはとっておけ。いいか、いずれ公表されるだろうが、この前の南地区での暴力事件の犯人、つまり三屋が脱走したんだ。そして同時期に重が誘拐されている。あくまで勘だが、私はこの二つの事件が繋がっている可能性は高いと踏んでいる。もし繋がっていたとしたら、またこの前のようなバケモノと私たちは対峙しなければいけない。だが、お前も三屋のようなバケモノだろ?この前みたいに、機動隊が蹂躙されるのは困るんだ。だからお前がいる」
「……」
「考えるのはいいが、他に選択肢があるのか?」
とにかく重に会いたかった。それに彼女を助けたい気持ちはまだある。
「……分かった」
突然、松野が口をはさんだ。
「有栖さん、ちょっと待ってください!部外者を捜査に同行させようなんて正気ですか、しかもまだ高校生ですよ!」
有栖が答える。
「いいか松野、この先、正気を保って生きていたいならこの捜査から外れろ。咎めはしないだが、もし着いてくるというのなら、理性や常識やルールを判断基準にしていると死ぬぞ」
「だったら尚更問題じゃないですか。俺は人を守るために警官になったんです、こんな憔悴した若者を連れていくわけにはいかないです。相手は暴力団ですよ?機動隊を蹂躙した!」
「そうか、でもその若者は機動隊でも手に負えなかった相手とやり合っていたぞ、余計なお世話のような気がするがな」
俺は首を縦に振って答えたが、松野も食い下がる。
「もしこの子が怪我したらどうなるんですか?僕たち大人の責任は?」
「俺は怪我しないから大丈夫」と俺が言うと、
「ほら、そういってるだろ?」と有栖が同調する。
「あなたに刑事としてのプライドはないんですか?」
「そんなものは持っていても糞の一つも役に立たんしな」
のらりくらりと質問を躱す有栖を見た松野は不服そうだったが、しばらくして深刻な顔に変わった。覚悟が決まったようだった。
有栖には見えていようだったが、松野が一瞬だけ幻滅の表情を出したのを俺は見逃さなかった。
「よし、松野は署に戻って重誘拐の資料をあたれ、何か手がかりを見つけたらすぐ連絡しろ、見つからなくても五時に合流だ。菅原はここで手がかりを探すぞ、毛一本でも見落とすな」と有栖が言った。
*
一時間ほど経ったが捜査に進展はない。
次第に有栖が苛立ち、所作が粗暴になる。チューブファイルに綴じられている書類を流し読みしては、邪魔くさそうに投げ捨てる。デスクの引き出しの中身をひっくり返しては、戻さずに放置する。これではこっちが空き巣になってしまったようだ。
俺も彼女の邪魔をしない程度に手がかりを探してみたが、見つかるのは他の会社との文面のやり取りや、税金の申告書やら見慣れないものばかりで役に立ちそうもない。
唯一分かったことといえばこのオフィスの表の顔が人材派遣業だということだ。
次第に焦りが増す。
重は無事なのか。
こうしている間にも、重に命の危機が迫っているかもしれない。
そう思うと、今すぐにでも飛び出して犯人を捜しに行きたくなるが、それでは行き詰まるだけだぞ、と自分に言い聞かせる。
この女は信用はできないが、目的は一致している。
俺一人では、車にも乗れない。だが、警察と言う組織の力を借りれば、可能性が広がる。
何か手がかりはないか。
藁にも縋る思いで目に入ったファイルを手に取った。
想定された収納数をはるかに超えてはちきれそうなっているファイルには、履歴書と給与記録等の付随する書類が綴じられていた。書類の中には日本人だけではなく、外国人国籍の履歴書もある。その無数の履歴書は几帳面に名前順で並べられていることに気づいた。
もしかして、と思い”み”の並びを探した。
当たりだった。
探していた名前があった。三屋だ。
三屋弘鷹、年齢二十一歳。
一八歳で入学した東京の大学を一年で退学し、その半年後に大学事務の派遣社員として働き始めたようだ。彼が採用されたのは穀京大学という市内にある理系大学で、父が勤務しているので施設内に何度か入ったことがある。ただ、そこも一年前に退職している。
貼り付けられている写真を見ると、今の派手な髪形とは程遠い普通の青年といった外見だ。
これは何かに役立つだろうと思い、有栖を呼びつけ履歴書を渡した。
有栖は履歴書をひったくってまじまじと眺め「よし」とだけ言い松野に電話をかけ始めた。
その無愛想な態度に少し腹が立った。
褒め言葉の一つも出ないのか。
――そっちはどうなってる?なるほど……何が書いてあった?……持ち出せそうか?よし……頼んだ。そっちは切り上げてこっちに来てくれ。
有栖は電話を切ると「松野を待つぞ」と言った。
「何かわかったのか?」
「ああ、これが本当なら私の手には負えんかもな、今から穀京大学に向かうぞ」
*
パトカーで穀京大学に向かっていた。
助手席に座る有栖刑事はスマートフォンに表示される、松野が持ち出した資料写真を流し見している。
これは重の家から見つかった日記らしい。
運転中の松野が言う。
「彼女はノートに日記をしたためていたようですが、ただ、どうも破れているページがいくらかあるようですね。犯人が奪ったのか、自ら破ったのかは定かではないですが重要な手掛かりになるかと思います。
その日記によると彼女の父は新聞記者でしたが、とある情報を掴んだせいで消えたようです。その情報というのが穀京大学が人体実験の献体を暴力団から受け取っていた、というものです。にわかに信じがたいですけどね」
画面を眺めている有栖刑事が怪訝な顔をして言った。
「おい、稲妻男、お前は重と仲がいいんだろ?妄想癖があったのか?」
「そんなわけないだろ」
「なら、自分の目で確かめてみろ」と言いながら有栖刑事はスマートフォンを放り投げた。
それを受け取りに日記を読む。
確かに、ところどころ日付が飛んでいるようだ。
――お父さんが消えてから今日で一年だ。どれだけ日を重ねてもこの喪失感が消えることは無い。
でもこのまま悲しみに浸るだけの生活を送るのはお父さんも望んでないはずだ。
だから、お父さんの仕事を私が引き継ぐことにした。これが私なりのお父さんへの追悼だ。
お父さんが掴んでいたこと。
人を兵器に変える研究。
遺伝子を操作することで人間の能力を限界まで高めようとしていたらしい。それは成功し筋力が異常に発達し獣のような力を得た改造人間を生み出したようだ。
大学の非人道的研究行為。
実験に使われていたのは生きている人間だ。身寄りのない人、戸籍のない人を裏のルートで購入し様々な人体実験を行っていたらしい。
その研究者の息子は
この先は破られているようなので別のページを見てみる。
――個人的な調査を進めて、まず改造人間が本物だと知った。
そしてお父さんの記事も本当だと確信した。穀京大学で行われている人体実験。
父たどりつけなかった領域まで、私ならたどり着けるはずだ。
――稲妻男も遺伝子操作によって生み出したに違いない。今日あ
――家に入ることは成功した。収穫は
大事な部分は破られているが、俺には分かった。
父のことだ。
”遺伝子操作で人を兵器に変える研究をしている研究者”とは父のことだ。
考えたくもないが、父が、俺にその遺伝子操作を施していたとするならば、この電撃能力も、合点がいく。
三屋に異常な身体能力があるのもこの実験が存在することの裏付けになる。
しかし、父が非人道的行為をしているなど信じられるわけもなかった。
いやすべてのことが信じられない。
この日記の”調査”というものは俺のことを指している。だとしたら、重と今まで築き上げてきた関係はすべて虚構だったのか。
通学バスの中で見た笑顔、美味しそうにカレーを頬張る姿、初めて手を握った暖かさ。そのすべてが”調査”のためだったのかと思うと自分が惨めで惨めで仕方なくなった。
今まで感じていた怒りは無くなっていた。
それどころか何も思わない。
「これ破ったのは重自身だろう」と有栖が言っている。
「なんでそう思うんですか?」と松野。
「この日記は菅原の正体の部分は隠してあるが、大学の人体実験のことは隠していないんだよ。恐らく、これを破ったのは重自身だろう。確かこの日記はクローゼットの服の中に隠されていたんだったよな?」
「はい、そうです」
「明らかに、簡単に見つからないように隠されている。強盗がこの日記を触った形跡は?」
「ないそうです」
「私は重から稲妻男の正体は誰にも口外するなと念押しされていた。重はお前を守ろうとしつつ、警察に向けてのメッセージも、残したんだよ」
有栖が俺の頭を叩いて言った。
「だから、アホ面晒してないでしっかりしてくれ。お前が役立たずになったら連れてきた意味がないんだよ」
「ああ、そうだな」
有栖の言葉に対してうわべだけの言葉を返す。
気持ちを切り替えないと。
彼女がどういう思惑で近づいていたのは今は関係ない。彼女を助けないと。そして父に会い真意を聞かないと。
ただ、もう重の手の感覚を思い出せなくなっていた。
「成田ビルで三屋の履歴書を見つけたときは、大学で聞き込みをしないといけないと思ったが、その必要は無さそうだな、直接、会いに行くか、お前の父に」
と有栖が言った。
*
穀京大学の来客用駐車場に車が停まる。
子供のころの記憶をたどると、父の研究室は駐車場から一番離れたところにあったはずだ。
ここからは少し歩くことになる。
「おい、松野、銃はもったか?」
「はい」
「もし、必要があれば躊躇なく発砲しろ」
「でも……」
「でもじゃない。後始末は私がやる」
楽しそうに談笑している大学生は、物騒な会話をしている二人のことなど気にもかけない。
ようやく目的地に着いた。
そこには幼いころに父の職場を見たいと頼みこんで一度だけ連れて行ってもらったことがあった。ガラス張りの巨大な建物が近代的でかっこよくて子供の頃はわくわくしたものだった。
その建物には迷わず着くことができた。
一度行っただけなのに迷わなかったのはよほど印象的だったのか、それとも別の理由があるのか。
学生を装いその中に入る。
入り口の掲示板には父が学会で賞を取ったことを讃えるポスターがあった。より良い社会への第一歩と、標語も書かれている。その横に棟内の案内図があった。
父の研究室は地下一階の一番奥に位置していた。そこに近づくにつれて心臓が強く脈打つのが分かる。もし重の日記が正しかったのであれば、父の研究は人を人と思わない非道なものだ。そしてそれは俺にも施されているだろう。
だが、あの優しくて家族思いの父がそんなことをするとは思えない。
正直、間違えていてほしい。
重が間違えていたとしたら、父は優しい父のままで重は妄想癖のある狂人だったということだ。俺はひと時の間、重に振り回されただけで、今後は縁を切ってまた元のように暮らすのだ。
いや、元のように暮らすことなんて出来るはずがない。
俺は体から電気を発するようになり、重は誘拐されたのだ。なんとか現実から目を逸らそうとするが、そんなことは不可能だ。
真実はこの目で確かめなくてはならない。
研究室に着いた。電気は点いておらず、室内は静まり返っている。中には誰もいないように思えた。有栖が躊躇なく扉を開いた。
薬品ボトルや、実験器具や、パソコンが所狭しと並べられている広い室内。嗅いだことのない薬品の匂いで、息をするたび不快な思いになる。
ここには誰もいなかった。有栖はその場にある実験器具を適当に手を取って、戻す、を繰り返しながら、室内を一回りする。Ⅼ字の試薬棚の傍で足を止めて、言う。
「もう一つ、部屋がある、実験室のようだ」
その扉は、壁から垂直に飛び出ている棚に隠れていた。その中は明かりがついていた。
そして、実験室の奥に、父が座っていた。その隣には三屋もいる。
「おいおい三屋もいるのか、願ったり叶ったりだな」と有栖が呟いた。
三屋が父と一緒にいることが何を意味しているのか。考えるより先に口が動いていた。
「父さん……なんでそんな男と一緒にいるんだよ。」
父が答える。
「それは璇臣ももう知っているはずだ」
「じゃあ重が掴んでいたことって……」
「ああ、本当だ」
「重はどこにいる?」
「すまない、このことはいつか説明しようと思っていたんだ」
「答えろよ!」
声を荒げると三屋が父を庇うように身を乗り出した。
「まあまあ、同じ改造人間どうし落ち着きましょうや」
有栖と松野が身構える。
「おや、教授は逃亡犯と仲がよろしいみたいだな」と有栖は余裕を見せるが、額には一筋の汗が流れていた。
「警察が来るっていうのは聞いてたが二人だけかい、拍子抜け」と三屋が挑発するように言った。
有栖が松野を見て言う。
「知ってたのか?松野、このこと誰かに言ったか」
松野は有栖の目を真っ直ぐ見て言う。
「はい。課長に伝えました。これが正しいと思ったので」
有栖はため息をこぼす。
「だからバレたのか。おまえは馬鹿正直な奴だな。今後、苦労するぞ」
それを聞いた三屋は気味の悪い笑みを浮かべて言った。
「今後の心配は必要ないよ。ここで二人とも死ぬからな」
「お前はムショにぶち込まれる心配をしたほうがいいんじゃないのか?」と有栖が返す。
「むかつくやつだな、殺すぞ」
過激な言葉とは裏腹に笑みを浮かべながら三屋が近づいてくる。対する有栖が拳銃を構える。俺も戦闘に備えて身構えたが、松野が肩に手を置いてきて言った。
「ここは大人達に任せて」
彼の手にも拳銃があった。
有栖に釘付けになっている三屋の隙を見て、無力化する作戦だろう。
父は表情一つ変えずにその場にいた。何を考えているのか全く分からない。
「どうした、近づいてきて、檻の中に戻る準備ができたのか?」
「もう喋るんじゃねえよ、マジで殺すぞ」
有栖は口撃を絶やさない。徐々に三屋の表情から怒りが見え始めた。
「随分イラついているな、そんなにムショが嫌なのか?お前にお似合いの家だぞ」
「あー、マジで殺すわ!」
三屋が激高したと同時に、雷鳴と閃光がほとばしった。
この電撃は俺が放ったものではなかった。有栖が顔を歪ませて膝から崩れ落ちる。
「松野!奴を撃て!」
有栖の叫びを聞いて、松野が発砲した。弾は三屋の脇腹に着弾し、肉の破片と血液が飛び散った。
銃弾を受けた三屋は、獣のような唸り後を上げながら松野を向きなおし突進する。その形相から殺意を感じるのは余りにも容易だった。助けるために俺も駆け出したが手遅れだった。
松野はもう一度、射撃体勢を取り直すが、三屋の突進が早すぎた。一瞬でそれは執行された。
まず腕がアルミ缶のようにひしゃげた、そして、その衝撃を受けた松野の巨体は重力を無視したかのように吹き飛んだ。
松野は己の血だまりの上でうずくまっている。動きは無い。
有栖は電撃のせいで気絶している。彼らの容態が心配だった。だがそれ確かめているよりも先に三屋を打ち倒すことが先だと感じた。目的を遂行したことで三屋が無防備になっていたからだ。
背後から距離を詰めて右頬を電撃を込めて殴りつけた。
彼は全く動じることなく、それはまるで巨樹を殴っているかのようだった。おかしいと思った。前に相まみえたときは電気によって無力化することができていたのだが、効かなかった。
俺に目線がゆっくりと向く。
「電気を使えるようになったんだよ、驚いた?」と得意げに三屋が言った。
「ああ、正直な、どうしてだよ」
「あんたの父ちゃんのおかげだよ、もう一回改造してもらってお前と一緒の遺伝子を入れてもらったんだよ、よくわかんないけど。」
父の姿を見るが、ただ俺達を見ていた。表情から何を考えているのか読み取ることができない。
三屋は俺に対しては敵意がないようで攻撃を仕掛けてこなかった。
有栖は気を失っていていて、松野は血だまりの上で動かない。
松野を助けようと近づくと三屋が動いた。
「おいおいおい、警察にはこのまま退場してもらうつもりなんだよ、邪魔しないでくれないか」
「いい人なんだ。そのまま死なすわけにはいかない」
「いっとくけど、そいつ死んでるぞ。邪魔するなら、お前もその男みたいになるぞ」
三屋が許可を求めるように父を見た。そして父が口を開いた。
「やっていいぞ」と言って表情は笑っていた。その顔は、いつも見ていた父の笑顔だった。
三屋が突進してきてたのをバックステップでかわした。
だが、それを予想していたように三屋は身をひるがえし、その勢いを利用して回し蹴りをした。
虚を衝かれ無防備な後頭部に衝撃が走った。
視界に霞がかかる。
不明瞭な視覚のなかで三屋が近づいてくるのを捕らえた。このままではやられると思った。相手に隙をつかれないように、背後にあった液体が入った容器を手に取り、それを相手の顔面に投げつけた。
「あっつ!なんだこれ、目が見えねえ!」
当てたのは洗浄用のアルカリ性洗剤だったようだ、相手が狼狽えている間に視界が回復した。
「おい!てめえ、目が見えねじゃねえか!どうしてくれんだよ」と三屋が怒鳴る。
その言葉で少し油断してしまった。三屋は乱暴にその場にあった椅子を投げつけた。それは俺を正確に捉えて飛んできた。
それを腕で受け流したその刹那、三屋は懐に入り込んだ。
そして脳が押しつぶされたような衝撃が走った。
「目が見えねえって言葉に油断したのか?馬鹿が。俺は鼻が利くんだよ!そろそろ覚えろよ!」
意識が遠く離れていく。
朦朧とした意識の中で重たちのことを思い出した。
重は俺の好意を利用して、父の情報を追っていた。
有栖は俺を対三屋の抑止力としてここまで連れてきた。
俺の行動は主導権が常に他人に委ねられていたことに気づいた。
そして父も俺の体を使って何かに利用しているのだ。そこに俺の意志は無い。ここで三屋にやられるならば、俺はただ利用されて死んでいくだけだ。ふつふつと怒りが湧いてきた。
それは夕立のように心を浸食し始め、やがて雷を生み出した。頭の中で言葉にならない怒りが雷のように轟く。
それが体を動かす原動力となって意識を取り戻させた。そして雷鳴と共に三屋の顔に拳がめり込んだ。
体のコントロールを失った三屋は、その場にふらふらと倒れ込んだ。
父の方を見ると、変わらず笑顔だった。
それを見て昔の記憶がよみがえった。中学の時のボクシング部で俺が辛勝したときと一緒の表情、お前が勝つことは分かっていたと言った。
今も知ったような口で、そんなことを思っているのだろうか?
そう思うと雷鳴はなお一層激しさを増した。
立っているのは俺と父だけだった。
「父さん、これで満足か?」
「ああ、予想以上の結果だ」
「説明してくれよ」
「この状況を見て分からないのか?お前は誰からも命を脅かされることのない人間になったんだぞ?それがどんなに素晴らしいことか」
「素晴らしいわけない、俺をバケモノに変えた」
「バケモノじゃない、お前は、いわば人間を克服した超人だ。
お前もいろいろ経験してわかってきただろう? 人間というものが生物の延長である以上、本能で他人を蹴落とすことを望んでいるんだ。
大体の人間がそれを理性や、共感性や、あるいは教育で抑え込んでいるが、もし理性などを持ち合わせない人間、例えば他人の頭を平気で切り刻めるような野蛮な人間がいた場合はどうなる?悲しいことに、我々が等しく人間である以上、知能や身体能力は似たようなもの収まってしまう。だから、他人を害することに躊躇のないほうが有利になる。たいていの人間はそういったものに狙われると、成すすべもない。
お前の祖母は自宅に居るとき強盗に命を奪われたんだ。すべての人間にも分け隔てなく愛情を与えられる、優しい母だった。お前がいい人と言った、この刑事の男だってそうだ、三屋になすすべもなく殺された。
お前も気付いただろ?人間は、どんなに人道的で高潔な生き方をしていても、ある時、誰かに殺されるという可能性を内包している。その矛先がいつ何時、己に向けられるのか、そういう命が脅かされるという憂患から逃れることは、人間である以上不可能だと悟った。
だから、この僕が人間を抜け出すための術を見つけ出し、これ以上善き人間が殺されないようにするのが僕の使命だと思ったんだ。
そしてある時見つけた。動物の進化を操ることのできる遺伝子配列を。これを操ると、羊が狼を襲い、ロバが賢者を騙し、鳩が蛇を飲み込むようになるんだよ。
人間がその力を増し、電気を操れるようになった。まだまだ未知の可能性だってある。その可能性を、平穏をお前に与えたかったんだよ。分かってくれるか?」
「それがこの能力っていうことか?」
父は静かに頷いた。
父の言うことはおかしい。理にかなっていない。
「ならなんで三屋なんかにも能力を与えたんだよ、奴は人を躊躇なく殺せる。平穏とは程遠い」
「仕方なかった。研究には資金とサンプルが必要だ。それを供給できるのは非人道的組織しかいなかった。その見返りは武器の提供、つまり三屋だ。よく考えてみろ、殺されたのは大体しかるべき所業をしている物だけだ。自業自得なんだ。だから気に病むことは無い。
それにこの研究が成功すれば、そして今後よき人間にだけ改造を施せば、秩序は保つことができると僕は思っている。だから、お前にも改造を施した。お前ならやってくれるとな。平穏を保つために働いてくれる。今回、三屋を打ち倒したように。見てみろ、研究は成功じゃないか」
「その成功のために、今まで人体実験をしていたというのは本当なのか?」
「本当だ」
「そのために犠牲になった人は?」
「他人に害を与える可能性がある人間だったんだ、致し方ない。それに消えてもだれも気にしない」
「それは誰の判断だよ」
「私だ」
「じゃあ松野も、その中の一人っていうのか?」
「流れた血は尊く、必要なものだ。今後の世の中を見れば彼も納得するだろう」
「じゃあ……重は」
「彼女はこの情報を世間に流そうとしていた、そうなればこの計画も中止になる。邪魔になる存在だったんだ、だから頭黒森組に引き渡した。安心しろ。命は奪うな、と言ってある。これは私からの慈悲だ」
慈悲。
上から目線で、知ったような気になって、勝手に判断して、忌々しい言葉だ。
そんなことで勝手に人の命を左右する傲慢さが許せなくなった。
頭の中の雷鳴が鳴りやまなくなった。それが頭の中なのか、現実なのか分からなくなっていた。
*
鳴りやんだ時には、父が倒れていた。
肌が黒く変色して、動かない。
父が死んだ。
いや俺が殺した。
今まで自由自在に動いていた体が動かなくなり、一切の思考をすることが無くなる。まるで電源を切ったかのように簡単に、そして取り返しのつかないことだ。
殺人。
父の最後の顔も見ていなかった。
怒りの気持ちはもうなかった。
悲嘆の涙も出ない。
ただただ、あっけに取られていた。
有栖が起きたようだった。
「おい松野!」と叫んだが返事は無い。
辺りを見回して、彼女らしくない震えた声で言った。
「菅原……おまえ何をした?」
俺は何も言えなかった。
有栖が叫ぶ。
「おい、とりあえず逃げるぞ!火が着いてる!」
その言葉で建物に火が着いていることに気付いた。俺の電撃のせいだろう。すでに煙があたりを包み始めていた。
有栖は松野の遺体を部屋の外に運び出す。
その後、松野が落とした拳銃を手に取って戻ってきた。
そして、引き金に指を掛けた。
その銃口は三屋の頭に向けられている。
「おい……なにを――」
発砲音が俺の質問を遮った。三屋の額から血が流れる。そして、手に持った拳銃を火の中に放り投げた。
そして「死人に口なしだ、早く逃げるぞ」と言う。
火の勢いがさらに増す。
煙が充満したことで火災警報器が鳴った。
早く運び出さねば。
俺も父の肩に手を置いた。すると有栖が忠告するように言った。
「おい、その遺体を運び出したら、私はお前を逮捕しなくてはいけなくなる」
彼女はそれ以上言わなかったが、言わんとすることは分かる。
父の体には電撃の影響で血管の形をした黒い痣が浮き出ていた。これは、俺がやったということが明白だ。
だが火事の中に置いていくならば……。
いや、それはできない。
「これは俺がやった。どんな罰も受ける」
「わかった……」と言った彼女は薬品棚から、液体の入った容器を取り出し、父にかけた。
「おい、なにすんだよ!」
その液体は可燃性だったようで瞬く間に燃え上がり、父は火に包まれた。
「さあ逃げるぞ」
「なんで……そんなこと」
「早く!お前も死ぬぞ!」
火が部屋を飲み込むように強くなってく。肌を焼けれるような暑さを感じたが、この場から離れる気に慣れなかった。
学生の避難する声があちこちからする。
有栖が叫び続ける。
「早くしろ!」
「いや、ここにいたい」
「ぼけが!めんどくさい!」
このまま燃えてしまいと思った。
だが、有栖に無理やり部屋の外まで連れ出された。父の体が徐々に火柱に飲み込まれていく。その姿を見て、もう間に合わないのだと痛感する。
父が誘った旅行のことを思い出した。
約束は果たされなかった。俺のせいで。
ここで一緒に死のうとも思った。
だが有栖が邪魔をする。
「死にたいのは勝手だが、もう一つやることが残ってるんじゃないのか?」
「……重のことか?」
「ああ、だがそれだけじゃない」
「なんだよ?」
「それは自分で考えろ」
「……」
「おい、菅原。消防が来る前に逃げろ、私は大丈夫だが、お前がいると説明できない」
「……わかった」
俺はその場から去った。それは自分がやったことから逃げることと同じ意味だと思ったが、それしか出来ることがなかった。
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