第3話 7月17日
注文をしてから二十分程たったが、食事はまだこないようだった。別に急いでもいないし、重と会話をできるのだから全く気にしていなかった。
「最近、カレーにほんとハマってて、家でカレーを作ってたんだけどさ」
「うん」
「スーパーで売っているルーを買ってさ、箱に書いてある通りのレシピで作ってもさ、あんまりぴんと来なくて」
「うん、うん」
「だから、ヴィシュワさんに頼んで香辛料を少し貰ったんだ、ウコンとかナツメグとかシナモンとかをね」
「おお、本格的」
「それを市販のカレーにとりあえず全部入れてさ、食べてみたら、そのあじがぁ!」
突然、ドアベルが乱暴に叩きつけられる音がして、重の肩がぴくっと跳ね上がった。
「なに?びっくりした」
どうやら何者かが乱暴に扉を開けたらしい。おかげで話の結末が分からなくなってしまった。どんな不届き者がやってきたのか確認すると、入店してきたのは警察官のようだ。
180ほどある大柄な女性警官と、彼女より少し背は低いががっちりとした柔道体形の男性警官の二人組だ。女性警官は化粧っ気が無く、鋭い顔つきをそのままに店内を睨みつけていた。その姿は爬虫類のようで、冷血さがにじみ出ている。
女性が指示をだして、男性がしきりに頷いている様子を見るに、女性のほうが上司なのだろう。
男性警官は、鍛えられた体つきを見ない限りは、新入社員のようなさわやかないでたちだ。
二人は手元に持った書類と、店内を一見するが、目的のものはここにはなかったようで、ずかずかと厨房の中に入っていった。
俺はその粗暴な態度にあっけに取られていたが、重が「嫌な予感がする……私みにいくっ」と言い残し厨房の中に入った。
「あ、ちょっと!」
俺も一拍遅れて厨房に向かう。
怒気の籠った女性の声が聞こえてくる。中では女性警官がヴィシュワさんに詰め寄っていた。
「昨日の東地区の民家で住民が殺されたのは知ってるな?」
「はい、ニュースでみました」
「被害者はマハルジャクリシュナ。ここの従業員だろう?」
「え、そんな……」
「知らなかったのか?まあ、そう言うだろうな。で、知っていることは」
「……クリシュナは一か月前にやめました、あまりよくない別れ方だったのでそのあとはしらないのです」
「どういう別れ方だ?」
「お店のお金を取るくせがあったんです。見つけるたびにちゅういしたんですけど、わたしもたえられなくなってしごとやめてもらいました」
「盗まれたのはいくらだ?」
「ごうけいで一万円くらいです」
「一万、動機としては弱いか」
東地区の民家で殺人事件。
昨日、東地区で送ってくれた警察から聞いた、あのことだろう。
被害者はダーマカレーの元従業員で、警察は明らかにヴィシュワさんを疑っている。
しかし、ヴィシュワさんは事件と関係あるとはまだ決まっていない。
それなのに、この女性警官は横暴すぎる。
彼女は猜疑心を隠さずにいう。
「お前、何か知らないだろうな?」
「はい、ほんとうにしりません」
「だったら、本当に知らないか店内を調べさせて貰うからな」
「それはお店のじゃまになります。やめてください」
乱暴な態度で詰問を止めない女性警官に、重が割って入った。
「ちょっとひどいんじゃないですか、ヴィシュワさんは人を傷つけるような人じゃないです」
遮られた女性警官は重を睨みつけるが、何も言わない。その眼の圧力に重がたじろいだ。
それ見かねた男性警官が言う。
「有栖さん、ちょっとやりすぎじゃないでしょうか?この人は嘘をついてないように思えます。他を当たりませんか?」
「おまえは、しゃしゃり出てくんな!」
「は、はい、すいません……」
怒鳴られた男性警官は口をつぐんだ。
やはり有栖と呼ばれた女性警官のほうが上の立場らしい。
しかも、この横暴な態度は被疑者に拘わらず誰にでも向けられるものだと分かった。
つまるところ、この有栖という人間が徹底的に傲岸不遜な人間だということだ。
有栖は店内をじろじろと見回したあと「気がそがれた、邪魔したな」と吐き捨てるように言った。そして、つかつかと出て行った。
男性警官はうやうやしくこちらまでやってきた。
「ご迷惑をおかけしました、もし何かありましたらご連絡ください」
深く頭を下げて、名刺を渡してきた。彼は、ヴィシュワさんがそれを受け取ったのを見ると、もう一度頭を下げて彼女の後をついていった。
「なんだろ、すごい感じ悪い、あの有栖とかいう人!」と重は感情をあらわにする。
一方、ヴィシュワは心が晴れないようで弱弱しい声で言った。
「クリシュナがしんでしまうなんて、すごくだらしないけど悪い人間ではなかったのに。モモさん、わたしはどんなめにあってもいいんです、とにかくはんにんさえつかまってくれればいいんです」
ヴィシュワさんの思いやりを見て、重の心は治まったようだ。
「うん、そうだね。あの有栖っていう人は嫌だけど、松野さんは信用できそうだし、早く犯人が捕まるといいですね」
ヴィシュワさんが持っている名刺には「穀京警察署刑事課 巡査 松野 暁司」と男性警官の所属と名前、そして警察署の電話番号が書かれている。
彼はそれを懐にしまうと、すでに盛り付けてあったカレーを手に取って明るく言う。
「もったいないので、気をとりなおしてごはんをたべてください、時間がたってしまったのでお金はいりません」
邪魔が入って、食事の途中だったことを忘れていた。
俺たちは厚意に甘えることにした。席に戻り、無料でマサラカレーを食べた。少し冷めていたが相変わらず美味しいカレーだった。
食べ終わったころに夕立が降ってきた。大粒の雨が天井にあたって騒々しい雨音を出す。
美味しいカレーのおかげで、和やかな雰囲気が戻ってきたというのに、少し気分が落ち込む。
「雨が降ってきちゃったよ、あーあ、傘持ってないな。璇臣くんは?」
「俺も持ってないなー」
「夕立だからすぐ止むかな?」
天気予報は見ないし、朝は晴れていたので傘は持ってきていない。俺が傘を持ってきていれば相合傘の流れだったかもしれない。
誰かが言った言葉で、人生は選択の連続だ、というのがあるらしい。
俺が思うに、そこが選択肢だっただなんていうのは後悔してからじゃないと気付かないものだ。だから人生は後悔の連続でしかない。俺はなんて勿体ないことをしたんだ。
重は考える素振りをして言った。
「止むまでここで待ってよっか、ヴィシュワさんいいよね?」
「はい、もちろんです」
ヴィシュワさんの了承を得てダーマカレーで雨宿りをさせてもらうことになった。
外はさらに雨が激しくなり、雷さえも鳴り始めた。雨を避けるために次々と客が入ってきて、店内の席が埋まる。俺たちも場所代として二人分のラッシーを頼んだのだが、また、一つのコップに二つのストローを入れて、ラッシーを持ってきた。
それを見て、少し不安に思って重に聞いてみた。
「これって嫌がらせじゃないよね……?」
「ふふ、これはヴィシュワさん風の友好の証だよ。変わってるでしょ?」
「うん、変わってる」
ヴィシュワさんはにやけた顔を俺にだけ見せた。その異国の友好の証に心底感謝をする。
「これどうする……この前と同じでいい?」と重が聞く。
「……それでいいよ」
と、喜んでいることを気取られないように平静に答える。
重と話し合って、前回は重が先に飲んだので、俺から先に飲むことになった。
重に見られると思うと何故か少し緊張して、気持ち悪く見られないように気を付けようと思った。
ちびちび飲むのも気持ち悪いだろうから一気に飲み干して、重に渡した。
「じゃあ、いただきます」
重はストローに口を付けようとした雷鳴が鳴り、店内の電気が消えた。
地面が揺れるほどの雷だったので、かなり近くに直撃したのだろう。
店内にざわめきが起きる
雨雲で空が覆い隠れているせいで、いつものこの時刻より、かなり暗い、店内はかろうじて手元が見えるぐらいだ。
「警察に停電とトラブル続きだね……」
そう重がつぶやくのも無理はない。おかげで落ち着いて食事もできない。
「まあ、待っていれば戻るでしょう」
「ふん、ほうだね……」
彼女がちゅるちゅるちゅると、ストローを吸う音が聞こえた。
「はあ、おいしいっ」と感想を言う
停電直後でも食事を楽しんでるらしい。
「え、いま?」
「だって、勿体ないじゃん」
意外と神経が図太いのか、よほど停電になれているのか。
そんな彼女に見習って、何事もなかったかのように会話を続けた。
「知ってる?落雷で死ぬ確率って、宝くじに当たる可能性より高いんだって」
「え、じゃあ、宝くじに当たったら、落雷に当たって死ぬかもしれないじゃん」
「いや、確率ってそういうもんじゃないよ……」
「そうなの?いや、確率って数学であったけど、本当に苦手なんだよね。わけわからん」
「璇臣くんて数学苦手なの?」
「うん、ちょっとね」
「物理とかは得意なのに」
「なんか意味わかんなくなる、これ生きるために何の意味があるんだろうって考えちゃってさ」
「学問に意味なんて求めたらだめだよ、知識は蓄えるだけ蓄えていたほうがいいんだよ。いつか意外なところで役立つ時が来る、っていうのは父さんの受け売りだけど」
「なるほど、おかげで、今日は、家帰ってちゃんと勉強しようかなーって思えた」
「いいね、でも明日以降もちゃんと勉強しなよ?」
「はい」
しばらくすると目が慣れてきた。小一時間待ったが、一向に回復する気配はなかった。ヴィシュワさんはブレーカを動かして、復旧を試みるが、うまくいかないらしかった。
さすがにおかしいとなり、店のことで忙しいヴィシュワさんの代わりに、二人で外の様子を見ることにした。
店内に常備してある雨合羽を羽織って外に出てみたが、その光景に絶句する。
電柱が倒れて、道路に転がっていた。恐らく落雷が落ちたのだろうと思われる。
電柱はコンクリート製だ。それを折るほどの力を持っているとは、自然の力は恐ろしい。
繋がっていた電線も引き倒されて信号機に引っ掛かっている。これは今日中の復旧は難しいのではないかと思う。
幸い、雨のおかげで人通りはほとんど無く、けが人はいないようだ。
「こんなの初めてみた、電線千切れちゃってるんだ」と重は物珍しそうに辺りを見回す。
稲光が視界を奪い、遅れて雷鳴が鳴った。
時間差があるから大丈夫なのだが、さっきの重の話を聞いていたので、自分に落ちるのではないかと少し怖くなった。
その雷鳴のせいで、重を狙っている人間がいることに気付けなかった。
一瞬のことだった。
男が走ってきて重の雨合羽のポケットに入っていた財布を奪い取った。
スリだった。
金を奪い取ることに必死で、雨の対策など二の次のようで、男の着ている短パン、Tシャツは水浸しになっている。Tシャツは体に張り付いて、彼の貧相な体を写し取っていった。
「あ、ちょっと!スリ!」重は叫ぶ。
直感的に俺が行くしかないと思い、追いかけた。
停電のせいで街の明かりがほとんど消えているのに加えて、目に雨が当たる、視界は最悪だった。
スリは暗闇に向かって走る。
だが俺のほうが足が速いようだ。距離は徐々に縮まっている。
もう少しで捕まえられる。あと少し。
もう手の届くところまで来た。だが後ろで重が叫んでいることに気づいた。
「危ない!とまって!とまって!!電線がある!」
目の前には、千切れた電線が道に垂れ下がっていた。視界が悪いせいでスリは気付いていないようだ。このままではスリの命が危ない。
「おい、危ないぞ止まれ!」
そんなこと言ってもスリが止まるはずない。犯罪者とはいえ死んでもらうのは困る。
「電線にあたるぞ!止まれ!」
もう一度叫ぶが止まらない。
もうどうしようもできない。
――ここで見殺しにしたら、俺が殺したのも、同じなのではないか?
そう思った瞬間、本能的に体が動いていた。
スリに後ろから飛び掛かると、スリは横に吹き飛んで地面に転がった。財布は地面に投げ出された。これで取り返すことができるだろう。だが俺の体は、慣性に従い電線に吸い込まれる。
俺は死を悟った。
全身を打ち付けられたような衝撃が走り、雷鳴のような轟音が鼓膜を埋め尽くした。
視界がはじけ飛ぶように真っ白になり、記憶はそこで途切れた。
*
「……璇臣くん、大丈夫?」
重の声で目が覚めた。目に白い光がこびり付き、前が全く見えない。
「重?俺、生きてる?」
「うん、うん」
光が、少しづつ消えていき、ぼんやりとだが視界を取り戻した。
重は嬉しそうに頷いているのが見える。
「うん、俺、生きてる、なんで?」
「よかった……体は?ちゃんと立てる?」
そう言われて、自分がまだ道路に横たわっていることに気づいた。
手を使って体を持ち上げて、足を体の下に持っていき、下半身に力を入れて体を垂直に立てる。全く問題なく立ち上がることができた。
「はあ……」重が安堵が混じったため息をついた。
「そうだ、重の財布は?」
「そんなことはどうでもいいよ、璇臣くんが無事なら」
「いや、ちょっと待って」
俺が吹き飛ばしたスリはよたよたと立ち上がり、重の財布を拾い直している。この場から逃げようとしていた。
このまま逃がすわけにはいかない。
「わたしの財布なんか気にしないで!」
と重は言うが、また盗まれるなんて俺は納得いかない。
よろよろと走るスリにはすぐに追いついた。スリは逃げることをあきらめて、俺と向き合い威嚇する。
「くそ、痛てえな、てめえ吹き飛ばしやがって!」
「お前を助けるためだぞ?」
「はあ、適当なこと言ってんじゃねよ、大体、てめえらのその制服、穀京私立高校に通ってんだろ、金持ってんだから財布くらい恵んでくれよ!」
「しるかよ、金が欲しいならまっとうな方法で稼げよ、こんなしょうもないことしないでさ」
「しょうもないだと、てめえ馬鹿にしやがって!」
激情したスリは俺に殴りかかってきた。
俺はこの男のために命を投げ出したはずだ。なのに感謝もされずに逆上される始末。心の中で、燃え滾るような何かが溢れそうになる。
スリの拳が俺の頬にあたった瞬間に、何か、が爆発してスリを殴り返していた。
腹を一発。
その瞬間、スリの体が跳ね上がり、その場にうずくまり、動かなくなった。拳がひどく痛む。拳が焼けたような、ひりひりとした痛みだ。それに、俺の目がおかしくなったようだ。拳から火花が散っているように見えた。
「璇臣くん、大丈夫!?」
「……あ、うん、大丈夫。」
その声で冷静さを取り戻した。
スリは怯えた目で俺を見ていた。もう盗る意志は無さそうだ。財布をスリから取り返して重に返す。
「これ、取り返したよ」
「うん」とだけ重は言って重は財布をポケットにしまった。
スリは縋るように言う。
「頼む、許してくれ……俺が悪かった」
「二度とこんなことするなよ」
「すいませんでした」と弱弱しく言ってどこかに消えた。警察に突き出すことも考えたが、そこまでする必要もないと思ったので見逃した。
スリがいなくなったことを見届けて、ダーマカレーに戻った。
席に着くと「ありがとう、これじゃあ私んちに来るどころじゃないね」と重が笑って言った。
何で笑っているのか分からなくて、俺が怪訝な顔をしたので、彼女は俺の服を指さして教えてくれた。
体は何ともないが、俺の制服は感電のせいでところどころ焼け焦げていた。
重が投げやりに「今日は散々!もう帰ろう!」と冗談交じりの声で言った。確かにその通りだ。死を覚悟するぐらいの出来事があった。さすがにもう体力の限界だ。
ヴィシュワさんは最後の客の相手が終わったようだ。ヴィシュワさんにさっきあったことを説明すると、青ざめた顔で心配してくれた。
「モモさんはダーマ―カレーの営業が終わったら家までおくりましょう。センシンくんはどうしますか、体は大丈夫ですか?送りましょうか?あと、服ボロボロですけど?」
「体は大丈夫。送らなくても俺は平気です。でも、制服はどうしよう、シャツは替えがあるからいいとして、スラックスとベストは替えがないし……」
親にどう説明すればいいかと考える。
電線に当たって感電したなんて馬鹿正直に説明はできない、かといってこの制服を見れば、ただ事ではない状況があったことは容易に推測できるだろう。
俺が焦っていると、「よかったらわたしが直しましょうか?」とヴィシュワさんが言った。
「そんなことできるんですか?」
「はい、わたしいがいにも手さきがきようなんですよ。一日くらいくれれば直しますよ」
そんなことできるのか信じがたいがヴィシュワさんはいい人だから大丈夫だろうと思った。
俺は制服をヴィシュワさんに預けることにした。
だが、明日着ていく物が無い……仕方ないが休むか。両親は俺が学校に行く前に出社するので、ずる休みは簡単にできる。
ヴィシュワさんは替えのTシャツもくれて、本当にいい人だと思う。
背中一面にカレーがプリントされた妙なセンスのTシャツを着て、俺は帰宅した。
気付くと、雨は弱くなり、雨雲の切れ目から鈍色の空を覗くことができた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます