第2話 7月14日から7月17日

 六時間目の終わりを教えるチャイムが鳴った。これから二十分ほど掃除をしてホームルームを終えると、ようやく帰宅。そして明日は土曜日だ。学校から解放される。


「最近、重ちゃんとはどうなの?進展あんの?」と聞いて来たのは桑原だ。


 机に腰掛けて、右の手のひらで箒をくるくると回している様子を見ると掃除をする気が全くないようだ。桑原とは高校に入ってから友達になったが、この男が掃除をまともにしている姿を一年間見たことがない。


「いや何もないよ」と言って、その話題から逃げるようにひたすら床の埃を掃く。


「重ちゃんはそういう真面目なところが好きになったのか?ねー聞いてますかー?」


「いや、すこし仲良くなっただけだから、好きとかまだそういうのじゃないって」


「菅原っていつも、そうやってごまかすよな?」


 桑原が回す箒のせいで埃が舞う。これでは掃除の意味がない。 

こいつは他人の色恋沙汰が三度の飯より大好物だ。俺が何か話すまでこのまま同じことを聞き続けるだろう


――重 桃(かさね もも)と喋るようになったのはだいたい一か月ぐらい前だ。


同じクラスの彼女は、明朗快活で誰とでも分け隔てなく接するし、同学年で上位10名に入る成績優秀者で容姿端麗、さらには特待生に選ばれているとなれば、男子で意識しない者はいないだろう。


 なぜ、そんな彼女が俺と話すようになったのか。


 きっかけは生物の課題だった。その内容とはDNAの二重らせんについて考察しろというもので、期限はたった三日。そのため難儀した人が多かったみたいだが、俺は父が遺伝子工学の教授をしており、そういった話題には幼いころから触れていたため苦労することなく課題を解くことができた。


 すると珍しく、いや初めてかもしれないが重が話しかけてきて、課題を教えて欲しい、ときた。

どうやらどこからか父のことを噂に聞いてきたらしい。


 俺はもちろん快諾した。俺のを丸写ししてもいいし、なんなら俺のノートをそのまま重にあげて、俺はもう一度課題をやり直してもいい、ぐらいの気持ちで快諾した。

 実際は少し教えたぐらいでほとんど彼女自身の力で解いたのだが。

あたりまえかもしれないが、重はずるしないようなちゃんとした人間だと知った。


 何はともあれ、これがきっかけで課題のことや、日々の出来事など、なにかと話すようになったのだった。


 さっき、桑原にはすこし仲良くなったぐらいと言ったが、もしかしたら付き合えるんじゃないかと思っている。

近頃は毎日と言っていいほど会話を交わすし、最近は一緒に帰っているし。



――イッショニカエッテイル?


そのことを桑原に伝えたところ、素っ頓狂にそう言った。


しばらくの沈黙の後、興奮してまくし立てる。


「そんなもん完全に気があるやつでしょ!完全ウェルカムじゃん!いつの間にそんなんになっていたんだよー。お前もやるなー」


「このことはあんま広めないでよ?恥ずかしいから」


 桑原は軽いやつだが約束は守る奴で、そこは信頼できる。


「ああ、任せておけって。あ、もしかして、今から一緒に帰るの?」


「まあ、うん」


「だから、最近、あんたテンション高かったのかー」


「え、高かった?」


 いつもと変わらない、くだらないことを喋っていたらチャイムが鳴った。掃除の時間は終わりだ。

これから十分くらいホームルームをして、やっと帰れる。


 俺は箒と、一切使わなかったチリトリをロッカーに片付けて、自分の席に戻った。


 俺の席は前から一列目のど真ん中。授業中、一番気の抜けない外れ席だ。

そしてなによりもつらいのが、重の席は後ろから二番目の窓際ということだ。

俺が重のことをなんとなく気になってチラ見しようもんなら、クラスの目ざとい人種があっという間に目線の先を解析してしまうだろう。

授業中も好きな子が気になって集中できないなんて思われるのは、恥ずかしすぎるので避けたい。ウブな乙女じゃあるまいし。


 先生が教室に入ってきた。教室内を軽く見まわして全員いることを確認して言った。


「え~、本日、穀京市の東地区内のコンビニで強盗があったようです。この地区が通学路に入っている生徒は絶対に一人で帰らないように。また、関係のない皆さんもなるべくスクールバスや公共交通機関に乗って下校するようにしてください。止むを得ない事情がある生徒はあとで申し出るように。あ~、強盗が発生した地域をまとめたプリントを配りますので必ず確認しておいてください」


 最近よくある連絡事項だった。


 ここ穀京市は500㎢程度の面積を持つ、県の中心市街地で、東西南北で4つに区を分けている。

強盗があったという東地区は治安が悪く、強盗の注意喚起をよく聞く地域だ。


 前の席からプリントが流れてきて、それを後ろの席に渡す。

ここでふと魔が差した。これはチャンスだ。

机の横の通学鞄からクリアファイルを取り出して、その中にプリントを収納する、という動作の中で、自然にかつ大胆に後ろを振り返ってみた。


 そして重を見た。

くっきりとした両目の間にすっと通る鼻筋はどこか異国風で、まごうことなく美人だ。

明るい色のミディアムショートの髪型は、快活な彼女の性格をそのまま表している。

重は先生が説明する、絶対に行ってはいけない地域の話をしっかりと聞いていた。

それもそうだろう、彼女の家は東地区内あるらしいというのを風の噂で聞いたことがある。


「――え~、連絡事項は以上です。皆さんくれぐれも気を付けてお帰りください」


 ホームルームが終わり、今日の学校は終わりだ。そして一日の楽しみはここから始まるようなものだ。

通学鞄に教科書と体操服を押し込んで、一直線に玄関に向かった。


 スクールバスは玄関を出てすぐのバス停に停まっている。

乗車口に一歩踏み入れ車内を確認するが、まだ重は来ていないようだ。

しかたなく適当な席の窓際に座り、思考の世界に入る。


「さっきはかっこつけちゃったな」と思わず呟いた。


一緒に帰っているというは言い過ぎで、実際はスクールバスでたまに一緒の席に座るぐらいの関係だ。

50パーセントくらいはあっているから嘘はついてない、はず。

それに、口に出すことで、50パーセントが100パーセント近づくような気もした。

それが虚勢だとバレることは、桑原は徒歩で通えるくらい家が近くてスクールバスに乗る機会なんてないだろうから、無いだろう。


 ここ穀京私立高校は穀京市北地区にあり、彼の家も北区内だ。

俺の家は南地区の中心にある。南地区は県内のベッドタウンでここから片道で一時間ほどかかる


 そう考えると、俺が一時間かけて通っているのがあほらしくなってくる。

俺がバスに揺られているときに、あいつは家に帰り自分の時間を満喫しているわけだ。

これを三年間で通算すると、どれくらいの時間を無駄にすることになるのだろうか?

人によってはバスの中で勉強したりしている人もいるが、俺にはどうしてもできない。 

俺に集中力が無いのか、バスの中で開く教科書は全く頭に入って来ない。

まず揺れるのが気になるし、話声で集中できなくなるし、他人に勉強してる姿を見られるのは、何故か少し気恥ずかしい。

だから時間をつぶす為に、音楽を聴いたり、昨日見た映画の良かったシーンとかを思い出すことになるのだった。


 昨日見たのは、一匹狼の荒っぽい刑事が無差別殺人犯を追い詰める、かなり昔の映画。

法を無視してまでも悪を追い詰める姿がかっこよかった。それに昔っぽい音楽も渋くて良かった。


 ふと、そのサントラが聞きたくなって、鞄からスマートフォンとイヤフォンを取り出して、サブスクリプションアプリに映画のタイトルを入力した。


しかし通信が悪いようで、なかなか検索結果が出ない。


膠着した画面を眺めていると、どこからか声が聞こえる。


「おーい……璇臣(せんしん)くん……璇臣くーん?」


透き通った声が俺の名前を呼んでいるようだった。


肩を優しく叩かれて、現実に意識を戻すと隣に重桃が座っていた。


いつの間にか美少女がパーソナルスペースに座り込んでいたことに少しばかり動揺するが、なんとか平静を装う。


「ぁあ!重、いたんだ」


「ここ空いてるみたいだから座っていい?」


「どうぞ」


 スクールバスはすぐ満員になるため、席は空けないように推奨されている。

そのおかげか、重は隣に座ってくれる機会が多い。多分、他のクラスの知らない人よりは知っている人のほうが気が楽なのだろう。


 毎回、重から話題を振られる。


「あ、そうだ、きいた?桑原くんが彼女できたらしいよ?」


「ええ?ぜんっぜん知らなかった……誰と?」


 あいつ、人の恋愛話はしつこく聞いてくるのに自分の話は秘密にするのかよ、と軽い不信感を持った。


「一年下の神宮寺さんだって。あれ、璇臣くんって桑原くんと仲良くなかった?」


「うん、よくつるんでるけど……あいつ結構変なとこあるから、いまでも新発見がある」


「ふふ、そんなことってあるよね。私もこの前さ、親友とご飯食べに行こうってなったから、私の好きなインドカレー屋に連れて行ったの。そしたら、カレー嫌いだからほかのところにしようって言われちゃって、びっくりしちゃった。そんなこと知らなかったし、カレー嫌いな人いるんだ!って思ったよ。私カレー嫌いな未成年初めて見たもん!」


「カレー嫌いだなんて、人生の半分損してるね」


「璇臣くんはカレー好きなの?」


と、重は目を合わせてそういったので、首を大きく縦に振って肯定の意志を伝える。

いきなり目が合うと緊張して上手く声が出なかった。そんな自分が恥ずかしい。


 視線を窓に逸らすと、いつの間にかバスが出発していたことに気付いた。

そんなことも気付かないくらいだから、自覚はなかったが相当緊張していたようだ。


そのせいかイヤフォンを無意識に手のひらでいじっていたようで重の視線がそこに行った。


「音楽聞いてたんだ。どんなの聞くの?」


「いや、映画のサントラ聞こうかなって」


「サントラ?渋いんだね。映画好きなの?」


「うん、少しね」


「音楽とかはどんなの聞くの?」


「うーん、流行りのバンドとかは聞くかなー?でもあんまり知らないよ」


「じゃあ、ラップとかは?」


「うーん、桑原が好きだから、少しだけ聞くけど、ほんとに少しだけかな」


「じゃあ、韻暴論とか知ってる?」


「ああ、桑原に教えてもらったことあったと思う。穀京市出身なんだっけ?」


「そうそう……これ内緒にして欲しいんだけど璇臣くんだから言うね、そのメンバーの人たちと関係あったんだよね」


「ど、どういうこと……も、もしかして、彼女だったの?」


「あ、変な言い方になっちゃった。そういうことじゃなくて、一緒なアパートだったの。そもそも、私、付き合ったことないし」


 韻暴論とは東地区で活動してる4人組のグループで、歌詞がかなり荒々しく、ストリートファイトで生計を立てていたとか、少年院での話だとか、地元で起こった事件とか、悪っぽい感じの曲を歌う。

まだメンバーが20代前半ということと、流行りのサウンドということもありSNSで流行り始めているらしい。


 俺は純粋な好奇心で聞いた。


「東地区って本当に、曲であるみたいに路上でひったくりとか喧嘩とかあるの?」


「うん、あるよ。最近も家の近くで強盗があったからちょっと怖くてね」


 東地区には大きな繁華街がある。昔はもっと店が建ち並び、賑やかだったようだが、景気の悪化によって失業者が増えて、治安がかなり悪化したそうだ。絶対に一人で歩かないように、とよく親に言われている。

そんなところを一人で帰るのは気が気じゃないだろう。

そして、会話の中で彼女は付き合ったことがないと言っていた、それは今付き合っている人がいない、ということだ。


 つまり付き合えるチャンスがある。

彼女を心配する気持ちと、ほんの少しの下心である提案をすることにした。


「よかったらさ、家まで一緒に行こうか?」


「え、ほんと、ありがとうっ。私ほんとに不安だったから、ありがたい!」と重は俺の手を握り、笑顔で頷いてくれた。


 よかった。断られたらどうしようと思った。

胸の真ん中から多幸感が湧き出てきて、体の隅々まで幸せで潤したような気分になった。


「しかも璇臣くんってボクシングやってたんでしょ?一緒にいてくれたら安心だし」


「え!?知ってたの?」


 彼女が言う通り、俺は中学生の時、部活でボクシングをやっていた。ライト級でとくに成績は良くなかったが普通の人よりは腕っぷしに自信がある。

なにより、俺のパーソナルな部分を知ってくれていたことが嬉しい。そんなことクラスで言いふらしてもいないので、知っているとは驚きだ。


「ふふ、私の情報網はすごいんだから。なんせ私のお父さんは記者だからね、同じ血が流れてるの。


あ、あれも知ってるよ。璇臣くんの中学のときのあだ名、タマキングでしょ?」


「たまきんぐ!!」


 このあだ名は中学生のときのボクシング部でしか呼ばれていないあだ名だ。

なぜそれを知っているのか?という驚きと、好きな女子からいきなり下ネタが飛んできたという二重の驚きで頭がパンクしそうだった。


 由来は部員からいじめられていた、というわけでは無い。

当時、ボクシングのおかげで痛みに強くなったと思い込んでいた部員達は、体のいろいろな部位を殴りあい声を出さないほうが勝ち、という実に馬鹿らしい遊びをしていた。

大体は肩から始めて、勝負がつかない場合、最終的に男の最大の急所を打ち合うことになるのだ。

生まれつき痛みに強い俺は、このゲームで負けなしの王者だった。

急所を打たれても微動だにしない姿に対して、賞賛と尊敬と畏怖(と、ほんの少しの軽蔑)を込めてタマキングと呼ばれるようになったのだった。

アドレナリンと幼さが生んだ恥ずかしきあだ名。それを知るボクシング部員は同じ高校にいないので、忘れられたはずだったのだが。


「そ、それ誰に聞いたの!」


「クラスに、そのボクシング部出身の人と付き合っている人がいるんだけど、その子から聞いたよ」


「え、誰?」


「それは私の信用問題にかかわる為、秘密でお願いします!」


 彼女は友達が多いのでいろんなところでいろんな話を聞いているのだろうか?

これはもはやクラスの情報屋だな。


「ていうか、なんで秘密にしてほしいことを俺に教えてくれたの?」


「友達には全員言ってるんだ。親愛の証みたいな感じかな。秘密は交換し合うものでしょう?だから璇臣くんもよろしくね?」


と悪戯っぽく笑った。


こんな笑顔を見たら、秘密をばらしてしまう気持ちもわかる。


 そして、晴れて重の友達になれたことが嬉しかった。


「じゃあ、璇臣くんの番ね?」


 重は俺にも秘密を要求する。ここで何か秘密を交換できないと、会話が盛り上がらないと思った。


だが何も思い浮かばない。


「俺……いや……ないよ。俺、普通の人だし」


「まあ、普通の人だよね」


不覚にも、その言葉に傷付いてしまった。


「普通かー」と俺が言った言葉には心の底からの悲しみの気持ちが籠っていたのだろう。


「そんなに、悲しそうにする?」


と言って大いに笑ってくれた。



 小一時間会話を楽しんだところで、バスは東地区に入った。

繁華街を避けるように住宅街に入っていく。コンクリート打ちっぱなしの集合住宅にはスプレーで書かれた落書きが目立つようになる

パトカーが良く走っていて、ときどき、どこからかサイレンの音が聞こえる。


 いつも思うが、この地区に入ると空気が変わる。


 スクールバスは片道二車線の交通量が少ないバス停に停車した。東地区に住む生徒たちは大体ここで降りる。

俺が降りる南地区はまだ先だが、今回は重と一緒に降りる。まさか、こんな日が来るなんて!

今は治安の恐怖より嬉しさが勝っていた。


「強盗あったのって、隣町のコンビニらしいよ。ここから500mぐらい先かな」


「すごい近いんだ……気を付けなきゃ。重はこんなところから通っていて通学、危険じゃないの?」


「うーん、お昼だったら人も良く通るし、一人でも大丈夫だけと、暗くなると絶対一人じゃ歩けないから、その時はお母さんとか近所の友達とかに送ってもらうかな。今のところは危険な目には合ってないよ」


と、重は笑顔で言う。


 彼女の顔からは不安な気持ちは読み取れない。空元気なのかもしれないが、そうだとしても彼女の芯の強さを感じる。


「そうだ、さっき言ってたカレー屋行かない?ちょっと小腹がすいちゃって」と重が少し照れ臭そうに言った。


「いいね!いこういこう!」


 時間はまだ3時半だが早すぎる夕飯を存分に楽しもうと思う。


 

 目的地のカレー屋は、バス停から、西に交差点を二つ渡った先の大通り沿いにあった。

両隣にある、ガラス張りの服屋と消費者金融に押詰められているみたいな、小さな店舗だ。

ところどころ骨組みが剥き出しになっている黄色の日よけのテントに、掠れた黒字で「ダーマカレー」と書かれている。

タイル張りの外壁に、木の扉のため、中の様子が全く見えない。正直、入るのは少し不安だ。

ドアノブにぶら下げられた小さな黒板には「営業中」と書かれている。


 正直、誰かに勧められなければ絶対に入らないであろう店だ。

俺は少し躊躇していたので、重が率先して扉を開いた。からんからんとドアベルが鳴って、いままで嗅いだことがない刺激的な香辛料の香りが漂ってくる。


「あ、モモちゃん、と知らないヒト、いらっしゃいませー」と出迎えた店員が、流暢だが少し違和感のある程度の片言で挨拶する。彼の南アジア系のくっきりした目鼻立ちの顔を見なければ、知らない県の訛りにぐらいにしか思わないだろう。


「ヴィシュワさんお久しぶり~」


「おひさしぶりです。となりにいる人はかれしですか?」と、ひょろっとした痩せ型長身の顔の濃い店員が嬉しいことを言ってくれる。


が、「違うよ。友達」とバッサリ言われた。


 そりゃ付き合っていないのは分かってる。

だが、こうきっぱり言われるとこんなに心に来るものなのか。


「最近、物騒だから家までついていくことにしたんです。ただのお友達ですよ」と自分で言って、悲しくなった。


「そういうことですか。気を付けてくださいね。ここのとなりに金貸し屋がありますから。お金があるところには悪い人もくる。あ、でもここは大丈夫、お金まったくないから」


 その冗談に重はころころと笑ったが、俺は笑っていいのか分からなくて、乾いた笑い声で誤魔化した。


 ヴィシュワさんはメニューを持ってきて俺に渡してくれた。


「モモさんはいつものでいいですか?」


「はい。お願いします」


 さっきからの会話を聞いている様子では、重はこの店の常連のようだ。

 

 メニューを確認する。

いろんな種類の中から好みのカレーを一つと、ご飯かナンのいずれか好きな方を選べるようだ。カレーの種類はなかなか豊富で、キーマ、チキン、マトン、マサラ、サグなど。種類が多いと選ぶのが大変で、なかなか決まらない。


 メニューを選ぶのに時間が掛かると優柔不断がにじみ出て印象が良くないような気がした。

だから、ちらっと重の様子を見てたが、にこにこと店員と話していた。待たせている様子はなかったが、さくっと決めよう。


 ここは無難なチキンカレーとナンに決めた。


「えーと、かれしじゃない男の人はどうしますか?」と、なんとも傷つく言い方で俺に注文を尋ねる。


この人はもしかして、俺が重のことを気になっていると気付いていて、わざと言っているのかと邪推してしまう。


 重が気を利かせて「この人は菅原 璇臣くん。同い年で学校のクラスメイトだよ」とヴィシュワさんに伝えてくれた。


ヴィシュワさんが「わかりました、わたしはヴィシュワ。ここのてんちょうです。よろしくお願いします。それでは、センシンさんはなににしますか?」と尋ね直したのでさっき考えていた組み合わせを伝えた。


彼は「わかりましたー」と明るく言い、店の奥に消えていった。


 重は社交性があり、誰にでもフランクに接していることは分かっているのだが、ヴィシュワさんと親しげに話す重に少し嫉妬してしまう自分がいることに驚く。

それに、彼は三十代くらいだ。ヴィシュワさんはたしかにカッコいい顔だが、女子高生が三十代を好きになることあるか?


いや、おおいにありえる。自分よりはるかに年上の俳優を好きな人もいる。


「結構ここのお店くるの?常連さん?」と嫉妬心と不安を消すために聞いてみた。


「うん。昔はお父さんとよく通ってたの。お父さんとヴィシュワさんは友達だったらしいよ。それで今でも学校で残ってて夜遅くなったときとかは、ヴィシュワさんに送ってもらったりするんだ」


”昔はよくお父さんとよく通ってた”と”お父さんと友達だった”という表現が引っかかって嫉妬心がどこかに消えてしまった。


過去形?今はどうなんだろう。喧嘩別れしたしたのか、もしくは……。


 詳しいことなんか聞けるわけなく、なんだかいけないことを聞いたような気がして少し後悔したのが顔に出たのだと思う。


「もしかして、お父さんのこと気にしてる?誰かから聞いたことあるかもしれないけど、お父さんは今いないんだ。死んだとかじゃなくて、蒸発ってやつ?他に女ができたのかな。気にしないで、大丈夫!」


 大丈夫、とは言うがそう簡単に「ならよかった!」とはならない。

 気まずくて言葉に詰まっていると、救世主ヴィシュワさんがカレーを持ってやってきた。


チキンカレー二つとナン二つね、と言い大きな銀色の皿を机に並べる。


 重といつものメニューが被った、ということで小さな喜びが起き、その後、別に被るのもあたりまえなオーソドックスな組み合わせだからか、と気付いた。

 

 俺の皿の上にはナンとチキンカレー。重の皿の上にはそれに加えてが大きめのコップに入ったラッシーが一つ。ラッシーはどちらも頼んでいなかった気がする。

重も同じことを思ったのだろう。

「あれラッシー頼んでないよ」と、彼に言うと「きょうはひさしぶりに来てくれたからサービスでつけちゃいました……あっ!」とすこしわざとらしく驚いたそぶりを見せ、ストロー二つをエプロンの中からだして一つのコップに挿した。


「センシンさんのことわすれてました。これでふたりでシェアしてのんでください」と言い、すたこらと厨房に戻っていった。


 その様子を見て重は「ヴィシュワさん、天然なとこあるからねー、どうしよー」と苦笑いをする。

彼女の角度から見えなかったかもしれないが、ヴィシュワさんはさっきのセリフをにやけて言っていた。天然ではなく絶対に確信犯だ。そして、めちゃくちゃ彼のことが好きになった。ありがとう!と心の中で感謝する。


「さて、ラッシーどうしよう」と重。


 制服が汚れないように紙のエプロンを付けながら考える。

さすがにいっしょに飲もう!とは言えない。いきなりアプローチが積極的過ぎて引かれそうだ。ただ、ラッシーは一人で飲み切れる量ではない


「さすがに、残すのはもったいないよね」


同意だ。ただ特別の関係ではない異性との回し飲みはハードルが高すぎる。


「私は気にしないから、璇臣くんが半分飲んだあと私が飲む?」


「いやいや、俺も気にしないから、重が先に飲みなよ」


 いやいや、どうぞ、いやいや、と繰り返してこれでは埒が明かない。

どうしようかと話し合った結果、じゃんけんで決めることになった。買ったほうが先に飲むことになる。


「さいしょは、ぐー!じゃんけん!ぽん!」と二人で声を合わせる。

結果、重はパーで俺はグー。勝った彼女が先にストローに口を付ける。


「じゃあ私が先に飲むねー、いただきます」


 ストローが分からなくならないように、あらかじめ自分のストローを取り出しておいたので間接キスみたいなことは無かったけど、少しドキドキした。


このさわやかな味は二度と忘れないだろう。もちろんカレーもおいしかった。



 お会計は二人で1000円ぴったり。一人で500円なんて学生にはうれしい値段だ。

「ごちそうさまです」と軽く挨拶してダーマカレーを後にした。


 大通り沿いから裏路地に入ると一気に人気が少なくなり、空気が淀む。まだ夕方のはずなのに、やけに暗く感じた。


「ここは確かに一人で歩くのは、怖いね」


「うん、めちゃくちゃ怖い。夜なんか絶対ダメだよ」


 散らかってる生活ゴミをよけながら歩く。たまに車が通るが、避ける気が無いようなスピードで突っ込んでくるのでこちらが避けなくてはいけない。


「璇臣くんはこのあと一人で大丈夫?」


「うん。大丈夫。ボクシングのおかげで腕には自信あるからね」――心のなかで”たぶん”と付け足す。実は喧嘩なんかしたことない。


「制服着てると変なのに絡まれるから注意してね」


「気を付けるよ」


「……ほんとに大丈夫?」


「大丈夫だよ、俺はタマキングなんだから」


「だったら、違う意味で心配だよ」


 冗談を言って二人で笑い合っていると心配はどこかに消える気がした。



 三階建ての、かなり老朽化が進んでいるアパートに着いた。もともと白かったであろう壁はかなり黄ばんでいて、ところどころつららのように黒い線が走っている。


ここが重が住んでいるアパートだそうだ。重は通学鞄の中から鍵を取り出し、「じゃあね」と手を振ってアパートの方を向いた。


アパートの中に入る途中で一度、振り返って、心配そうな声で言った。


「ほんとにほんとに一人で大丈夫?ヴィシュワさんに頼んで送ってもらう?」


「マジで絶対にホントに大丈夫!」


「そんだけ言うなら信じるよ。ほんとに今日はありがとう、今度は家に遊びに来てよ!気を付けてねー」と言い、建物の中に消えた。


「うん、楽しみにしてるよ」と言ってみたが、重の家に行くという楽しみと、理想が壊れてしまうような、そんな懸念がせめぎ合っている。


 妙な気分になりながら表通りのバス停まで足を動かす。


 重の住む隣のアパートからは、女性の怒鳴り声が聞こえてくる。向こうからやってくる、ふらふらと歩く人に目を合わせないようにすれ違う。男子学生がここを通るのが珍しいのか、じろじろと見られることもある。


 自分が異物であることに耐えられなくなって、走ってバス停まで向かうことにした。

何分か走って、あと一歩で戻れそう、というときに怒声が飛んだ。


「おい!お前、なにをしてる!」


 明らかに自分に向けられた敵意だ。

一気に神経が高ぶり、拳に力がこもる。いざというときは容赦なくキドニブローをお見舞いしてやろうと身構える。


 声の方に体を向けると、そこにいたのは警察だった。紺色の制服を見て、胸を撫でおろす。


「いえ、バス停まで走ろうかと思って」


「あら、学生さんか。ごめんごめん。ここら辺は変な人が多いから。気を付けてね」


 さっきはあんなにおっかない大きな声を出していたのに、コロッと人懐っこい喋りになった。何か特別な訓練を受けているのではないかと思うくらいの変わりようだ。


「危ないからバス停まで一緒に行こうか?さっきもここらへんで事件があったんだよ。詳しいことは言えないけどね」


 ここはご厚意に甘えることにしよう。正直、もう肝が冷え切っている。


 警察は親戚のオヤジかと思うぐらいフランクに、悪く言えば馴れ馴れしく話してくる。ただ、それが心地よくて、ここまで来た経緯などをぺらぺらと話した。


 あちらも口が軽いらしく、詳しいことは言えないはずの事件のことを少し教えてくれた。



――この近くの住人が殺されたらしい。


ただ、こういうことは何年かに一度あるらしく、こうして見回りを強化しているとのこと。


 俺の住む南地区ではこういうことがないので驚いた。今まで重を自分と同じ生い立ちの人間だと思っていた。だが、ぜんぜん違う人生を歩んでいることを知った。


 警察の付き添いのおかげで何事もなくバス停に着き、そのまま帰宅した。



「あら、今日は遅かったわね。調べ物でもしていたの?」


 玄関の扉を開けて、俺を出迎えた母親が言う。


「うん、そんなところ」


 実は東地区に行っていた、なんて口が裂けても言えない。特に父親には何があっても行くなと口酸っぱく言われてる。


治安が悪くてどんな事件に巻き込まれるか分からないと。


 リビングのテーブルには三人分のトマトサラダ、生姜焼き、白米、味噌汁が並んでいた。


ということは、めったに帰ってこない父親が帰っているようだ。


 大学教授の父は、学会やらなんやらでめったに帰ってくることがない。


「お父さんがお風呂から上がってきたら、ご飯を食べるわよ」と母親の声。


家に三人いるときは一緒にご飯を食べることが我が家の習慣になっている。父は長風呂なので三十分は待つことになるだろう。カレーがまだ腹に残っていて、まだ食欲が無いので丁度いいかもしれない。


 しばらくスマートフォンを触って待っていると、寝間着に着替えた父が現れた。


「おお、璇臣帰って来てたのか」


 声の調子がいつもよりいい。今日は機嫌がいいようだ。彼は一番ご飯が多く盛られている席に座った。


「いやー、五年間取り組んでいた研究にようやくめどがついてな。今年は休みをとって家族旅行に行けそうだぞ。思い切って海外にでも行くか?」


「いやー国内でいいよ。怖いし」


「まあ、家族で出かけられるならどこでもいいだろう、一週間ほど休みを取ってな」


「いいね、絶対忘れないでよ」


「最近は家族旅行に行けてなかったからな。約束するよ」


 最後に家族で旅行に行ったのは、小学生の時だったと思う。その時には亡くなった祖母も一緒にいた記憶がある。


――祖父を病気で無くし、東地区の一戸建ての家で一人暮らしをしていた祖母は、カルチャーセンタ―の帰りに、居直り強盗に殺された。


 当時、治安の悪化と共に、東地区の犯罪が頻繁に取りざたされるようになり、父は祖母に早く引っ越すように強く促していた。しかし祖母は「長年、住んでいた場所だから」と毎回断っていたのを幼いながらに覚えている。父も、祖父との思い出もあるだろうから仕方ないと若干諦めていたが、事件の後、自分がもっと強く言っていたらと慟哭し、そこから仕事にのめり込むようになり、全く家に帰ってこなくなった。


 犯人はいまだに捕まっていない。


 その事件から五年が経ち、時と共に悲しみを乗り越えられたのだろう。



 行けるとしたら夏休みだろうか。

沖縄とか東京とかに行って、買い物したり、ご飯食べたり、お土産を買ったり。

そういった旅行の空想を膨らませていると、スマートフォンの通知音が鳴った。


 見ると重からのメッセージのようだ。


――今日はありがとう。今度はセンシンくんの家に招待してね。



翌日


 今日は土曜で学校が休みだ。今、桑原を誘って共にファミリーレストランにいる。


「――ていうメッセージが重から来たんだけどどう返せばいいんだ。お前彼女できたんだろ?教えろよ」


「そうだけど、俺に重への返信を考えさせるため、ここに呼んだのか?」と桑原が尋ねる。


 俺は頷いた。


 桑原に、重とのスクールバスで会話したことや、一緒にカレー屋に行ったことを話すと、非常に満足した顔をした。


「桑原こういう話、大好物だろ?」


「うん、ごちそうありがとうな。でも、うーん、どうだろうー。とにかく早く返せよ、適当にスタンプでも送っておけばいいんだよ」


「適当っていうのが一番難しいんだよー。ここで返信間違えたら、二度と話してくれなくなったりしない?」


「なるかい。いいか、俺に言わせれば恋愛っていうのは綱引きなんだよ。押したり引いたりしてちょっとずつ近づいていくんだよ。だから綱を絶対、手放しちゃだめなんだよ。だから何でもいいから返せ」


「それ、なんかの雑誌の受け売りだろ?すげえださい」


「うるさいっ、俺の方が早く彼女出来たんだから、俺のほうが正しいんだよ」


 初彼女で浮かれている桑原からのアドバイスは少しむかついたが、他に方法を知らない。


 重には、とりあえず無難と思われる、キャラクターが手を挙げて、OK!と吹き出しの付いているスタンプを返した。



月曜日。学校にて。


 俺の送ったスタンプ以降、返事がなかったので少し凹んだけど、そういうもんだと自分に言い聞かせた。


 それを桑原に言ったら、「返信は気にするな、俺の見たところ重は綱を引きまくっている状態だから、お前ももっと引け引けっ」と綱引き理論を引用して応援してくれる。


相当、この表現が気に入っているようだ。


でもおかげで勇気が出た。もう一度、帰り誘ってみよう。


 放課後、バスに向かおうと廊下を歩いていると「やっほー」と重が声をかけてきた。


「金曜はありがとね、今から帰るの?」


「うん、重も?」


「今日もいっしょに帰る?」


 どうやら勇気を出す必要はなかったみたいだった。俺は高揚を悟られないように、いつも通りの声で「いいよ」返事した。


 すると、あまりにすんなり事が進んだので、行き場を失った俺の勇気が暴走して変なことを言い出した。


「あ、また、カレー屋行きたい。帰りまた送るから、もう一回行かない?」


「へ?そんなに気に入ったの?ふふ、じゃあもう一回だね、あ、よかったら家に来る?」


「迷惑じゃなかったら、ぜひ」


綱を引いてみて正解だった。重の家に行けることになった。



 ダーマカレーに着いた。


「あ、またおふたりですか?」ヴィシュワさんがにこやかに挨拶をくれた。


 ヴィシュワさんにメニューを聞かれて、重は前回と同じように”いつもの”を頼んだ。

俺は、この前チキンカレーとナンを食べたので、今回はマサラカレーとライスにタンドリーチキンを付けてみた。あと、あの思い出のラッシーも頼んだ。

それらをメモに書き取り、ヴィシュワさんが厨房に向かっていった。


 重が言う。


「璇臣くんって映画好きだよね?」


「うん」


「じゃあ、あれ見た?劇場版スーパーライダー」


「あー、見てない……小学生で卒業しちゃったな、面白かった?」


 スーパーライダーは子供から大人まで人気のヒーローシリーズだ。


小学生までは見ていたのだが、自然と卒業してしまっていた。そんな自分を呪いたい。


「面白かったよ!主人公の男の子がめちゃくちゃカッコいいんだよねー、性格も、もちろん顔も!最近、南地区のダーナにできた映画館でみたんだけど、あそこすごくスクリーンおおきくておすすめだよ」


 俺が住む南地区には、今年の初めに「ダーナ」と名付けられた複合商業ビルができた。

洒落た飲食店や映画館、クラブ、ゲームセンターなどが併設されており、市内の学生はだいたいここで遊ぶ。


いつか重を誘えたらいいな、と思った。


 料理が来るのまでの間、会話を楽しんでいると「あ、ちょっと席外すね」と重が(おそらく)トイレに行き、すれ違うようにヴィシュワさんがお冷を持ってきた。

テーブルに二つコップを置き、重がいないことに気づくと、俺に小声で聞いて来た。


「センシンさんはモモさんのともだちですよね?」


「あ、はい」


「そうですか、こんなに明るいモモさんはひさしぶりです。きっとあなたのおかげだと思います。どうかモモさんを悲しませないでください」


 そう言い、ぺこりとお辞儀をして厨房に戻っていった。


やけに真剣な顔をして言っていたので、その言葉の真意を考えていると、彼女が戻ってきて「料理来たー?」と言った。


「まだだよ」と返すと「ヴィシュワさん今日はちょっとさぼってるなー」と悪戯っぽく笑った。


 俺は何故か、その笑顔を忘れないようにしようと思った。

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