第5話


苦々しい顔でモニターを見ていたB35番エンマの顔色が、斜め後ろからでも分かるほど、明らかに青ざめた。

「喋らすな!」

駆け寄り、モニターを掴み、怒鳴る。

「誰か、そいつの口を押さえろ!」

こちらの怒鳴り声が伝わっているのだろう。群衆が、雪崩れるように、祖母に手を伸ばす。

しかし、祖母が言葉を紡ぎ終える方が、僅かに早かった。

「私の人生の総計、その全てを、孫である斉藤裕一に譲渡する権利、これを要求する」

B35番が、右手で黒髪を掻き毟る。整った顔は醜く歪み、膝から崩れ落ちないのが不思議なほど、狼狽している。

正直、俺は何が起こっているのか、ほとんど理解出来ていなかった。


閻魔大王様に掴み掛かる老婆。

私は、こんな人間を見たことがない。

閻魔大王様に暴言を吐く老婆。

少なくとも、私がB35番エンマの名を授かり、査定を行う立場になってから、およそ二千年の間は一度も。

馬鹿な人間が遠慮がちに意見する様子であれば、腐るほど見てきた。

しかし、それは地獄行きが決まった者が、自分を勝手な理屈で正当化し、少しでも罰を軽くしたいが為の行動だった。

人間は、なんて愚かなのであろう。と笑ったものだ。愉快で仕方がなかった。

それが、この老婆はどうだ。

自分は天国に行ける事が決まっているのに、自分以外の人間の為に、何の得にもならない癇癪を起こしている。

こいつも馬鹿だが、笑えない、不愉快な方の馬鹿だ。

モニターを義務的に眺めていると、老婆はとんでもない事を言い出した。

「私はこれから一つ、要求するよ」

なんだと。

思わず、モニターに駆け寄り、掴む。

「喋らすな!」

こいつ、まさか、知っているのか。神々の掟を。

「誰か、そいつの口を押さえろ!」

しかし、私の必死の抵抗は結果を産まず、老婆は要求を述べてしまった。

よりにもよって、この査定の歴史を根本からひっくり返すような要求を。


何故、知っているのか、分からない。

そもそも、知っていたのかすら、分からない。

それは、単なる勘か、珍妙な思いつきだったのかも知れない。

しかし、老婆は確かになぞったのだ。

この査定を行うに置いての、絶対的なマニュアルのような物、神々の掟を。

その掟はいくつかあるが、老婆がなぞったのは、以下の文句だ。


『最終査定で、特筆すべき要求が有った場合、その要求の認否に限らず、要求の内容及び、その認否の明確な理由を、以降の査定、その質の向上を目的とし、判例として永久的に記録しなければならない』


この老婆は、人生の総計を孫に譲る権利を要求した。

彼女の人生の総計は明らかに、最善である。

最終査定で天国行きが決まった際は、留意しなければならない点がある。

人間が天国に行くには、人生の行いを「善行」と「悪行」に分けて、その質量を比べ、善行が優らなくてはならない。

裏を返せば、僅かでも善が多ければ天国に行けるということである。

では、悪行と比べた際の、善行の優り具合には全く意味はないのか。

僅かに優っている者と、大幅に優っている者は、平等なのか。

確かに、どちらも「天国行き」になる点は平等である。しかし、その後が違う。

身も蓋もない例え方をすれば、善の優り具合は、その者が天国に行った後の、通貨のような役割を果たす事になる。

あまり働かなかった者と、真面目に働いた者の、賃金が違うような話である。


この老婆は、自分の人生の総計、つまり、彼女の、長い長い労働における賃金に当たる善を、自分の生きた結晶のような物を、孫に譲り渡したい。そう宣った。

貴方は、今から全く事前知識のない、とてつもなく遠い外国に、たった一人で旅立たないといけない。

そんな時に、ポケットに入っている、いわゆる、頼みの綱のような、唯一のお守りのような、そんな現金。

それを、まだこれからも母国に住み続ける予定の、自分以外の人間に、渡せるものだろうか。

この老婆はそれをした。

いや、しようとしている。

人間は、生まれてから死ぬまで、否、死んでからも、己のことを第一に考えている。少なくとも、我らエンマ勢にとっては、この査定においては、それは大前提であったのに。

ひっくり返った。音を立てて、崩れ落ちたのだ。

我らが積み上げてきた、人間という概念が。



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