第3話


B35番エンマは、先程、書籍を取り出した時と同様に、虚空から金色の天秤を取り出した。

片方の皿が白く、もう片方が黒い。

白い皿が善行を、黒い皿が悪行を、それぞれ乗せて傾くことは、容易に想像出来た。

エンマは「斉藤裕一」と記された書籍を天秤に掲げる。

勢いをつけて、深く、白い皿が沈む。

「まさか、これほど」

感心を含んだ声。エンマは物珍しげに俺の方を見やる。

「バカがつくほど正直なのですね」

壊滅的に褒めるのが下手だ。

「どうします?」

換金か。持ち越しか。という話らしい。

「一つ、聞きたい」

エンマは、静かに俺の質問を目で促す。

「換金するに当たって、起こる、「喜ばしい事」その内容を、指定できるか」

深く、頷くエンマ。

「度合いによります。天秤の傾きが僅かであれば、指定するまでもなく、まぁ、道端で小銭を拾うくらいの事が起きるだけ。傾きが大きければ大きいほど、様々な事を指定し易い。貴方ほどになれば、中程度の奇跡を起こす事も」

なら決まってる。このシステムの話をされてから、ずっと考えていた。

「さっき俺が跳ねた女性を助けてくれ」


エンマは訝しげに俺を見てから、忙しく、虚空に指で軌道を描いた。難しい計算をしてるらしい。

指揮者のような動きで、ひとしきり指を走らすと。

「足りません」

ポツリと。残念ですが、と続けた。

斉藤裕一の、この十年間の正しさは素晴らしく評価された。それこそ、他に類を見ないほどに。

それでも、瀕死の女性を助けるには、僅かに足りないと言う。

言い換えれば、俺が跳ねた女性は、他に類を見ないほどの正しさを持ってしても、救えない。極めて危機的な状況にあるらしい。

頭を抱えた。ふと、疑念が湧く。

「俺は、それほどまでの危害を、人に与えたのに」

何故、天秤は白い皿を沈めたのだろうか。

「人間の社会的ルールは適応されません」

エンマは俺の疑念を見透かしてるかのようだ。

「貴方は確かに、女性を跳ねました。しかし、それは、彼女が酒に酔い、物陰から飛び出してきたから。貴方は自分が大怪我を負う覚悟で避けようとした。それでも避けられなかった。ただの事故です」

ただの、事故、だと。人が死ぬんだぞ。

俺のせいで。

「こんなのはどうでしょう」

エンマはお喋りを止めようとしない。

「貴方は、正しさを換金して」

とんでもない事を言い放った。

「事故を正当化するのです」


俺が憤慨して、言葉が出ないのを良い事に、エンマはベラベラとまくし立てる。

「都合の良い証言をしてくれる、都合の良い証人を用意して」

ベラベラと、ベラベラと。

「遺族からは、逆に謝罪してもらいましょう。示談金もなし。法的なお咎めもなし」

虚空に指揮を描く。

「うん。良い!これなら充分です!元々、貴方に非などないのですから、こんな事は容易い!酔っ払いを跳ねてしまった事など、大した問題では」

ありません。と言いかけたエンマに、気づけば掴み掛かっていた。

「いいかげんにしろ!」

出来るか。そんな事。

罪もない、一人の人間が、俺のせいで、もうすぐ死んでしまうというのに。

「ふざけんなよ!」

きっと良い事が起こるんだろ。

嘘だったのかよ。助けてくれよ。

おばあちゃん。


その時、今まで、俺たちの話し声以外に音という概念が存在しなかった天界の端に、小鳥のさえずりのような、極めて間抜けな高音が響いた。

エンマは不機嫌を隠そうともせずに指を鳴らすと

「なんですG6番!査定の途中に通信など!貴方はいつまで経ってもそうやって新人気分で!」

叫ぶように言い、もっと叫んでやろうと大きく息を吸うが、どこからか響く、向こうの混乱した声に遮られる。

『先程、最終査定が始まった、斉藤かなえが暴れてるんです!手に負えません!指示を下さい!』

今にも泣きそうな声だ。見知らぬG6番とやらの悲痛な叫び。それよりも

「斉藤かなえ」祖母の名だ。

やはり、本当に危篤だったのだ。ついさっき、死んだんだ。

死に目に会えなかった事を、嘆く暇などなかった。

何故なら、目の前のB35番エンマが指で虚空に素早く、大きな四角を描き、モニターを出現させると、そこに祖母が映し出されたからだ。

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