えんむすびのかみ 〜縁切りの刃と神使の使い走り〜

よしじまさほ

第1話 神の使いと不幸な男(1)

 今日は運が悪かったなと思う日は誰にでも結構あるものだ。

 なんだか最近ついてないなーと思う時もよくあるだろう。


 多少ついてないことがあったってそれはずっとじゃない。そのうちいいこともあると思えばまた明日頑張ろうと思えるもんだろう。


 でもさあ……俺、そういうのもう思えないんだよな。


 疲れたよ。

 あんな会社もう行きたくねえ。

 もうどうでもいいよ。いっそ死にたい。


 クビ?

 上等だ。どうにでもしてくれ!


 これでも俺はかなり我慢強い方だが、さすがにもう限界だ。

 長年安い賃金でこき使われて、体も心もすでに限界突破してる。満身創痍でボロボロだ。


 あのクソ会社とクソ上司。俺を奴隷か何かだと思ってるだろ?


 コンプライアンスなんか全く守らない最底辺のブラック企業。新入社員が半年も経たずにバンバン辞めていく中、俺はこの会社で五年もの間、今まで文句一つ言わずに真面目に仕事をしてきたんだ。


 不景気な世の中、Fランの大学出で大したスキルもない俺を正社員で雇ってくれるのはあからさまなブラック企業ぐらいだ。それが嫌なら常に雇い止めの恐怖に怯える先行き不安定な派遣の仕事しかない。だから嫌でもしがみついてきた。


 直属の上司は体育会系のパワハラ野郎で、俺が一番苦手なタイプ。

 毎日意味もなく不機嫌で、理不尽な文句をつけてくる。

 俺の何が気に入らないのか、いつも細かいところをネチネチと重箱の隅をつつくように指摘してくる。


「申し訳ありません。今後は気をつけます」とヘコヘコ頭を下げつつ、心の中では「うるせえ。死ね。クソが」と毒づく毎日。


 昨日も「お前の机の横のゴミ箱の中にゴミが溜まっている。みっともないからさっさと捨てろ」とよく分からない理由で怒鳴られた。

 俺がおとなしくいうことを聞いているせいか、奴のパワハラは年々ひどくなっている気がする。


 なーにが「机周りの汚れは心の乱れ」だ。お前の机の横のゴミ箱の中も汚ねえじゃねーか。人の事言えんのか?


 部下につまらない小言を言って憂さ晴らししてる暇があるならお前も仕事しろ。


 いつも心の中で上司に「うるせえ、ハゲ」と悪態をついて溜飲を下げる。


 もちろん、実際にはとてもそんなことは言えない。

 言えたらきっと気持ちいいだろうなー。

 でも言えないから心の中だけでこそこそしてる。

 そんな自分は小心者で卑怯だなとたまには情けなくなったりもするけど、日々の生活に追われてそんな事で落ち込んでいる余裕はない。


 今、職を失ったらこんな世の中じゃ、生きていけない。

 少なくとも我慢してれば毎月そこそこの給与は出るんだ。辞める方がリスキーだし、転職する勇気も気力もとっくの昔になくなっている。

 だからみっともなかろうがひたすら頭を下げて我慢してきた。


 プライド?

 そんなものとっくにねーよ。


 だが、そんな俺でも今日の出来事はもう限界だった。


 言われた仕事をすべて終え、やっと三日ぶりに家へ帰れると思った途端、奴が山のような書類を持ってきて言ったのだ。


「俺は別件の忙しい仕事でこちらまで手が回らない。明日の夕方までにこの書類をすべて処理しておいてくれ」と。


 ちょっと待て。


 それはお前の仕事だよな?

 手が回らないのはお前が無能だからだよな?

 別件の仕事で忙しい?


 嘘つくな。さっき、これから飲み会に出るという電話をしてたのを俺は知ってんだぞ。

 俺にすべて押し付けてお前は飲み会に行く気か?


 ふざけるな!


 心の中は怒りと落胆で荒れまくっていたが、とりあえずやんわりと拒否してみる。

 これは俺の本来の仕事じゃない。拒否する権利はある。


「すみません。三日帰ってないので、そろそろ一度帰らせてください。一度帰って少し休んだら必ず明日の夕方までには終わらせますから」


 できるだけ穏便に言った。

 怒りを抑えて穏やかに言えた俺、偉いと思う。

 しかも一応、帰らせてくれたら仕事もちゃんとやるとまで言ったんだぞ?


 だけど、あいつは言いやがった。


「ダメだ。これを明日までに処理できなければ業務に支障が出る。なに、大した量じゃないんだ。お前ならこれぐらいチャチャっと簡単に出来るだろう? 疲れてるならわざわざ家まで帰らなくても仮眠室で少し寝ていいから」


 は?

 ふざけんな。

 いい加減にしろ!

 大した量じゃないならそれこそお前がやれよ。


 さすがに我慢の限界だったらしい。

 頭の中が怒りで真っ白になる。


「うるせえ! 黙れハゲ!」


 気づいたら俺は上司を付き飛ばし、自分の鞄を抱えて外に飛び出ていた。



 さっきからスマホがうるさく鳴っている。

 どうせあのパワハラクソ上司だ。

 もう嫌だ。絶対に出るもんか。


 無視し続けてもずっと呼び出し音は止まらない。

 俺はスマホの着信音をオフにした。



 上司ぶっ飛ばして会社を出たのが午後八時。

 そのまま逃げるように繁華街をうろつき回った。


 ファミレスに入って目につくメニューをかたっぱしから爆食したあとは、カラオケ店に入って数時間、一人で声が枯れるまで歌いまくった。

 そのあとはコンビニでストロング系の酎ハイをしこたま買って、夜の公園のベンチに陣取り買ってきた酒を浴びるように飲みまくった。


 なぜか家には帰りたくなかった。


 しばらくするとひどい吐き気に襲われ、公衆トイレで胃が裏返るほど吐いた。


 長年溜め込んでいたストレスが一気に爆発したような気がした。


 俺、我慢しすぎてたんだな。


 吐き気がおさまった俺は公園のベンチにだらしない姿勢で座り、何気なくスマホを確認する。


 上司からの鬼電。着信履歴の件数すげえ……。

 メールも何通も入ってる。

 最新のメールを開いて読んだ瞬間、なぜか笑いがこみ上げてきた。


「もう明日からこなくていい……だってさ。やったね。クビじゃん俺。やっとブラックから逃げられる。そして明日から無敵の無職様だ」


 すごいや。

 あれだけ我慢してしがみついてたブラック企業を一瞬で辞められた。

 笑いしかでねえや。


「はははは……やっべ。すげーおかしくなってきた……」


 一人でくすくす笑ってる俺を、時折通るカップルが不審そうに見てる。


 俺、やばい人に見える? きもい?

 なんとでも思えばいいさ。

 人にどう思われようがもうどうでもいいんだ。


 そして、気づくと俺はそのまま公園のベンチで爆睡していたらしい。


 時間は午前二時。

 草木も眠る丑三つ時だよ? なのに俺は一体こんなとこで何やってんだ。


 目がさめると少し冷静になっていた。

 そして、同時にひどい疲れを自覚した。


「……帰ろう」


 電車はとっくにない。

 職場のある駅から自宅の最寄り駅までは数駅の距離があるが、タクシーに乗る気にはなれなかった。

 なんだかとても歩きたい気分だったのだ。


 最近は暖冬傾向とは言え、十一月の終わりともなると、さすがに夜は冷え込む。だけど、体は妙に火照っていて、夜風は気持ちよかった。


 静まり返った住宅街をふらふらしながら歩く。

 酒と疲れのせいで足はふらつき千鳥足だ。


 よく考えたら家には三日帰ってない。スーツもシャツも着替えてない上に、さっき吐いた汚れが少しついて結構汚い。

 でもいい。誰に見せるわけでもないし、家に帰っても誰もいないのだから。


 とにかく眠くて仕方がなかった。

 ずっと無茶な徹夜が続いてろくに寝てないんだ。

 机の上でウトウトしたり、会社の硬いソファの上で体を丸めて寝る仮眠なんかじゃ疲れは取れやしない。ちゃんとした布団で手足を伸ばして眠りたい。


 いや、なんならもういっそ永遠に眠りたいよ。



 重い足取りで、ゆるい傾斜の坂道を登り続けると、目の前にはいきなり石の階段が現れる。

 この石段の先には石造りの鳥居がある。この街に昔からある小さな神社だ。


 俺の家はこの神社のそばを通りすぎた少し先にある。俺にとってはいつも通り過ぎるだけの風景の一つにすぎない場所だ。

 家から一番近い神社だが、新年に初詣に行くぐらいで、それも賽銭を入れて適当に手を合わせて帰って来るぐらい。

 

 一応社務所はあるが、人は常駐していない。

 秋祭りなどの時に町内会の人や、神社を管理する宮司さんらしき人が出入りする程度だ。

 あとは地元の年寄りが、定期的に掃除にきているのを通りがかった時に見かけるぐらいだ。

 そもそも俺はこの神社に何という神様が祀られているのかもよく知らない。



 真夜中の神社はどことなく不気味だ。

 しかし、今日は何故か妙にこの場所に引き寄せられる感じがする。

 こんな時間だけど、少し寄ってみようか。

 不意にそんな気になった。


 人工的な灯りはないが、今夜は満月だ。

 青白い月明かりに照らされて、暗い中でも足元は良く見えている。

 俺は石段をゆっくり登っていく。


 石段は百段程度だろうか? 普段の運動不足がたたって少し息が上がる。

 乱れた息を整えるために途中で立ち止まり、ふと振り返ってみる。

 眼下には街の明かりが広がっている。

 それはまるで暗い紺色の布の上に、銀砂を撒いたようで美しかった。


 この時間でも結構灯りは点いてるもんなんだな。


 考えてみれば普段の俺はこの時間も仕事をしているのだから、他にも結構そういう奴はいるのだろう。


 石段を登りきると、本殿がすぐ目の前に見える。

 当然ながら真っ暗だ。本殿のすぐ近くにある小さな社務所も暗い。


 俺は賽銭箱に十円玉を放り込み、手を合わせる。

 何かをお願いしたわけではなく、ただ何も考えずに手を合わせただけだ。


 神様なんておそらくいない。


 いたらこんな不幸な俺を放置しないで助けてくれるよな。多分。いや、わかんないけど。 


 さて、これからどうしたものか。


 これからのことを考えると憂鬱な気分になる。


 石段に腰掛け、俺は長いため息をつく。


 吐き出した白い息が、暗い冬の夜空に一瞬だけ立ち登り、すぐにふわっと消えていくのを、俺はただぼんやりと見ているだけだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る