奈落。それは地獄、あるいは其処に落ちる様を指す。

 奈落は今、生きている。死者はわざわざ知人の首を送りつけるようなことはすまい。それに、奈落は生を求めて生き延びてきたと口にした。どうしてかはわからないが、俺はその言葉を信じずにはいられなかった。

 愕然としている俺を一瞥してから、奈落は「偽りなど述べてはいない」と、やや不満げな口調で言った。


「文字通り、私は奈落に落ちたんだ。其処へ落ちる他に道はなかった。そうでもしなければ、私はずっとみじめで薄汚い奴隷のまま死ぬしかない状況に置かれていたのだから」

「……お前は、買われたのか。奴隷として」

「ろくでもないところにな」


 事もなげに奈落は言ってのける。息苦しさなど微塵みじんも感じさせずに。

 どれだけ非道ひどい主人だったのだろう。いくらでも想像することは出来たが、真実は奈落しか知り得ないことだ。加えて、彼女は憐れみを誘いたいようにも見えない。下手に同情すれば、奈落の尊厳を傷付けそうで、俺は口出し出来なかった。


「酷い顔だな」


 それでも、俺は顔を歪めずにはいられなかった。俺の粗末な頭であっても、奈落が置かれてきた状況を大まかに想像することは出来たのだ。

 しかし、当事者であるはずの奈落は肩をすくめるだけだった。これでは、まるで他人事のようだ。


「初めこそ驚いたし、何という場所に出てしまったのだと後悔もしたが、ついてないこと続きだと案外幸いなようにも思えた。私を買ったところよりはずっとましだったし、酷いことをする者もいるにはいたけれど、親身になって話を聞いてくれる者もいた。……つまり、居心地が最悪という訳ではなかったということだ」

「しかし、其処は奈落のような場所だったのだろう?」

「ような、ではない。奈落だよ」


 形容詞ではなかったというのか。ますます訳がわからない。


「わからないのなら、わからないままで良い。お前の理解を得たくて語っている訳ではないから」


 思考を読まれたのか、奈落はやや投げやりな口調でそう断じた。

 俺は、こうまで隙のある人間だっただろうか? 奈落とのやり取りを振り返りつつも、疑問を覚えずにはいられない。

 かつての記憶を思い起こす。どちらかと言えば──いや、明確なことだが、会話の主導権はいつも俺が握っていて、天花はほとんどの場合俺の思う通りだった。彼女は俺のことを頼るばかりだったから、必然的に俺が進行役を務めなければならなかったのかもしれないが、それにしたって立場が逆転しているにも程がある。不気味にすら感じる。


「して──お前は、奈落で何を見た? 何を体験して、何を感じた?」


 ともあれ、今は天花が奈落に至った経緯を問わなければ。自問自答はその後にいくらでも出来る。

 奈落は数秒間、沈黙して俺を見つめた。──が、特に言うべきことはなかったのか、何もなかったかのように話を続ける。


「ひとつの世界の、滅びを見た」

「滅び……」

「初めて戦というものに首を突っ込んだ。……突っ込まなくては、どうしようもなかったからな。人々の中で不動のものだった国家が、その基盤が崩れ落ちてゆく様を見届けた」

「軍に加わったのか?」

「一時的に、だがな。種子島も使ったぞ。使い方を覚えるまでは大変だったが、慣れればいくらでも使えるものだな、あれは。ただ、いかんせん発砲音うるさいから、乱用したいものではないが」


 記憶の糸を手繰たぐり寄せるように、奈落の視線は緩やかに動く。

 種子島。その単語を語る時でさえも、奈落は顔色ひとつ変えなかった。

 燦に止めを刺したのは乙葉だが、その元凶となったのは間違いなく俺の放った弾丸である。近江の国友衆より買い付けた種子島は精度が高く、不意討ちするにはうってつけだった。

 兄を傷付けた武器を、手ずから持って戦場へ出る羽目になるとは。運命とは、何と皮肉なものだろうか。


「では──お前は、ひとつの国の終焉を見届けてから、日ノ本に帰還したのか?」

「ああ。ちょうど、イスパニアの商人と知り合いになったのでな。貿易船に同乗させてもらい、マニラを経由して帰国した。意外と海を越えて暮らしている日ノ本の民も多かったぞ」


 地名はよくわからなかったが、渡航する上で目立った問題は起きなかったようだ。いや、奈落が語らないだけでいざこざがあったのかもしれないが──本人の口から語られるまで、彼是あれこれと憶測を並べ立てるのはやめよう。


「帰国してからしばらくは長門ながと──毛利氏のもとでで過ごしていたが、減封された家にいつまでも居座っている訳にもいかないし、何よりも足利の情報は掴めなかったので京に向かった。徳川殿は武州に本拠を置かれたらしいが、まだ都としての基盤は脆弱ぜいじゃく。人が集まるとなれば、京しかないと思った」

「しかしお前、京につてはあったのか? 足利と懇意にしていた毛利の治める長門ならともかく、お前のことを知っていてねんごろな者は、そうそういないだろうに……」

「東山に高台院こうだいいん様のお屋敷があられる。彼女は懐深い方でいらっしゃったから、事情を話したところお屋敷に置いてくださった。……まあ、いつまでもご厚意に甘える訳にもいかなかったし、青野原の戦においてけた──いや、無礼か。治部殿の側に付かれた一族の娘たちも何人か側仕えとして養われていたからな。頃合いを見計らって、大坂の牢人たちを頼ることにした」

「牢人? あの柄の悪い連中と?」

「たしかに素行は悪く下品な者も多いが、その分手駒として使いやすくもある。あれらの側にいることで貴様の情報はいくらでも掴めたし、足利の関係者に漕ぎ着けた。遺体の始末も奴等が済ませるから、一石二鳥というものだ」


 上下関係をわからせれば使い勝手の良いものだ、と奈落は道具の感想でも述べるかのように言った。

 始末した──ということは、行方不明になったという者たちのほとんどはこの世にいないのだろう。奈落の指示によって、殺された。

 頭がくらくらとする。眩暈めまいを覚える他になかった。

 奈落は人を殺した。たとえ自分の手を汚していないのだとしても、彼女は人を殺めることを知ってしまったのだ。無垢な少女は、人殺しなどするべきではなかったというのに。


「……ならば、奈落。乙葉も、お前が殺したのか。乙葉を殺せと、命令したのか」


 ぐらつく視界に耐えつつ、俺は尋ねる。

 乙葉。つい先日、彼女の首級が送られてきた。

 きっと奈落の仕業だと頭では思っていても、いざ手を下したとなるとどうにも信じられなかった。奈落が人殺しの命令を出している姿など、想像出来ない──いや、想像したくなかったのだ。


「ああ、そうだ」


 しかし、奈落は肯定した。

 自らが乙葉を殺した──その指示を出したのだと、彼女は認めてしまった。

 言い様のない吐き気に襲われた。俺の知っている天衣無縫な少女が、何処か遠くに──それこそ、奈落に落ちたかのような感覚だった。


「何故だ? 何故、乙葉を殺さなければならなかった? それほどまでに、あいつが憎らしかったのか? 燦を殺したあいつが、許せなかったのか?」


 眉間を揉みながら、俺は矢継ぎ早に質問する。口を閉ざす余裕などなかった。

 だが、奈落の瞳には一切の感情が映らない。それが何よりも心苦しく、そして不安感をあおる。


「まさか。私情では動かんよ。あのまま放っておけば、あの隠密は私を殺すだろう。私にはやるべきことがある。それに、兄のような死に方をしたくはないのでな。それゆえに、乙葉には死んでもらった。貴様がまだあの隠密を重用していたのなら、悪いことをした」

「そのようなことはどうでも良い! お前、それでは、『邪魔になりそうだったから殺した』と、そう言っているようなものじゃないか! 本当に、感情では動いていないのか!?」

「動いていないとも。何より、それでは効率が悪かろう。私が生き延び、そして動いていることを外部に知られれば面倒なことになる。情報の漏洩ろうえいを防ぐためにも、接触した人物には消えてもらわねばならなかった」


 奈落の口振りは淡々としていた。業務連絡でもするかのような語り口だった。

 何が──何が、奈落を、いや、天花を変えてしまったのだろう? 天花は虫一匹すらも怖がるような少女だったのに。人を殺めることへの躊躇ちゅうちょが、これほどまでに欠如しているなど──信じたくはなかった。


「信じたくない──という顔をしているな」


 案の定、奈落は容易く俺の胸中を悟る。それに傷付くことも、苛立ちを見せることもない。


「お前にとって私とは、血なまぐささとは無縁の、呑気でお気楽な、無知でこの世の影を知らぬ小娘だったのだろうよ」


 かげりを帯びた瞳は、最早天花のものではない。奈落へ落ちた女が浮かべるに相応ふさわしい眼差しに、俺は少なからず怯んだ。

 そうだ。天花は戦を知らない、無垢で汚れなき少女だった。世間知らずな彼女が頼れるのは俺や母上だけで、事あるごとに俺の背中を追いかけては若君待って、と息を切らせていた……。

 かつて何度も手を差し伸べてやったはずの少女は、もう何処にもいない。死んでしまったのだ。兄を殺され、そして外つ国に売られた彼女は、己を生かすために純真な少女という柔らかな衣を脱ぎ捨てた。代わりに身にまとったのは、奈落を称する女──固く頑丈で、その身を傷付けられても死なないよろい


──何故、このようなことに。


 俺はそう嘆きたかった。嘆くことが出来たら、どれだけ楽であったろうか。

 だが、俺にはかこつことなど許されない。俺のような浅ましく愚かしい人間は、如何なる口出しも不可能なのだと、気付いてしまったのだ。


「私はもう、貴様の知る天花ではないよ。天花は死んだ。あの頃の私は、遠い昔に捨て去った。貴様の求めている少女は、最早三千世界の何処にも居はしない」


 天花が、あの無邪気な少女が死んだのは。間違いなく、俺が原因だ。

 ああ、と嗚咽おえつにも似た音が漏れた。何を恨み、憎み、そして悔いるべきなのか──。俺には、とんとわからない。

 今の今まで──そう、つい先程まで、天花は俺にすがり、助けを求めるものだと思っていた。あいつは俺が助けてやらねば駄目なのだと、心の底から信じていた。

 だが、違う。逆だったのだ。


 、天花にすがりついていたのだ。

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