俺の住まいにたどり着いた天花は、俺が戻ってくるまで客間で背筋を伸ばして微動だにせず座していた。

 まるで置物のようだ──とさえ思う。昔は、少し正座しただけで足がしびれただの腰が痛いだのと言って、ふらふらと危なっかしい足取りで歩いていたのに。

 思えば、天花はこの七年間でかつての面影がかなり削り落とされたように見える。

纏う雰囲気はさることながら、長く豊かで、かつてはゆるく結わえていた髪の毛がばっさりと短くなっているのは驚いた。平安の時代では、尼は髪の毛を全て剃り落とすことはなかったというが、きっとこのような髪型だったのだろうと思う。夜空のようで美しい髪の毛だったというのに、尼削ぎがごとき短さになったのはいささか勿体なく感じた。

 しかし、何よりも目を引くのはその目元である。

 昔から切れ長でつり目気味だったが、今では貫禄かんろくがついたということもあってか切れ味の冴える業物わざもののようでもある。そして、その視線からは一切の感情を読み取ることが出来ない。

 何を思っているのだろう。その眼差しは、果たして何に向けられているのだろう。


「……何をしている?」


 客間の側で立ち止まっていることに気付かれたようだ。天花の冷たく張り詰めた声が響く。

 何ともまあ、硬い物言いをするようになったものだ。かつての少女らしさなど微塵も感じられず、幾多の修羅場を乗り越えてきた凄味すら感じられた。

 俺は肩をすくめてから客間へと戻る。天花は真っ直ぐ前を向いたまま、やはり良すぎる姿勢で座している。


粗茶そちゃだが」

「いらない」


 茶とほんの少しの菓子を差し出したが、即答で拒まれた。

 この女は、本当に天花だろうか? 俺の中で疑問が沸き起こる。

 天花は菓子──特に餅の好きな少女だった。いつ彼女が来訪しても良いようにと餅は常に厨へ置いておいたのだが──それすらも不要とはね除けられては、違和感を覚えずにはいられない。

 まさか、俺が毒を盛るとでも思っているのだろうか。神母坂常若は、兄を殺した残虐な男だと、そう認識されているのだろうか。

 もやもやとわだかまる、えもいわれぬ感情を飲み下す。いちいち衝撃を受けてばかりもいられない。

 天花と同様に腰を下ろして、俺は彼女を見つめる。天花もまた、視線を上げて俺の顔をじっと凝視した。


「さて、天花──」

奈落ならくだ」


 口を開こうとした矢先に遮られる。

 見れば、天花が僅かに眉を潜めていた。不愉快に思うことでもあったのだろうか。


「今の私は奈落。天花とは過去の名である。今の私に語りかけるのならば、奈落と呼べ。それ以外の呼び名には答えない」

「……なるほど。それはすまないことをした」


 過去の自分──天花は、最早死んだというのか。

 しかし、彼女の言う通りにしなければ話が進まなそうだ。これから、彼女のことは奈落と呼ぶことにしよう。


「……では奈落。俺から質問をしても良いだろうか」


 聞きたいことは山ほどあった。しかし、矢継ぎ早に問いを投げ掛けては天花──もとい奈落の機嫌を損ねかねない。彼女から話を聞き出せないと思うと、多少腰の低い態度を取ろうとも屈辱的には感じなかった。

 奈落は目をすがめる。しかし先程のように突っぱねることはなく、許す、と尊大な口調で先を促した。


「お前は──一体何のために俺を捜し、此処へ来た?」


 まず、はじめに。奈落の目的を確認しなければならない。

 今のところ、態度こそはつっけんどんだが、奈落に殺意や敵意のようなものはこれっぽっちも見受けられない。鋼鐵こうてつのような無表情の下に隠しているだけかもしれないが──此方に手を出す気配はなさそうだ。

 しかし、恐らく奈落は乙葉を殺害している。武に触れてこなかった彼女のことだから他人に殺させた可能性が高いが、少なくとも乙葉に対する殺意があったと見なして良い。俺のことも、恨んでいるかもしれないのだ。

 奈落はぴくりとも動かなかった。何度か瞬きを繰り返してから、おもむろに口を開く。


「貴様と話すため。それだけだ」


 凛として、真っ直ぐに響く声だ。

 俺と話すため。それだけのために、此処までたどり着いたというのか。乙葉を殺して。

 いっそ笑い飛ばしてしまえたら、どれだけ楽だっただろうか。嘘を吐け、お前は俺を憎んでいるのだろう──と嘲笑えたのなら、胸のつかえは打ち消せただろうか。

 しかし、俺は奈落を笑うことなど出来なかった。

 彼女がどれだけ苦しみ、過酷な道を歩んできたのか。それを考える度に、己がどれだけ取り返しの付かないことをしたか思い知らされる。天花を救えなかったというただ一点だけが、俺の心をがんじがらめにして放さない。


「そう──か。俺と話したいのか、お前は」


 そ知らぬ顔で、手を組み合わせる。

 我ながら強がるものだ──と、やけに客観的に思った。奈落の前では、少しでも自分を強く見せたいと願ってしまう。

 奈落はそんな俺を一瞥いちべつしただけだった。嘲りもあなどりもさげすみもなく、ただ見つめているだけであった。


「ならば話そう。お前の気が済むまで、思うままに語らおう。だが、ずっと聞き役でいるというのもいただけない。俺からもお前に幾つか問うて良いだろうか」

「構わない」


 機械的な返事だ。かつての天花を思うと胸が引き裂かれるようだったが、不思議と痛々しさはなかった。

 奈落はふう、と静かに息を吐き出した。それは問いかけの準備なのだろう。


「神母坂常若。貴様はこの七年間、何処で何をしていた」


 尋問でも受けているかのような気分だ。

 まあ、こういった質問なら想定内でもある。実際、俺も奈落に同じ質問を投げ掛けようと思っていた。

 経歴を語ったところで、弱点を突かれる訳でもなし。俺は答えることにする。


「お前が売られてからは、足利にも居づらくなってな。一年もしないうちに足利のもとを離れて、商人の真似事をするようになった。もともと計算事は不得手ではなかったし、最近は水運の開発も盛んだからな。需要もあるんだ。これがどうしてなかなかもうかる」

「水運……もしや角倉すみのくらか?」

「なんだ、了以りょうい殿を知っているのか? 大堰川おおいがわ開削かいさくを行った方だが──まさか、奴隷貿易にも関係していたのか?」

「否。単なる商人同士の繋がりというものだ。私を売ったところとは無関係だよ」


 ふるふると首を振って、奈落は俺の憶測を否定する。やっと人らしい動作を見た。

 しかし、奈落は商人とも繋がりがあるのだろうか? 売られた時のこととは無関係というから、なかなか想像がつかない。


「……貴様の話は終わりか?」


 しばらく沈黙していたところ、じと、と半目で睨まれた。急かされているらしい。

 そういえば、天花も何だかんだでせっかちなところがあったと思う。自分が遅れている時には待って待ってと言っていたが、他人が勿体ぶって話している時は早くしろとしきりに先を促していた。

 根本的な部分は、やはり変わらないのだろうか。少し微笑ましい気持ちになったところで、俺は続ける。


「そういった訳で、此処数年はあきないを生業なりわいにして暮らしている。戦乱の世も、じきに終わりそうだからな。これからは軍備よりも、行商で儲けることの方が多くなるだろうよ」

「ふむ、それはどうだろうか。恐らく、南蛮との貿易はそう時間を置かずに止まるぞ。国内や、新教徒──たしか、清教徒ぴゅうりたんとか言ったかな。あの辺りは除外されそうだが、これまで耶蘇教やそきょうを広めていた国々は軒並み爪弾つまはじきにされるぞ。詰まるところ、南蛮からの顧客が減る」

「……お前、よく知っているな」


 やけに口数が多くなったと思ったら、俺にもよくわからない話──外交の話をされた。

 たしかに、顧客の中には南蛮との貿易に関係する者も少なくはない。日ノ本の資源を求める南蛮人たちは、一部の商人たちにとってはお得意様でもあるのだ。そんな南蛮人との貿易が止まるとなれば、儲けも減るかもしれない。

 しかし、南蛮人との間で商いを行っている商人ならともかく、何故奈落が情勢をつまびらかに知っているのだろうか。このような話、俺も初耳だというのに。


「お前も商いをするようになったのか?」


 まさか同業者か、と思い問いかけると、奈落はいいや、と否定した。


「訳あって、大陸の──欧州、と呼ぶのが妥当だろうか。その辺りの者と交遊する機会があったものでな。昨今の状況は、嫌でも耳に入った」

「奥州?」

「みちのくではない。欧羅巴エウロパだ。紅毛人こうもうじんと呼ばれる人々を知っているか?」

「ああ、多少は。ほらんととか、いんぐれすとかいう……」


 最近になって、などといった南蛮諸国とは別に、同じ神を信仰していながらその在り方の異なる異人たちが来航しつつあるらしい。日ノ本では、紅毛人と呼ばれている。赤毛の者が多かったのだろうか。見たことがないのでよくわからない。

 奈落は、紅毛人とも繋がりがあるのか。だとすれば、彼女は何処に売られたというのだろう。


「奈落、俺からも問うて良いだろうか」


 いつまでも質問される側でいたくはない。俺はいつになく慎重に、奈落へ伺いを立てた。

 奈落は少し首をかしげてから、こくりと小さくうなずいた。


「お前は、何をしていたんだ。七年もの間、どうやって生きてきたんだ」


 それは、先程奈落が投げ掛けた質問と同じ。

 俺は奈落のことが知りたい。俺から離れていた七年間、彼女はどのようにして生きてきたのか。そして、何が天花の天真爛漫さを削ぎ落としてしまったのか。それを知りたくて、堪らなかった。

 奈落は俺の問いかけをあらかじめ予想していたのか、顔色を変えることはなかった。僅かに目を伏せながら、彼女は口を開く。


「貴様のことを考えながら生きてきた」

「──」

「──と言ったら、貴様は喜ぶのか?」


 思わず息を飲んだ俺に、奈落は透明な眼差しを向けた。試すような瞳だった。

 そうか──俺は、試されているのだ。二つも年下の、戦いのいろはも知らない女に。


「生憎、いつでも貴様の顔を思い浮かべられるような、甘い環境に置かれていた訳ではなかったのでな。死にたくない死にたくないと足掻き続けて、後先など考えずがむしゃらに走り続けただけだった」


 ぽつり。

 虚空を見上げながら、奈落は語る。

 死にたくなかったのか。この女は。ただ生きるためだけに、奴隷として売られながらももがき、足掻き、そして生き延びたのか。


「しかし、お前はつ国にいたんだろう? しかも、奴隷として売られた身だ。何があって、普通の人間のように振る舞える? 奴隷という身分から抜け出すのは、容易なことではないだろうに……」


 奈落を傷付けるとわかっていながらも、俺は言葉をつくろわなかった。

 天花を奈落たらしめた理由を知りたい。自分の知らない天花がいるなど、我慢ならなかった。

 奈落は、それを悟るだろうか。どうか気付いてくれるなと、俺は胸中にて祈った。

 彼女にとって、俺は在りし日の若君でなければならない。頼りになって、信頼出来て、迷うことのない、完璧な若君。どれだけ憎まれ、恨まれようとも、この胸の内だけは知られてはならないし、知られたくない。

 奈落は俺を、上から下までじっくりと眺めた。そして、ずい、と身を乗り出す。

 

「知りたいか?」


 あくまでも、この女は俺の口から導き出すつもりなのだ。そう理解して、俺は内心舌を巻いた。

 否と答えれば、奈落は語らないのだろう。俺が望まなかったから。それだけで理由は事足りる。そして肯定すれば、俺が奈落に興味関心を抱いていることが明らかになる。

 いやな気分だった。完全に主導権を握られている。

 俺はもう、神母坂常若ではないのだ。過去など、いつでも捨てられる。もう捨てたつもりでいたが──奈落によって、より確かな選択を迫られている。

 否定すれば、楽になれるだろう。ただの商人の男として生きられるだろう。

──それでも。


「知りたい」


 知らずには、いられない。

 俺は、天花の唯一だった。今だって、そう在りたい。

 だから、天花であった奈落を気にかけずにはいられない。彼女は、俺なしには生きられないような存在だったから。

 己が思い通りに事が進んだというのに、奈落はにこりともしなかった。身を乗り出したまま、顔の肉を動かすことなく、そうか、と密やかに呟いた。

 此処で笑ってくれたのなら。顔を少しでも歪めてくれたのなら。俺は、どれだけ救われただろうか。


「私は、奈落に落ちたんだ」


 突き落とされたような気分だった。それこそ、奈落の底へ。

 嗚呼、奈落。在りし日の天花。お前は、絶対に俺を救いなどしないつもりなのだな。

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