第二部 奈落

乙葉


 人は、普遍ふへんから大きくかけ離れたモノを忌避し、遠ざけ、そして迫害する。


 私は隠密の家系に生まれた。それが幸運だったのだろう。

 幼い頃から、よく物を壊した。壊すつもりはなかったのだけど、いつの間にか壊れていることが多かった。私に与えられた玩具おもちゃは全てばらばらになってしまったし、室内で遊ぼうものなら家具のいずれかが壊れた。

 初めこそ、私は壊れるものがもろいのだと思っていた。私はまだ小さかったし、力の加減も──そして、自分のことも、何もわかっていなかった。

 私は、常人よりも力が強い。それを知ったのは、隠密としてのお役目を負う直前のことだった。

 私は十を超えてから隠密として働くようになったけれども、それ以前は少し武術をかじらされている侍女のような扱いだった。自分について知る前に──私は、社会の有り様を目の当たりにしていた。


 だから、恐ろしかった。人ではないと後ろ指を差され、拒絶され、排除されることが。


 穢多えた非人ひにん賤民せんみん。もしくは、彼ら以外の社会的弱者。様々な名称で呼ばれる、被差別民たち。

 同じ人の姿をしていながら、彼らがけがれ、そしていやしいモノとして扱われなければならない理由。それは、一般的な民衆との明確な差異によるのだろう。

 彼らが差別されることを、普遍的な民は疑問視してはいけない。として憐れみを覚え、自分はあのような生まれでなくて良かったと安堵することはあっても、何故ああいった扱いを受けなければならないといきどおることは許されない。少しでもそのような振る舞いを見せようものなら、世間から弾かれてしまう。

 私の力を、今は皆畏れ、そして役立つものとして見てくれている。けれど、私が隠密としての役目を与えられなくなった時──そして、私を隠密と知らない者に知られた時、彼らは私をどのような目で見るだろうか?

 そう考えるだけで、寒気が走った。社会から爪弾つまはじきにされて、薄暗い影の下で暮らさなければならないことを考える度に、私は眠れぬ夜を過ごした。


 嗚呼、嗚呼、恐ろしい。社会から拒まれ、仲間外れにされるのが、恐ろしくてたまらない。


 もうじき国内での戦はなくなるだろう──という時期に、私は生まれた。その時、太閤殿下は既に日ノ本を統一し、その目を世界へと向けられていた。

 つ国に行けば、私の居場所はあるだろうか。いや、ないだろう。今は種子島という、使い方さえ覚えれば誰でも扱えるような、便利な武器が流通している。私でなくとも、代わりはいくらでもいる時代になってしまった。

 それに、私の一族は足利家に代々仕えてきた。その主家は、最早政まつりごとには関われない。何処へ行こうとも、私の武は必要とされないのだ。

──あの方のところ、以外は。


「──久しいものだな、乙葉おとは


 八龍丸はちりょうまるさん──というのは、遠き彼の幼名だ。

 太閤殿下が亡くなり、関ヶ原にて徳川内府殿が勝利なさられてから、七年。彼も私も二十歳をとうに超え、今年で二十三歳になる。

 常若さんは現在、嵯峨野さがのにある小ぢんまりとしたあばら家で暮らしているという。何でも、去年から開かれた大堰川おおいがわの影響で水運によるあきないが盛んになっているらしく、持ち前の頭の回転で商人たちの支援を行って生計を立てているのだそうだ。

 それもこれも、今さっき聞いたばかりだから、まだ理解が及んでいない部分もあるけど。


「まあ何であれ、常若さんがお元気そうで良かったです。突然出て行っちゃうんですもん、心配したんですよ」

「色々と考えてな。もう足利にいる必要はないと思い至ったんだ。義尋ぎじん殿──いや高山たかやま殿は還俗げんぞくなさられたが、俗世から遠いところにいらっしゃるのに変わりはなかったからな。であれば、時勢をかんがみて職を変えるのが妥当だった」

「本当に思いきりが良いですよねえ、常若さんは。私なんて、行き場を失って今や用心棒ですよ。常若さんに声をかけてもらえなかったら、二度と足利の関係者だって名乗ることもなかったと思います」


 伊賀や甲賀の忍ならまだしも、無名の──しかも権勢から遠退いた一族の下にいた者となっては、大名に取り立てられることもあまりない。特に、関ヶ原の敗者たち──主に毛利氏──と親交が深かったとなれば、雇ってくださる大名殿なんてまずいない。いたとしても、近々滅びそうなところばかりだ。

 だから、常若さんの選択は間違っていなかったのかもしれない。早々に主家から手を引くのはどうかと思うけど、生きるためなら仕方のないことだとも思う。忠義を果たさないのか、と彼を責め立てる存在も、もういないのだから。

 いや──しかし。きっと彼は、ただ時勢に従っただけではないのだろう。


「ところで、私を呼び出された理由を教えてはいただけませんか? おおよその予想はついてますけど……やっぱり、教えてもらわないと行動出来ませんから」

「……そうだな。そうだった」


 譫言うわごとのように繰り返してから、常若さんは私に向き直る。大人びた顔付きに、どきりとした。

 昔から、常若さんは私を避けなかった。私の力を知っている者たちは、皆私と一定の距離を置いていたけど、常若さんは違った。私のことを一人の隠密として、偏見なんてなしに見てくれていたんだ。

 だから、私は常若さんが好きだ。顔を真っ直ぐに見ると、心臓が忙しく跳ねる。

今回呼び出された時も、すごくすごく嬉しかった。まだ必要としてもらえるってわかって、安心感さえ覚えた。成長した常若さんを見て、顔がかあっと熱くなった。

──でも。


「近頃、足利将軍家に仕えていたかつての幕臣たちに、積極的な接触を図っている者がいるらしい」


 常若さんの口調は、あまりにも静かだった。

 彼の視線が、私を真っ直ぐに捉えることはない。わかっていても、辛かった。


「へえ、足利幕府を再興させようとでもしているんですかね? もう時代遅れな感じが否めませんけど」


 私はなるべく平静を装った。歪んだ表情なんて、見せられない。

 常若さんは眉間を揉んだ。年々深くなるとか何とか言って揶揄からかっていたけど、現実になってしまったようだ。彼の気難しげな表情には拍車がかかっている。


「……それが、何故か俺のことを聞いて回っているらしい。神母坂常若という人物を知らないかと聞かれた──という情報があってな。足利での知り合いには、正体を隠しつつ接触しようと思ったんだが……何故か連絡がつかない。行方不明の者もいるという」

「それってまさか」


──考えたくない。

 でも、常若さんが私を頼ってきたんだ。個人的な感情で、彼を拒絶するなんて出来ない。

 常若さんは一度目を伏せてから、何事もなかったかのような無表情で続けた。


「天花の可能性も、ないとは言い切れない。もしそうならば、恐らくは怨恨えんこんだろうが……今の段階では、情報があまりにも少なすぎる。無理を言っているのは重々承知しているが、此処はひとつ調査を頼まれてはくれないだろうか」

「私が、お姫様を……?」

「そうだ。お前ならば天花とも面識があるし、足利の臣たちも協力しやすいだろう。無理ならば構わないが──どうだろうか」


 ……常若さんは、ずるい。

 そんな頼み方をされては、断る方が難しい。私の性格を知っていて頼んだのなら、しばらく恨みますよ。

 それに──お姫様のことは、私にも責任がある。


「わかりました。やれるところまではやってみますけど、お姫様までたどり着けるかはわかりませんからね? その辺り、ちゃんと理解しといてくださいよ」

「わかっている。今の時点で、天花が関係していると決まった訳ではない。あまり気張らずに調査してくれ」


 勿論、と私は胸を張る。せめて、常若さんには元気な風を装わないと。

 お姫様──義昭様の遺児であらせられる、天花様。彼女は七年前に、姿を消した。双子の兄である白子殿──さんの死に様を目の当たりにしてから。

 仕方のないことだった。燦は殺されなければならなかった。それを決めたのは他でもない常若さんだ。彼とて、後悔してはいないだろう。

 けど──私は、後悔している。恨まれても仕方ないことをした。それも、個人的な感情で。


 この調査が贖罪しょくざいになるかもしれないと──私だけが、知っている。

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