天花に屋敷の場所を教えたのは良いものの、彼女が通ってくることはなかった。

 まあ、たしかに女の子が一人で外出──というのも危ないし、もし許されたのだとしてもあの若君とか呼ばれていた少年がいっしょなのだろう。僕が会いたいのは天花だけだから、邪魔者にまで付いてこられるのは御免ごめんだった。

 しかし、いつまでも天花に会えないのは辛い。父が亡くなった今、僕の屋敷はがらんとしている。ほとんどの使用人は出ていってしまい、残ったのは此処でしか食い扶持を稼げないような者か、余程足利と縁の深い者ばかり。後者はずっといるという訳ではなく、月ごとに顔ぶれが変わる仕組みになっていた。

 詰まるところ、僕は暇なのだ。

 天花に会いたい。しかし天花は此処に来ない。

──ならば、やるべきことはひとつ。


「お、お兄様!? どうして此処に……!?」


 天花の屋敷に突撃訪問。これしかなかろう。

 目を丸くしている天花に、ひらひらと手を振る。驚いている顔も可愛い。


「えへへ。どうしても天花に会いたくて来ちゃった。吃驚びっくりさせてごめんね」

「い、いや、気持ちはすごく嬉しいけど……。でも、その、大丈夫なの? へいの上に登ったりして……」

「ああ、平気だよ。これでも、体は鍛えているんだ。──よいしょっと」


 正面から入れてもらえる気はしなかったので、僕は塀をよじ登ってお邪魔する手を取った。たまたま縁側に腰かけて南蛮菓子を食べていた天花を見かけたから、気がはやって声をかけたのだ。驚かせてしまったのは悪いと思っている。

 すとん、と無事に地面を踏むと、天花はおお、と感嘆の声を漏らして拍手した。


「お兄様、すごい! まるで軽業師けいぎょうしみたい!」

「そう? 大したことではないと思うけれど……。でも、天花に褒めてもらえるのなら嬉しいな。ありがとう」


 天花からの素直な賞賛は心地よい。僕も思わず口元がゆるんだ。

 天花は僕の手を引くと、縁側に座るようにと言った。初めこそ驚いていた彼女だったが、僕の来訪自体は受け入れてくれるようだった。


「これね、太閤様にお仕えするお役人の方が持ってきてくださった南蛮のお菓子なの。かすていら、っていうんだって。甘くてふわふわしていてとっても美味しいから、お兄様も食べてみて」

「へえ、南蛮の」


 何処の馬の骨とも知れぬ猿の手下を屋敷に入れ込んでいることは少し引っ掛かったけれど──天花の誘いを断るのは悪い。それに、南蛮のお菓子に対する興味もある。

僕は天花が串に刺している、卵の黄身のような色合いをした菓子を眺めた。もちとは違った柔らかさを感じさせる見た目をしている。


「ね、ね、お兄様。もし良ければなんだけど、その頭巾ずきんを取ってくれないかなあ」


 つんつん、と肩をつつかれる。見れば、僕の頭を見上げる天花がいる。

 僕は日光に弱い体質なので、日焼けを防ぐために外套がいとう代わりの布を羽織ってきた。それが頭巾に見えたのだろう。

 縁側なら日陰になっているし、何よりも他ならない天花の望みだ。僕は良いよ、と微笑んでから、頭巾を払う。


「ありがとう、お兄様。──はい、どうぞ」


 本当は口に運んでもらいたかったのだけれど、そう上手くいくものではない。天花からは小皿に取り分けられたものを手渡された。

 まあ、この前会ったばかりの男にそう馴れ馴れしくするのもどうかと思うし、今はこれくらいの距離感が妥当といったところか。慎ましいところも好感を覚える。

 礼を言ってから、僕はかすていらなる南蛮菓子を口に運ぶ。──甘い。


「どう? どう? 美味しい?」


 身を乗り出して問いかけてくる天花の愛らしさに、自然と口角がつり上がる。勿論、とうなずいてから、僕はかすていらを噛んで飲み込む。


「天花は、甘いものが好きなの?」

「うん! お菓子なら色々好きなものがあるよ。南蛮菓子も美味しいけれど、特に日ノ本のお菓子──お餅が好きなの」

「なるほど、甘党なんだね」

「お兄様は違うの?」


 こてん、と天花が首をかしげる。もぐもぐと口を動かしながら話すのは一般人に無礼とされるが、天花に至っては無問題だ。だって、何をしていても可愛い。いとけない仕草は、僕の胸中を和ませてくれる。

 きっと、天花はまともな食生活を送ってきたのだろう。毒に怯えることもなかったのだろう。だからこそ、こうやって知り合ったばかりの自称兄と呑気のんきに菓子など食べていられる。

 それを羨ましいとは思わない。むしろ安堵の気持ちの方が大きい。天花が思い悩み苦しんでいるなんて、想像したくもないから。


「味の濃いものは少し苦手かな。でも、特に好き嫌いはないよ」


 嘘ではない。濃い味付けで毒を隠すこともあるから、好きになれなくなったのだ。

 天花はふむふむ、と何度かうなずいた。


「じゃあ、東国の食べ物はあんまり向いてないかもしれないね。あと、お味噌みそをべったり付けたお料理とか駄目かなあ」

「そうだね、品によるかもしれないけれど……。でも、天花の振る舞ってくれるものなら、何だって食べるよ。天花の笑顔が最高の調味料だもの」

「お兄様は優しいねえ。でも、さすがに苦手なものをお出しする訳にはいかないし、下準備くらいはさせて?」


 天花は冗談として受け取ったようだけど、僕は真剣だ。天花がいるから、何だって美味しく感じるのだ。

 ところで──だ。天花には、色々と聞いておきたいことがある。


「ねえ、天花。今日はあの子──若君は、いないの?」


 等持院とうじいんで、天花の後を追いかけてきた少年。彼のことは、事前に調べてある。

 神母坂いげさか八龍丸はちりょうまる。天花を守護し、そして偽っていた足利の臣、その一族の少年。父親が早くに亡くなり、現在は母親しか身内がいないという。彼の母親が、天花の母をかたっているのだろう。

 しかし、その身の上を知ることは出来ても、肝心の中身はわからない。天花に聞くのはどうかと思ったが、他に適任がいないのだ。情報を握ったら、さっさと話を切り上げるつもりでいる。

 天花はそうだよ、と特に疑う様子もなく答える。


「若君は今、剣のお稽古けいこをしているの。毎日、この時間帯は出掛けてるよ」

「そうなんだ。君が一人だから、不在かなとは思っていたけど」

「なあに、お兄様。若君のこと、気になるの?」

「うん、ちょっとね。大事な妹の側にいる人だし」


 もう戦の気配は遠くに去ってしまったというのに、武芸を磨くというのはどうなのだろう。

 小田原の北条が滅んでから、もう七年になる。最近では海の向こうに戦を仕掛けたとの話も聞くけれど、戦況はかんばしくない様子。ついこの間にまた出兵が行われたという。現地の様子など知るよしもないけれど、結果は目に見えている。痛い目を見るに違いない。

 ……まあ、僕も稽古をつけてはいるから、他人のことはとやかく言えない。でも、僕はあくまでも天花を守るために鍛えているのだ。そんじょそこらの、武力を以て威張りたいだけの雑魚ざことは違う。


「若君はね、小さい時からずうっといっしょにいてくれる人なの。こんなに長い付き合いの人、若君くらいしかいないよ。──あっ、名前は八龍丸っていうんだよ。鎌倉悪源太かまくらあくげんたや、九郎判官義経の着た源氏八領が由来なの。格好いいよね」


 今はいない八龍丸を思い浮かべながら、天花は彼の人となりについて語る。


「若君は、お兄様とは違って無愛想なの。にっこり笑うところなんてすごくまれ。いつもむっとしてて、口はへの字なんだ。わかりやすいしかめっ面」

「いつも不機嫌なの?」

「不機嫌じゃない時も同じような顔をしてるよ。顔のお肉が固まってるんじゃないかなあ。若君は、すぐ顔に出る方が生きにくい──とか言ってるけど、屁理屈へりくつだと思わない?」


 たしかに、八龍丸はしかめっ面をしていたな。普段行動を共にしている天花が言うのだから、相当なものなのだろう。

 でもね、と天花は付け足す。けちょんけちょんに言ってはいるが、其処に悪意は見受けられない。


「若君、悪い人じゃないんだよ。いつも私の味方でいてくれるの。私のことを叱りもするけど、それ以上にかばってくれるし、私の話し相手になってくれる。屋敷の使用人たちは、私のことを避けるから……寂しい時は、いつも若君に愚痴ぐちを聞かせてるの。私、面倒な女だね」

「そんなことないよ。誰だって、ひとりぼっちでいると寂しく思うものだよ。吐き出すところがなければ、人はいつか壊れてしまう」


──嘘だ。

 僕は一人でも壊れていない。寂しくなど思わない。天花さえいれば、僕は寂しさなど覚えないのだ。たとえ場所が離れていようとも、天花が生きているというだけで、とてつもない安心感を覚える。

 天花は、ありがとう、と苦笑した。


「お兄様は本当に、優しい人なんだね。私、お兄様みたいにはなれないな」

「どうして? 天花だって優しいじゃないか。出会って間もない僕のことを疑わないし、怖がらない。君程の優しさを、僕は浴びたことがない」

「……それは、お兄様が信用出来る人だから。それ以外に対しては、酷いことばかり考えてしまうの」


 天花は目を伏せた。其処には、僅かな後悔の念が見え隠れしていた。


「私は、嫉妬深い女」


 ささやくような声だった。

 僕は、上手く相槌を打てなかった。天花が誰かに嫉妬するという光景を、想像することなど出来なかった。


「私にとって、親しい同年代の人は、若君しかいないから……。だから、若君が他の……私よりも器量良しで、溌剌はつらつとしていて、人好きのするような女の子に話しかけられたり、見つめられたりしているところを見たくないの。お前には他にも親しい人がいるだろうに、若君を奪うな──って。口には出せないけど、いつも相手を呪ってる」

「……天花」

「……酷いよね。相手の女の子は、私に何も酷いことなんてしていないし、むしろ私のことは避けるんだよ。なのに私は勝手な理由で、時には死んでしまえば良い、くらいに思って……。こんな中身を若君が知ったら、きっと幻滅されるよね」


──僕は君の味方でいるよ。

 喉から出かかった言葉は、勢いを失って奥に引っ込んだ。そのようなことを言ったら、天花に嫌われてしまいかねないと思った。

 でも、仕方がなかった。天花が──天真爛漫てんしんらんまんに見えた彼女が、かげを帯びた、あまりにも毒々しい顔付きをしていたものだから。天花の力になってやりたいと、思わずにはいられなかったんだ。


「──っと、まあ、それくらい若君は大事な人なの! お兄様も、仲良くしてくれると嬉しいな」


 誤魔化すように、天花は空元気でそう締め括った。その様子は見ていて痛々しく、僕はぐっと唇を噛んだ。

 どうして、どうして──天花が、苦しまなくちゃならない。この子は何も悪くないじゃないか。たった一人で、偽りの家族を真と信じて……。それなのに、よすがを求めて苦悩しなくてはならないなんて、あんまりだ。

 僕は天花を抱き締めてやりたかった。僕がいるのだから、そのように悩む必要はないのだよ──と。

 でも、出来ない。今の僕には、出来るはずがない。


「……また来るよ。今日は、お菓子をありがとう。今度は、僕からも何かお土産を持っていくね」


 居心地が悪くなって、情けなくも僕は逃げることを選んだ。

 天花はそっか、と短く呟いてから、また来てね、と手を振った。

 塀を乗り越え、屋敷への道を急ぐ。気にする奴なんていないと思うけれど、夕刻までには帰らなくては。

 天花を、どうやったら幸せに出来るだろう。他人の顔なんか見ず、僕の方だけを向かせて、心から笑ってもらうには、どうしたら。

 わからないことだらけだった。それでも、僕に迷いはない。


 僕が、天花を幸せにしなければ。


 それは、僕にとって避けられようのない使命だった。

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