番外編
俺たちだけに聞こえる音 1
ドアベルの音がして俺は出入り口の方に視線をやる。外は風が吹いていたのか、前髪を整えながら彼女は入ってきた。いつものオフィスカジュアルではなく、ブラウンのシャツワンピースにベージュのロングコートを着ている。首にはニットのストールを巻いており、そこから少し赤くなった頬がのぞいている。初めての私服姿に見とれてコーヒーカップを落としてしまいそうになった。きょろきょろと店を見回す彼女と目が合う。コーヒーカップを慎重にシンクに置いて、濡れたままの片手を顔の前で動かす。
ごめんなさい、あと十分。
「待っててもらえますか?」という手話がわからず、覚えたての単語をとりあえず並べた。彼女には意味が伝わったのか、こくんと頷いて、注文カウンターの列に加わった。時計の針が早く動きますようにと願いながら、洗ったコーヒーカップを一つずつ拭いていく。
初めてこのカフェで彼女に出会ったのは、秋、街路樹の葉の色が変わり始めた頃のことだった。彼女が店に忘れた文庫本を届けたあの日から、俺たちはカフェで言葉を交わすようになった。耳が聞こえない彼女は俺の声を聞くこともないし、俺が彼女の声を聞くこともない。彼女は俺の唇を読み、俺は彼女がスマートフォンに打ち込んだ文字を読むことが、普通になっていった。
彼女の名前は、国広朝子さんという。二十五歳。カフェから近いところにある会社で事務をやっているらしい。読書が好きで、店に来る度に違う本を読んでいる。好きな飲み物は、いつも頼むカフェオレ。朝子さんのことを知るたびに、落ち葉が降り積もるように思いが募っていった。
今日は初めて、朝子さんと休日に会う。
一週間ほど前、朝子さんはいつものように金曜日の夕方やってきた。カフェオレ片手に読んでいた本を見て、俺から声をかけた。
「あ、最近話題のやつですね。映画が始まるんじゃなかったでしたっけ?」
朝子さんは目を爛々と輝かせながら、こくこくと頷いた。朝子さんもこの洋画が気になっていたみたいだ。吹き替え版じゃなくて字幕版なら、朝子さんと一緒に楽しめるかもしれない。ええい今だ、と覚悟を決める。
「今度の日曜日、一緒に行きませんか? ふたりで」
緊張で声が裏返ってしまったが、彼女にはわからないのが救いだった。せめて表情には強ばらないように、口角を無理やり引き上げる。朝子さんは一瞬驚いたような表情になったが、スマートフォンに打ち込んだ文字を見せてくれた。
私なんかでよければ。
心の中でガッツポーズをしながら、急いで連絡先を伝えて仕事に戻った。朝子さんが帰ってからもフワフワとした心地が続き、仕事が手につかなかったのは言うまでもない。
更衣室で着替え、朝子さんが待つテーブルに向かう。文庫本を読む朝子さんの目に留まるように手をふる。彼女が俺に気づいたのを確認してから、向かいの席に腰かけた。以前、掃除のために急に椅子を動かして彼女を驚かせてしまったことがあった。文庫本を集中して読んでいたらしく、俺が近づいていたことに気づかなかったのだ。それ以来、驚かさないように気をつけている。
「お待たせしてすみませんでした」
彼女は閉じた文庫本を横に置き、首を左右にふった。スマートフォンを取りだし、返事を打ち込んでいる。
『大丈夫です。菅原さんこそ、急に大変でしたね』
「映画にも間に合いそうです」
午前からバイトに入る予定だったシングルマザーの先輩から、「子どもが熱を出したので午前中だけ代わりにバイトに入ってほしい」と頼まれたのだ。他の人にも連絡したが、みんなすでに用事が入っていて断られたのだという。いつも助けてもらっている先輩だったので、仕方なく朝子さんに事情を伝え、午後から会うことにしたのだった。
「じゃ、行きましょうか」
彼女は慌てたようにもう一度メッセージを送る。
『お昼ごはんは? バイトで食べてないですよね?』
「そんなに空いてないし、映画館で何か食べるから大丈夫です。それに、早く遊びに行きたいし」
彼女はちょっと困ったような表情をする。バイト仲間からは「無口の姫君」なんて呼ばれていた彼女だけれど、案外、表情は豊かだ。「本当に大丈夫?」と聞きたげな顔をしている。
「本当に大丈夫です。さ、行きましょう。映画に遅れる」
ちゃんと伝わったのか、朝子さんは花のような笑顔になった。俺は今日、心臓がもつのだろうか? 赤くなった顔を彼女から背けながら、足早に店を出た。
ショッピングモールに併設されている映画館はごった返していた。ちょうど新しい映画の公開が重なったからだろう。家族連れやカップル、中学生や高校生のグループなどが、それぞれのひとときを楽しんでいるようだ。腕時計を見ると、針は一時二十五分を指している。早めにカフェを出たので、映画までの時間に少し余裕があった。混んでいるけれどショッピングモールで時間を潰そうか、カフェにでも入ろうか……と考えていたそのとき。僕の袖がちょいちょい、と引っ張られた。振り返ると、朝子さんが俺の袖をつまんで俺の顔を見上げていた。距離が近くて、思わずどきっとする。
「ど、どうしたんですか?」
彼女はある方向を指差した。その先には、五歳くらいだろうか、男の子が一人でしゃがみこんでいる。周りに親しげな大人はおらず、じっと床を睨みつけて動かない。迷子だろうか? 心配そうな表情をしている朝子さんに「大丈夫」と伝えて、男の子の元に歩み寄る。
「こんにちは。おとうさんかおかあさん、待ってるの?」
俺は男の子の目の前に座り、顔を覗き込む。男の子の両眼には涙が溜まっており、瞬きするだけで今にもあふれ出しそうだった。
「もしかして、どこにいるのかわかんなくなったのか?」
男の子の体はぶるぶる震えて、とうとう涙が一粒ポロリと流れた。男の子が手のひらで強く目をこすろうとしたので、俺は小さな手を掴んで止める。目をこするなとたしなめると、震えた声が漏れる。
「だってぇ……おとう、さんが、おとこはないちゃ、だめだ、って……」
そのあとは言葉らしい言葉にならず、ついに声をあげて泣き出してしまった。俺はそうか、怖かったな、と声をかけて男の子の頭を撫でてやった。朝子さんは男の子が泣き出したのを見て、自分も悲しそうな顔をしておろおろしていた。「大丈夫」と唇の動きで伝える。
「よく頑張ったな。おとうさんとおかあさん、探しに行こう」
男の子はしゃくりあげながら頷き、俺の人差し指をぎゅっと握りしめてきた。子どもの手は熱く、湿り気を帯びている。手をつなぐと若干中腰になってしまうが、いたしかたない。周囲を見回してインフォメーションセンターの位置を探すと、朝子さんがとんとんと肩を叩いてくる。彼女が指差す方向には、インフォメーションセンターの案内板があった。
男の子をインフォメーションセンターに無事送り届けてから映画を鑑賞した後、ふたりでまたカフェに入り一息ついていた。朝子さんは映画にいたく感動したようで、鼻息を荒くしてスマートフォンに長い感想を打ち込んで見せてくれた。頬もちょっと上気して、いつもの落ち着いた雰囲気の彼女ではなかった。俺も簡潔に感想を伝えると、彼女は小動物のように勢いよく頷いて聞いてくれた。周りは騒がしかったけど、俺たちには関係がなかった。唇と文字の会話は他の人よりもゆっくりだけど、楽しさは何も変わらなかった。朝子さんは文字を打ち込むときに、唇をきゅっとひき結ぶ癖があった。そんな何でもない一面を発見したことが、俺は何より嬉しかった。
『そういえば迷子になった男の子、大丈夫だったでしょうか?』
朝子さんはそう表示されたスマートフォンをこちらに向けた。眉尻は下がり、本当に心配しているのが表情から伝わってくる。
「大丈夫でしょう。人は多いけど、そんなに広くないショッピングモールだし、アナウンス聞いて親も飛んでくるでしょう」
俺がそう言っている間も、彼女の表情は晴れない。彼女はふたたび画面を見せてくる。
『私も迷子になったことがあります。とても不安だったの、覚えてます』
それから少しずつ、朝子さんが話してくれた。
朝子さんは生まれつき耳が聞こえなかったそうだ。デパートで迷子になって大人が声をかけてくれたものの、何も答えることができず、ただ泣き続けていたという。
「それで、どうしたんですか?」
『泣きながら手話をするから、どうやら耳が聞こえない子なんだということが店員さんに伝わったみたいで。店員さんの中で手話ができる方が偶然いらっしゃったので、呼んでくれたんです。惣菜売り場のおばちゃんだったんですけどね。「お名前言える?」って手話で聞かれて、とても安心しました』
朝子さんは笑っているが、さぞ不安だっただろう。そんな思い出があるから、泣き声をあげていない迷子の男の子にもいち早く気づいたのかもしれない。「大変でしたね」と声をかけようとしたが、俺が想像する以上に不安で潰れそうだったであろう幼い日の朝子さんのことを思うと、何も言えなかった。
『そろそろ帰りましょうか?』とスマートフォンの画面に表示されていたので、俺は静かに頷いた。
陽が落ち始め、昼間よりもさらに風が強く吹きすさんでいた。河川にかかる橋の歩道を渡ると、より気温が下がったように感じる。朝子さんはストールに顔を半分埋め、髪は風に遊ばれている。俺たちは静かに並んで歩くだけだった。歩きながら唇を読むのは危ないし、朝子さんもスマートフォンを操作できない。ふつうのカップルだったら、他愛ない話をしながら帰路につくのだろう。
こういう何でもないことが、「気にならない」と言ったら嘘になる。でもそれは、嫌だとか、面倒くさいとか負の感情を抱いているということではない。むしろ俺は彼女のことを、もっと知りたい。いわゆる普通のカップルよりも、ゆっくりかもしれない。でも、俺たちは俺たちのペースでやっていけばいい。
俺は立ち止まって、静かに歩く朝子さんの後ろ姿を見つめていた。小柄で華奢で、強い風が吹けばよろめいてしまいそうな彼女を、俺は守りたい。そう思った。
俺が隣にいないことに気づいた朝子さんは、不思議そうな顔をしてこちらを振り返る。手足は冷たいのに胸の奥底がじわじわと熱くなり、心臓はエンジンがついたように激しく鼓動していた。
朝子さんは俺の唇と見逃すまいと、こちらを向いて待ってくれていた。静かに、彼女の目を見つめる。歩道を行き交う人々の足音や車の排気音は、別の世界の音のように聞こえていた。彼女と俺の間にだけ聞こえる音で、この気持ちを伝えよう。練習していた手話を繰り返し思い出しながら、ゆっくりと両手を動かす。
自分を指差してから朝子さんを指差し、顎の前で親指と人差し指を合わせて引く。
両手の手のひらを上に向けて交互に動かし、最後に右手を顔の前に持ってくる。
「朝子さんのことが好きです。付き合ってくれませんか?」
(続)
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