彼女を振り向かせる方法
高村 芳
本編
彼女を振り向かせる方法
「来た。あれだよ、“無口の姫君”」
コーヒーショップで豆を補充しているとき、同じ大学のケイタ先輩が僕の背中を肘でつついた。レジ越しに入り口の方に目をやると、そこには絹糸のように柔らかそうな髪をなびかせる女性が立っていた。小柄で華奢で、ミルクピッチャーのように艶やかな白い肌。大学生の僕より少々年上なのか、清楚なオフィスカジュアルスタイルだ。このあたりは大学の他に企業ビルも多いから、そこに勤めている人なのかもしれない。いつだったか、休憩時間に「注文のときに一言も喋らない美人がいる」と聞かされてから、一体どんな女性なのかと思っていたが。なるほどこれは、万人に「美人」と称される顔立ちだろう。見とれているともう一度先輩に背中をこづかれて、僕は慌ててレジの前に立った。
「いらっしゃいませ」
彼女はレジカウンターに置かれたメニューの、カフェラテの絵を指差した。本当に喋らないんだ、と驚いたが、顔には出さないように気をつける。
「サイズはいかがなさいますか?」
桜色のリップが塗られた唇を少し尖らせて考えた後、彼女はまたメニューを指差す。細い指先は、Mサイズの値段が書かれた場所に置かれていた。
「カフェラテのMサイズですね。四八〇円です」
彼女は小銭をトレイに置いて、僕の指先からレシートを受け取る。彼女が僕に向かってお辞儀をしたとき、少しカールした髪がふわんと揺れた。彼女は受け取り口へ移動し、ケイタ先輩が作ったカフェラテを受け取って、店を後にした。
「な、喋んないだろ」
ケイタ先輩は僕の方に近寄ってこっそり耳打ちした。
「彼女、いつもこの時間なんですか?」
「なにお前、惚れたの? ほとんどこの時間帯に来るみたいだけど、やめとけって。お高くまとまってんのか、みんな話しかけても無視されてるらしいぞ」
ケイタ先輩は入店音を聞きつけると一瞬で接客モードに切り替わり、僕に代わってそのままレジに入った。
お高くまとまってるわりには、ただの一店員である僕にもお辞儀もしてくれて優しそうな人に見えるけどな。僕は材料の補充をしながら、来月のシフトを見直そうと考えていた。
彼女は金曜日の夕方、六時の少し前に来ることが多かった。テイクアウトの日もあれば、店で飲んでいく日もある。店で飲むときは、何やら文庫本を読んでいるが、カバーがかかっているのでどんな本が好きなのかもわからなかった。声も聞いたことない彼女を目で追いかけるのに、そう時間はかからなかった。
その日も彼女はカフェラテを注文し、テーブル席の隅で外を眺めながら一息吐いていた。注文をさばきながら、彼女の横顔を盗み見していた。
しばらくして彼女はカフェラテを飲み終わったのか、トレイを返却口まで下げて店を後にした。彼女が座っていたテーブルを拭こうとすると、そこには見慣れたカバーがかけられた文庫本が置いてあった。忘れ物だ。僕はキッチンカウンターの中のケイタ先輩に一言声をかけてから、文庫本を抱えて慌てて店を飛び出す。駅に向かう道の先に目をこらすと、柔らかそうな髪が揺れているのが見えた。
「すみません! 忘れ物ですよ!」
走って追いかけるが、彼女は振り向かない。仕方なく一〇〇メートルほど全力でダッシュして追いかけ、彼女に言葉をかける。
「すみません。本、お忘れですよ」
彼女は振り向かなかった。ナンパにでも勘違いされているのだろうか。彼女の横から視界に無理矢理入り、本を差し出した。
彼女は驚いたようで、小動物のような勢いで僕の方から飛び退いた。目を白黒させ、顔が真っ赤になり、動揺しているようだ。僕が身につけたままだったコーヒーショップのエプロンと、目の前に差し出している文庫本を見て、ようやく状況を把握したようだ。
彼女はほっとした表情を見せてから、肩に提げたバッグの中から、スマートフォンを取り出して何やら入力している。文庫本も受け取らずスマートフォンを触っている彼女を不思議に思いながら待っていると、彼女はスマートフォンの画面を見せてきた。
『すみません、私は耳が聞こえません。いきなりで驚いてしまいました。本、ご丁寧にありがとうございました。』
その画面に並ぶ文字列に、次は僕が驚きを隠せなかった。彼女はいつもの笑顔でお辞儀をし、僕の手から文庫本を受け取って駅に歩いていった。彼女の細い指が触れた箇所が熱くなっていた。
*
一週間して、僕は相変わらず金曜日の夕方のシフトに入っていた。せわしく作業している間も、僕の心臓は破裂しそうになっていた。彼女が今日もショップに訪ねてきたら、ひとつ、賭けをしようと思っていたのだ。
彼女は普段と同じ時間にショップにやってきた。僕に気付いたのか、ぺこりと頭を下げる。彼女はいつもどおり、レジでカフェラテの文字を指差す。
彼女が財布から小銭を取り出し、レシートを渡した後。僕は緊張で手を震わせながら、左手の甲の上で、右手を上に跳ねさせた。
「ありがとうございました」
独学で学んだ、感謝を示す手話が間違っていないかどうか自信が無く、自分でもわかるほどひきつった笑顔になってしまった。彼女は僕をまっすぐに見つめ、同じ動作をして微笑んだ。彼女の、優しい声が聞こえた気がした。
「おい、いつの間にか“無口の姫君”と仲良くなってんじゃん。どうやったんだよ」
彼女にカフェラテをサーブしてから、ケイタ先輩はいたずらっぽい顔で茶化してくる。にやけそうになるのを必死でこらえながら答えた。
「まあ、話しかけるだけが振り向かせる方法じゃないってことですね」
「なんだよソレ?」とケイタ先輩は不思議そうな顔をしていたが、俺はそれ以上何も言わず返却口のトレイの片付けに向かった。
返却口の隙間から見えるテーブル席で、彼女がカフェラテ片手に文庫本を読んでいる。ふと目が合い、僕は彼女にお辞儀する。彼女の笑顔は、カフェラテの後味のようにとても柔らかだった。
了
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