俺たちだけに聞こえる音 2
先ほどカフェに入って潤したはずの喉がみるみるうちに渇いていく。心臓が別の生き物のように胸で激しく暴れ、雑踏の音が消える。
朝子さんは一度うつむいてから、俺の顔と手を交互に見つめ、ふ、と微笑んだ。眉尻が下がり、目は光を失っている。彼女の心からの笑顔じゃないことが、俺でもわかった。手の先が冷たくなっていく。
彼女は『ありがとう』と手話で表現した。俺が初めて覚えた手話だった。朝子さんはその後、『ごめんなさい』と、続けて手を動かした。俺にもわかるよう、俺がすでに理解している手話を選んで返答してくれたのだろう。彼女は謝罪の続きを、スマートフォンに打ち込んでいる。
彼女と話すようになってから、手話を覚え始めた。
ありがとう。
ごめんなさい。
はい、いいえ。
私、あなた。
お名前は?
何を、飲みますか?
本。
何を、読んでいますか?
今日。明日。来週。
時間。
良い天気ですね。
カフェオレ。
好き、嫌い。
どこかでひとつ手話を覚える度に、彼女と手話で話す度に、少しずつ距離が近づいていた気がしていた。でもそれは、俺の勘違いだったのかもしれない。告白に対する返答すら、俺にはわからないのだ。急速に、朝子さんとの間の距離が開いていくように感じた。朝子さんはスマートフォンの画面を俺のほうに向ける。
『好きって言ってくれて嬉しいです。でもお付き合いはできません。』
彼女はもう一度『ありがとう』と手話をした。彼女の微笑みは、どうしても無理をしているようにしか見えなかった。
「ちょ! ちょっと待ってください」
ここで「ああ、そうですか」なんて言えるくらいの気持ちだったら、手話なんて最初から覚えていない。思わず彼女の腕を掴んだ。彼女の表情は打って変わって険しいものに変わった。朝子さんは、腕を握る俺の手をじっと睨んでいる。
ああ、俺はなんて卑怯なんだろう。これでは、彼女は文字を打って反論することもできないじゃないか。でもこのまま彼女を帰せば、優しい彼女のことだから、きっともうカフェには来てくれなくなるだろう。卑怯なやりかただとわかりながら、彼女の折れそうに細い腕を離さなかった。彼女の眉はぐっと寄り、目の周りはみるみるうちに赤く染まっていく。きっと俺も同じ顔をしている。
「朝子さんのこと、同情とかじゃないんです。朝子さんが誰よりも優しい人だって、俺は知ってますから。今日誰よりも早く迷子に気づいたのだって、朝子さんが周りの人に
気を配ってるからでしょう?」
彼女はイヤイヤと、俺の腕を振り払おうとする。拒否されたことがショックで、俺は素直に彼女の腕を離した。見つめあう時間はとても長く感じた。朝子さんに怖い思いをさせたのではないかと、胸が痛くなった。朝子さんは息を荒くしながら文字を打ち続けている。
『私はそんな人間じゃないです。みんな結局離れていくんですから』
彼女はスマートフォンをバッグにしまった。もう自分が話すことはない、という意思表示だろうか。俺は拳をぎゅっと握りしめた。汗が滲んでいるのがわかる。
「いままで朝子さんがどれだけ傷ついてきたのかは知らない。でも、これからその傷を癒やすことはできる」
彼女は音も立てずに泣いていた。彼女の目は鋭く俺を射抜き、胸の前で両手を力強く動かし始めた。手話だが、今までの穏やかな彼女のかけらもなかった。コートの布ずれの音と、彼女がたまに手を打つ音だけが響く。彼女は増水した川が堰をきったように話し続けているが、まだ覚え始めて間もない俺には、何と言っているのかわからなかった。ただ彼女は絞り出すように本音を伝えてくれているだけなのに。わからない自分が情けなかった。
「何? 何て言ったの?」
俺は人差し指を左右に振って、手話で問うた。朝子さんははあはあと息を切らし、諦めの表情を浮かべた。その視線は、俺ではなく周囲に注がれていた。橋の上を行き交う人たちが、遠目で向かい合っている俺たちを見つめている。言葉を交わさない俺たちを興味本位で見る目だった。母親に連れられた小さな女の子は朝子さんを指差していた。朝子さんは『こういうことなんだよ』とでも言いたげだ。双眸からは涙が絶え間なくこぼれ落ち、頬や鼻が真っ赤になっている。悲しませているのは俺なのに、彼女のことが心配でならなかった。
「ごめんなさい。朝子さん、泣かないで……」
ジーンズのポケットから皺の残るハンカチを取り出して差し出したが、朝子さんは受け取らなかった。俺の目を見ることなく、涙を拭って去っていった。風が吹きすさぶ中、遠ざかっていく彼女のコートの裾がなびいているのをずっと見ていた。俺はしばらくそこから一歩も動けず、ただハンカチを強く握りしめていた。
*
「最近、“無口の姫君”来ないな。なんかあったのか?」
忙しい時間帯を過ぎ、バックヤードで休憩をしていると、ケイタ先輩が声をかけてきた。休憩室の中央にある机を挟んで座っていたケイタ先輩は漫画雑誌をめくりながらニヤニヤしている。カフェで朝子さんと話をすることが多かったので、バイト仲間には俺の気持ちがバレバレだったのだ。ケイタ先輩はときどき俺のことをからかいながらも、近くで見守ってくれていた一人だった。
「もしかしてフラれたのか?」
いつもどおりケイタ先輩は俺をからかったつもりだろう。心臓に蝋が塗られたように気持ちが重くなった。スマートフォンで興味のないニュース記事をあさりながら、なるべく暗くならないように返答する。
「実はそうなんすよ。いやあ、彼女ってなかなかできないもんですねー」
ケイタ先輩は「しまった」という表情を浮かべている。お調子者だけど、根は真面目な人だ。頭を掻いて俺にかける言葉を探しているケイタ先輩に、俺は努めて明るく続けた。
「まあ、難しかったんですかね」
「何が?」
「会話するにも、彼女は俺の唇を読まなきゃいけないし、文字は打たなきゃいけないし。彼女にストレスかけてただけっていうか……」
言葉を濁して話題を終わらせようとするが、ケイタ先輩は俺をまっすぐに見つめてくる。眉根が寄って、ちょっとイラついているようにも見える。
「おまえ、頑張ってただろ。手話の本読んだりしてたじゃんか。彼女に『迷惑です』って言われたのか?」
「いや……」
彼女の悲しそうな表情が思い出される。
あのとき、彼女は手話でなんと俺に言いたかったのだろう。もしかしたら、迷惑だとか、もう二度と関わらないでくれと言っていたのかもしれない。うつむいて、自分の手のひらを見た。この手が、軽やかに彼女にも聞こえる音を紡げたらいいのに。彼女の声を受け取ることも、彼女を振り向かせることも、できない自分が情けなかった。
「彼女に手話でいろいろ言われたんですよ。でも、俺はそれがわからなくて……」
「わからないなら、ちゃんと聞け」
机にのりだして、ケイタ先輩は俺の言葉を制した。いつものムードメーカー的な先輩とは違って、厳しい表情をしている。俺は圧されて、そのまま口をつぐんだ。ケイタ先輩が俺のことを真剣に心配してくれていることが伝わってきたからだ。
「彼女が言ったことがわからなかったんだったら、もう一回ちゃんと聞いてこいよ。彼女がせっかく自分の言葉で伝えてくれたのに、わからないままにしてたらそこで終わりだろ? 彼女が何か不安に感じてるんだったら、それを感じさせないくらいおまえの気持ちを伝えろよ。唇でも手話でも文字でも、行動でも。会話がストレスなんだって言われたら、手話覚えてから会いに行け。それだけだろ」
それだけ。ちゃんと相手の気持ちをくみとって、自分の気持ちを伝えるだけ。
「耳が聞こえる彼女の話ですら、意味が一ミリもわからないときだってあるぞ」とケイタ先輩は付け加えた。俺は先輩らしい励まし方に、ふ、と笑ってしまった。ケイタ先輩も声を出して笑ってから、また落ち着いたトーンに戻る。
「人と人なんだから、やることは変わんねえよ。手段がなんであれ」
ケイタ先輩のその言葉に、俺は自分の気持ちに納得がいった。俺は勝手に、彼女との間にガラスの壁があって、彼女の本当の声を聞くことはできないと思い込んでしまっていた。手を伸ばせば、そこに朝子さんはいるのに。ガラスなど、壊そうと思えば壊せるのに。俺も朝子さんも、ガラスを割るときに手が傷つくのが怖かっただけなのだ、きっと。
「なんだかわかった気がします」
「考えて慎重になりすぎんだよ、いつもおまえは」
「ケイタ先輩みたいに勢いだけで生きてないですから」
俺の冗談に、ケイタ先輩は「言ったな?」と笑った。俺は照れくさかったけど、小さな声で「あざっす」と御礼を言った。
もう一度、朝子さんと向き合おう。朝子さんの気持ちを、しっかり受け止めよう。そう決意してから、俺はまたバイトに戻った。
(続)
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