第9話

 私はあれから9回目の夏を迎えようとしていた。八月の誕生日を前にしてももう、鬱にはならないし、過呼吸も起こさないようになった。薬のおかげでもカウンセリングの森先生のおかげでもない。お世話になったこと自体にはとても感謝していることに間違いはない。ただ、時間が必要だったみたいだ、というか、今も庸二さんは自分の中のどこかにいて、一部になってしまったかもしれない。



 

 私は今月末に母になる、夏に生まれてくる子供は男の子だとわかっていた。

旅行代理店に勤めている間に、小さい旅行会社を経営する男性と知り合った。平安神宮の周りなどで人力車の車引をしている桂木達也という人は、私の心のひび割れを長い時間かけて埋めてくれた。

 私はもう誰も愛さない、喪失の苦しさと悲しさを嫌というほどに刻んだ心には誰かを愛することなどできないと思っていた。なのに、どうした? 私。

 何度も自分の中の庸二さんに問いかけた。あなた以外の男性のことを愛せるの? 誰かを好きになってもいいのかな? 誰か、あなた以外の人に抱かれてもあなたは私を許せるの? 

 私だけが幸せになっても庸二さんは怒らない? あんなに血を吐くほどの苦しみと慟哭の末、ここにいることさえおかしいと思えるのに。

 庸二さんを心に宿したままの私が好きだという人。変な人だとあなたは笑うでしょうね。ごめんなさい。でも、達也という人に惹かれてしまったの。


 黒い日焼けした顔と体で、真っ白い歯を見せて笑う人。

 漫画のような底抜けに明るいところは庸二さんにはない、どちらかというと正反対の性格だった。すぐにデートに誘うような軽はずみなところがあったが、それは嫌だと嫌悪感を抱く感じではなかった。冗談めかしていたが馬鹿にされている気持ちにはならなかった。


 私は何度も何度も、ずっと断り続けた。いい加減にうるさいので会社を辞めようと思ったほどだった。それを桂木さんに言うと、じゃあ、僕が来るのをやめますと言ってほかの人が来るようになり遠ざけることに成功した。

 ある意味誠実な桂木さんは私のことを好きになるのは早くて諦めるのも早いなと思っていた。一年間も断り続けていたら、誰でも嫌になるだろう。

 交際を鴨川のそばの橋を歩いている時に突然桂木さんに申し込まれて、私は途方に暮れた。断り方、簡単にごめんなさいですむこと。だけど、仕事の関係上そんな簡単に終わらせることはできないと私は思った。

 近くにあるベンチに座り、私は十九歳の夏の出来事を簡単に彼に話した。この話は親にもしたことはない。桂木さんに言う必要もなさそうにも思える。だが言いたかった。

「もう、誰も失いたくないから。だから死ぬまで誰も愛さないし、愛なんて」

 私が言い放った時に、桂木さんは大きくため息をついた。

「わからないね、俺にはそんな経験ないから。だけど戦争で婚約者や夫を失った人がみんなこんな気持ちだったはずだろ。でも、今、俺たちがここにいるのは、そんな思いを乗り越えてきた人たちが愛を繋いだからじゃないの?」

 私がはっとしたときに、桂木さんは言った。

「一目惚れなんだ、カンナさんの儚い感じにふっと引き込まれた。俺しかだめなんじゃないかと勝手に思った。いつまでも待ってる」

「ごめんなさい、誰も好きになれない……」

「相手があちらの人じゃ、勝ち目ないな」

 鴨川のベンチの柳はさらさらと音をたてはじめた。風が出て少し寒い。

 どちらが言うともなく立ち上がり、手を軽く上げる桂木さんを私は見送った。


 

 桂木さんが私の周りからいなくなって三ヶ月ほど経過したときに、私は仕事でたまたま神宮道の歩道を歩いていた。

「岬さん、カンナさーん」

 通りの向こうで手を振る車引の男性がいた。

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