魔女が選んだ未来

 ――ここは、夢の中。

 暗闇に向かって、アリスは呟いた。

 ――私は、眠っているんだ。

 精一杯手を伸ばしたけれど、その手はもう、王子には届かなかった。

「王子――!」

 声を限りに叫んだけれど、その声はもう、王子には届かなかった。

 ――私は王子の世界から切り離されたんだ。悲しいけど、私が自分で選んだこと。王子に生きていて欲しかったから。幸せになって欲しかったから……。

 相変わらず、周囲は闇に包まれていた。静かだ。誰もいない。

 ――誰も?

 アリスは顔を上げ、目を凝らした。

「フィドルさん、そこにいるんですよね」

「いますよ」と、闇の中から声が返った。

「顔を見せて下さい。ここは暗くて、話しにくいです」

 数秒間が空いた。

「……どこで話しますか?」

「どこって……」

 少し考えて、アリスは答えた。

「私が王子と初めて会った場所」

 また間が空き、それから徐々に周りが明るくなった。アリスは木々に囲まれた湖のほとりに立っていた。頭上に丸い月が掛かり、水の面に銀色の光を投げている。

 アリスは眩しさに目を細めた。

「ここは……フィドルさんとマルガリータ姫が出会った場所ですよね」

「どうしてそれを知っているんですか?」

 フィドルの声が後ろから聞こえた。振り返ると、彼は森の奥からこちらに歩いて来るところだった。

「……フィドルさんが見せてくれたんでしょう? この――夢の中で」

「ええ、でも……あなたは覚えていないかと思いました」

 フィドルの微笑みは前と変わらなかったが、どこか疲れた様子に見えた。

「フィドルさんはどうして、私を助けてくれるんですか? フィドルさんは……どうして、ここにいるんですか?」

「私はここにいるけれど、ここにはいない。ここは夢の中だから」

「フィドルさんも、眠っているんですか? フィドルさんに掛けられている呪いというのは……」

「私は自分の意思でここにいる。呪いはまた別のものです」

 アリスはフィドルに近付き、彼を正面から見つめた。

「あなたは……」

「私は……」

 フィドルもアリスを見つめた。風が二人の間を通り抜けて行く。やがて、フィドルが先に目を逸らした。

「……私のことはいいんです。まずはあなたのことを考えましょう」

「私の?」

「あなたは自分がなぜここにいるのかわからないと言った」

「今ならわかります」

 ――私はベッドの上の鏡の欠片を掴んで、自分の胸を刺したんだ。

「探しているものがあるのに、何なのか思い出せないと」

「それも思い出しました」

 ――私は王子を探していたんだ。なくしてしまった王子の記憶を。

「フィドルさんがヒントをくれたからです」

 バイオリンを弾いていたのも、五頭のお供を連れていたのも、役に立たない部屋に役に立たない物が仕舞ってあったのも、みんな私にヒントを与えるため。

「フィドルさんが色々見せてくれたおかげで、私はこの指輪のことを思い出した」

 アリスは指輪のはまった指を手のひらで包み、胸に抱き締めた。

 ――これは、『呪いをはじくお守り』だから。

「舞踏会で王子にもらった時も、急に記憶が流れ込んで来たんです」

 この世界に来る前、王子がいなくなる前の、王子と過ごした日々の記憶。

 フィドルが軽く首を傾げて笑った。

「形に過ぎない指輪ですけどね」

 ――そう……ここは夢の中。実際の私は、指輪をはめていないはず。

「あなたがここにあると信じれば、呪いをはじき返せると信じれば、効き目はある」

 フィドルは湖の縁まで歩いて行き、月を仰いだ。

「でも、そもそも私はどうして記憶をなくしてしまったんでしょうか」

 アリスはフィドルの背中に尋ねた。

「魔女の仕業でないなら、一体誰が……」

「三つ目の願い事ですよ」

「え?」

「王子はあなたに言った」

『俺がいなくなったら、俺のことは忘れろ』

「本人は意図していなかったかもしれないけれど、その願いは聞き届けられた」

 王子の、三つの願い。一つ目は弟の命を助け、二つ目はこの国に戻ることを願い、三つ目は――あなたの記憶から自分を消した。

「もし願い事が残っていたら、王子はあなたが目覚めることを願ったでしょう。けれど、王子は三つ目の願い事を使ってしまった。もう、どんなに願っても、あなたを目覚めさせることは出来ない」

「それで良かったんですよ」

 アリスは俯いた。

「これでいいんです」

 ――私が目を覚ませば、王子は死んでしまう――鏡の欠片に心臓を貫かれて。

「私が眠っている限り、王子は死なない。そのうち新しい花嫁を見つけて、末永く幸福に暮らすはずです」

「あなたはどうなるんですか?」

「私にも、百年経てば運命の相手が現れます。私はその人によって眠りを覚まされ、その人と結婚して……末永く……」

 最後は涙声になっていた。

 アリスは両手で顔を覆った。それでいいのだと思おうとした。それでいいんだ。それで……。

「本当に、それでいいんですか?」

 アリスの本心を見透かしたように、フィドルが尋ねる。彼はいつの間にかまたアリスの正面に立っていた。

「他にどうしようもありません」

「王子は諦めないと言った」

「それは……」

「たとえ愛する姫が眠ってしまっても、諦めたりしない。自分のそばに置いて、自分の手で姫を守ると」

『諦めないよ。きっと方法はある。俺は自分が犠牲になってもいいなんて思ってない』

 そうだ。王子はそう言った。

『俺が選ぶ未来は一つきりだ。俺とお前の未来だ』

 王子はそう言ったんだ。

 突然、胸が締め付けられるように苦しくなった。――あれからどれくらい経ったんだろう。私はどれくらい眠っているんだろう。王子は……。

「王子はまだ、私が目覚めるのを待っているでしょうか」

「戻ってみればわかります」

「戻りたいです」

 アリスは心の底から言った。

 湖の面にさざ波が立った。穏やかな風が木々を揺らす。

「でも……戻り方がわかりません」

「あなたは知っているはずですよ」

 フィドルはいたずらっぽく笑った。

「あなたはそれを身に着けている」

「それ?」

 頷いたフィドルの目は、アリスの足下に向けられていた。

 アリスも下を見た。彼女が履いていたのは銀の靴だった。舞踏会でスワン王子と踊った時の靴だ。

『銀の靴のかかとを三回打ち合わせると、何が起こるか知っているか?』

 頭の中に蘇る王子の声。続いて、フィドルの優しい声が囁く。

「お別れですね」

 アリスはフィドルを見上げた。

「私は私の場所に戻ります」

「フィドルさんの場所?」

「ええ。少し遡らないと」

「フィドルさん、フィドルさんも私と一緒に……」

「それは出来ないと前に言った」

 フィドルの青い瞳に迷いはなかった。

「私は、自分の意思でここにいるんです」

「フィドルさん……」

 アリスはまっすぐにフィドルを見つめた。

「最後に聞いてもいいですか」

「答えられる質問なら」

「魔女が『トロイメンの国の物語』を書いたのはなぜなんですか?」

 単刀直入な質問だった。フィドルはきっと答えられないと言うだろう。それでも、アリスは待った。そして――彼は、その質問に答えた。

「魔女が本を書いたのは、決して復讐のためではありませんよ」

「え……」

「乳母や婚約者に騙されていたことを知った時、魔女が感じたのは怒りではなく、悲しみでした。自分を愛してくれる人が誰もいないことを……兄がもうこの世にはいないことを、婚約者が自分との結婚を嫌って逃げたことを、そして、愛してくれていると信じていた妻までが、自分に嘘をついていたということを知った悲しみ。……魔女はただ、愛されたかったんです。だから呪いを掛け、本を書いた――過去を変えるために」

 けれど、過去は変わらなかった。兄も姫も、二度と戻ることはなかった。本に掛けた魔法は過去ではなく、未来に影響を与えた。何十年も先の未来に。魔女は自分のしたことを忘れてしまっていたけれど、川で溺れたことがきっかけで、前世の記憶を取り戻した。そして、本に書いた物語が現実になっていることを知った。

「魔女は、後悔していたんですよ、ずっと。ずっと、自分の罪を償う方法を探していた。そして……」

 フィドルは口を閉ざした。続きはもう語らなかった。

「フィドルさん。あなたは、クリスタロス王子の……」

 その問いは最後まで口にすることが出来なかった。答えられない質問だとわかっていたからだ。フィドルは答えなかった。いつものように、ただ微笑み、アリスの背中を押した。

「さあ、行って下さい。あなたの王子が待っています」

「……ありがとう、フィドルさん」

 アリスはフィドルから離れ、靴のかかとを打ち合わせた。

 ――トン。

 フィドルの笑顔が遠ざかる――。

 ――トン。

 周囲の景色がぼやけて行く――。

 ――トン。

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