願いの代償

 ――鏡の中に、鏡があった。

 鏡の中の鏡には、小さな部屋の風景が映っていた。テーブルの上のランプが、部屋の中をほんのりと照らしている。ベッドに本棚。そして、暗がりに佇む人影が一つ。黒いマントが体を覆い、フードに隠れて顔は見えない。――魔女だ、とアリスは思った。

 魔女はゆっくりと近付いて来て、鏡の前に立った。

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」

「それはあなたです」

 鏡の中から答えが返る。

「本当に?」

 魔女が両手を伸ばし、鏡の縁を掴んだ。

「お前は私に、嘘をつかないと誓った。お前は嘘をつけない。本当のことを言え。この世界で、お前の世界で、一番美しいのは誰だ?」

 鏡は長いこと答えなかった。沈黙が続く。魔女は鏡を見つめ、鏡は魔女を見つめる。

「この国では、あなたが一番美しい」

 苦しげに鏡は言った。

「けれど、南の国の姫は、あなたの千倍美しい」

「そうか」

 魔女は鏡から顔を背けた。

「鏡よ、お前は私より、その姫の方が美しいと言うのか。お前は私より、その姫を選ぶのか」

「私は……」

 鏡の声は途中で掻き消された。魔女が鏡を持ち上げ、床に向かって思い切り投げ付けたのだ。ガチャンと音を立てて破片が飛び散る。跳ね返った鏡は再び床に落ち、人の姿になって割れた破片の中に倒れた。それはまだ幼い少年だった。

 少年は魔女を見上げた。うつ伏せになっていた体を起こすと、金の髪が顔に掛かった。白い衣装の胸や足が赤く染まっている。

 魔女は少年に自分の指先を向けた。少年の胸に刺さっていた鏡の欠片が光を放ち、そのまま体の中に吸い込まれるように消えた。

「その胸に刺さった鏡の欠片は、次第に奥へと入り込み、いつかお前の心臓を貫くだろう」

 少年の顔が青ざめた。

「……何を言ってるんだ……?」

「これは呪いだ。お前は鏡の欠片に心臓を貫かれて死ぬ。助かるためには、愛する人を犠牲にしなければならない。鏡の欠片で南の国の姫を刺すのだ。そうすれば、姫が代わりに呪いを受ける。百年の間眠り続ける呪いだ」

「本気なのか?」

「本気だ。お前は私を裏切った。私のことが一番大切だと言ったのに、ずっと一緒にいると誓ったのに、お前は別の人間に心を奪われた」

 少年はよろよろと立ち上がり、魔女に一歩近付いた。魔女は構わず続けた。

「この呪いを解くことは決して出来ない。姫を犠牲にしなければ、お前は助からない。お前と姫が二人で幸せに暮らす未来はないのだ」

 少年が何か言ったが、口の動きが見えただけで、声は聞き取れなかった。少年と魔女の姿が遠ざかり、ふっと消えた。次の瞬間、鏡の欠片はアリスの顔を映していた。

 ――今のは……今、見たものは……。

 アリスは鏡から離れた。最後に映った少年の顔が脳裏に焼き付いている。魔女を見上げた血まみれの少年の、悲しげな眼差し。金の髪に青い瞳。鏡と呼ばれていた、あの少年は……あれは、まさか……。

「昔、トロイメンの国に、一人の魔女が住んでいた。魔女は不思議な鏡を持っていた」

 鏡の中からまた魔女の声が聞こえて来た。

「閉じ込められた生活は退屈だったから、二人はいつも童話の真似をして遊んでいたのだ。片方は魔女に化け、もう片方には鏡の役をさせて……」

 冷たく、淡々と魔女は語った。

「魔女は鏡に『あなたが一番だ』と言われることが嬉しかった。自分にとって鏡が一番大切だったように、鏡も自分を一番に考えてくれると信じていた。それがずっと、永遠に続くのだと。だが鏡は南の国の姫と出会い、彼女を愛し、彼女を一番美しいと思うようになった。魔女は鏡の裏切りを許さなかった」

「だから魔女は、鏡に呪いを掛けたの? 罰を与えるために?」

 アリスは両手を握り締めた。冷静でいようと思うのに、体の震えが止まらない。

「それなら、城に飛んで来たカラスの言葉は?」

『私は呪いを掛けた。十六歳の誕生日、王子の婚約者は鏡の欠片に刺され、百年の眠りに落ちるだろう』

「カラスは嘘を言ったんですか?」

「嘘ではないよ」

「でも、呪いを掛けられたのは王子の婚約者じゃなくて、王子の方なんでしょう?」

「王子が助かるために婚約者を刺すから、結果的に王子の婚約者が百年眠ることになる呪いだ」

「そんな……」

「だが王子は、自分が犠牲になる未来を選んだ」

 そんな……。

「他に方法はないんですか?」

「ない」

 容赦なく魔女は言った。

「魔女の掛けた呪いは、王子と王子の愛する人を引き裂くためのものだった。王子の婚約者が呪いを受けない限り、王子に掛けられた呪いは消えない。いつか王子は鏡の欠片に心臓を貫かれて死ぬだろう。王子が呪いから解放される方法はただ一つ、この鏡の欠片で愛する人を刺すことだ。これで愛する人を刺せば、相手が身代わりとなり、百年眠ることになる。相手が眠っている間は、鏡の欠片が王子を殺すことはない。だが王子はそれを望まなかった。王子を助けるためには、お前が自分で自分に鏡の欠片を刺すしかない」

 アリスは目を固く瞑った。

 ――王子を助けたい。王子は私を拾って、育ててくれた。その恩を返したい。

「でも……」

 ――やっぱり、嫌だ。

「私……眠りたくないです」

 王子に会えなくなるなんて――ひとりぼっちで眠り続けて、百年後に王子のいない世界で目覚めるなんて。いっそ泡になって消えた方がまだましだ。

「これで王子の心臓を刺せば、お前は助かるよ」

 鏡から聞こえる声が低くなった。

「王子の胸に刺さった破片が心臓に達するのを待つ必要はない。今すぐ王子を刺せば、お前は助かる。いつ王子が自分を裏切るか、いつ王子に刺されるか、びくびくしながら過ごすこともない」

「王子は私を刺したりしません」

「それなら、王子が死ぬのを待つか。たとえ短い間でも、二人で一緒に生きたいと言うなら――今にも死ぬかもしれない王子と、いつ壊れるかわからない幸せな時を過ごせばいい」

「そんな未来は選びません」

 愛する人を犠牲にして助かることなど、アリスにはとても考えられなかった。

「そんな未来、私は選ばない」

 手を伸ばし、ベッドの上の鏡の欠片を掴む。

「私が選ぶ未来は……」

 目を閉じると、王子の笑顔がまぶたの裏に浮かんだ。

 ――王子。約束、守れなくてごめんね。

 アリスは鏡の欠片で自ら胸を刺し、床に倒れた。

「――魔女!」

 王子が駆け付けた時、アリスは眠っていた――深く、深く。何度も名前を呼んで揺さぶったが、アリスは目を開けなかった。

「魔女!」

 アリスの手の中にあった鏡の欠片が床に落ち、カチャンと音を立てて割れた。



 鏡の中の鏡が音を立てて割れると、アリスが覗いていた鏡も音を立てて割れた。そして、鏡の中のアリスと同化していた意識もこちら側に戻って来た。同時に周りにあった全ての鏡が一斉に砕け、粉々になって、こちら側にいるアリスの上に降り注いだ。

 ――雪みたい。

 アリスはその光景をぼんやりと眺めた。

 ――ううん。これはアリスの涙だ。

 鏡の欠片ははらはらと、止めどなく落ちて来る。そして、アリスの涙も……。

「……フィドルさん」

 アリスは闇に向かって呼び掛けた。

「私、ここがどこなのか、やっとわかりました」

 あの時ドアを抜けて、外に出られたと思っていたけれど、そうではなかったのだ。

「ここは――夢の中なんですね」

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