凍った心
三日目の夜は、一日目とも二日目とも違っていた。
カボチャの馬車も、ネズミの御者も、トカゲの従者もなく、マルガリータは一人、暗い森の道を歩いていた。――城の舞踏会へ行くつもりはなかった。ガラスの靴を持たない灰かぶりは、王子様の花嫁にはなれない。そんなことはどうでも良かった。彼女の望みはただ、もう一度、あのバイオリンの音色を聞くことだった。
――もう一度、私を導いて……。
バイオリンの音色は聞こえなかった。何も聞こえない。何もない。あるのは暗闇と静寂と、孤独だけ。マルガリータは足を止め、その場にへたり込んだ。
「だめ。もう、歩けない……」
ああ、自分が無責任で弱虫な、小さい女の子だったら、大声で泣いてやるのに。泣いて暴れて、全てを投げ出してやるのに。
もちろん、そんなことは出来ないとわかっていた。決めたのだ。呪いを受け入れると――そして、どうせ呪いを受けるなら、その前に自分の役目を果たそうと。
「最後にフィドルさんに会いたかった。でも、もう……」
地面に手を突いて立ち上がろうとした時、微かににゃあと声が聞こえた。猫の声……あの茶色の子だ、とすぐにわかった。助けを求める鳴き方だということも。顔を上げると、こちらに駆けて来る小さな影が見えた。
茶色の猫はマルガリータを見て、再びにゃあと鳴いた。そしてそのまま方向転換し、来た道を引き返して行った。
マルガリータには、フィドルのように猫の言葉がわかったわけではなかった。けれど、気持ちは伝わった。――私を呼びに来たんだ。フィドルさんに、何かあったんだ。
マルガリータはよろよろと身を起こし、猫のあとを追った。
猫は時々振り返ってマルガリータの姿を確かめながら、深い森の奥へとどんどん進んだ。見失わないように付いて行くのは大変だった。マルガリータはドレスが破れるのも構わずに、枝の間を通り抜けた。やがて、湖と、そのほとりに横たわる人の姿が見えた。
「フィドルさん!」
マルガリータは名前を呼んで駆け寄った。
フィドルは目を閉じていた。息はしていたが、ひどく苦しそうだ。白い猫が精一杯毛を逆立てて、彼の右腕にぴったりと張り付いている。
――守ろうとしているのね……。フィドルさんが連れて行かれないように。
マルガリータは白い猫の隣に膝を突いた。茶色の猫は反対側から、フィドルの左腕に寄り添う。
月の光は弱かった。識別出来るのは色の濃淡だけで、フィドルの着ている白っぽい服が、所々黒く染まって見えた。そして、見ている間にも、黒い染みはどんどん広がって行くのだった。
「そんな……」
マルガリータは両手で口を覆った。どうして、どうしてこんなことに……?
気配を感じたのか、フィドルが僅かに身じろぎした。
「う……」
「動いちゃだめです!」
マルガリータは慌てて止めたが、フィドルに触る勇気はなかった。
「じっとしていて下さい。今……今、お医者様を呼んで来ますから……」
「いいんです」
喘ぎながらも、しっかりした口調でフィドルは言った。
「このままでいい。これでいいんです」
「だめです……」
「私の力は、この国に……周りの人たちに、不幸をもたらす。だから、私はこのまま、消えた方がいい」
マルガリータは堪え切れずに泣き出した。
――だめよ。だめ。フィドルさんが消えるなんて、絶対にだめ。
「消えないで下さい。消えないで……」
フィドルが目を開け、微笑んだ。
「パール」
彼の口から出たその呼び名は、マルガリータの胸に心地よく響いた。違う名前で呼ばれるよりずっと嬉しかった。彼だけが呼ぶ、彼女だけの名前。
「泣かないで」
フィドルは唇を震わせ、かすれる声を懸命に絞り出した。
「これは、罰なんです。私はあなたの王子じゃない。私は……双子なんですよ」
マルガリータははっとして顔を上げた。
「私の双子の片割れは、国を継ぐべき王子だった。けれど、私が犯した罪のために、彼は大切なものを失い、孤独になった。私が愛した人は、みんな不幸になる。私は人を愛してはいけないんだ」
「……私は?」
フィドルはマルガリータを見つめた。彼の瞳は、まだ力を失っていなかった。青く冷たい光が、マルガリータを貫く。
「私は、あなたを、愛してはいない。気持ちが動いたことなど一度もない。通りすがりに話をしただけの、名前も知らない赤の他人だ」
マルガリータは声が出せず、ただ首を振った。
「あなたには、王子がいる……あなたの王子が。私が消えれば、王子は本当の自分を取り戻し、あなたと結婚するだろう。あなたは……南の国の姫なのだから」
マルガリータはひたすら首を振った。涙が頬を伝い、真珠のようにきらめきながら落ちて行く。
「違うんです。私は姫なんかじゃなくて……ただ、身代わりを頼まれただけなんです。私は……本当は……」
陰になったフィドルの顔が、僅かに歪んだ。
「……最初に、それを言って欲しかったな」
彼は息を吐き出した。
「運命には、逆らえないのか……」
「……フィドルさん?」
「……」
「フィドルさん、苦しいの? 待ってて、今助けを呼んで来ますから。待ってて下さいね」
フィドルはマルガリータを見ていた。立ち上がり、背を向けて駆け出して行く金の髪の少女を。そして、囁くように、そっと言った。
「許して下さい」
月が一瞬、強く輝き、小さな後ろ姿をくっきりと浮かび上がらせた。
「私は、大切な人には生きていて欲しいんです。生きていてくれればそれでいい。生きてさえいれば、失ったものも、いつか取り戻せるはずだから」
少女が視界から消え、フィドルは目を閉じた。
「だから……私は……」
強い風が吹き、雲が月を覆い隠した。二匹の猫が警戒して低く唸ったが、無駄だった。再び月が湖畔を照らした時、そこにフィドルの姿はなかった。代わりに小さな鏡の欠片が、ぽつんと取り残されていた。
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