ナイフが錆びる時

 マルガリータは疲れていた。そして、虚ろだった。

 正面にはナイトがいる。けれど、ここは舞踏会へ向かう馬車の中ではなく、トロイメンの城の一室だった。マルガリータが座っているのは馬車の座席ではなく、立派なビロードの椅子だった。

「今夜も舞踏会があるのね」

 物憂げにマルガリータは呟いた。

「ついこの間、三日続けて開かれたばかりなのに」

「今度も三日続けて開かれるようですよ」

 ナイトが慇懃に答える。

「そう……」

 マルガリータは椅子の上で身をよじり、姿勢を変えた。ナイトの顔を見たくなかったし、自分の顔を見られるのも嫌だった。

「本当なの? 王子様が私を結婚相手に選んだって」

「本当ですよ」とナイト。

「この間はあんなに冷たく追い払ったのに、どういう風の吹き回し?」

「あなたは王子の探していた鍵を拾った。王子の妻になる権利があると、王様がそう判断なさったようです」

「あなたが王様にその話をしたのね」

「門番に言って、それとなく王様に伝えてもらいました。王様は王子を問い詰め、自分のしたことに責任を取れと言われたとか」

「それで渋々というわけね」

「それだけではないでしょう。他の娘の時のように、間違いだと言い張ることも出来たのですから。あなたを気に入った、ということですよ」

「そうかしら」

 マルガリータは投げやりに笑った。

「それ、いつのこと?」

「前回の、最後の夜の舞踏会が始まる少し前です。本当ならその舞踏会で婚約が発表されるはずだったんですが、あなたは来ませんでしたからね」

 ナイトは皮肉たっぷりに付け加えた。

「あなたこそ、あれほど嫌がって逃げ出したのに、どういう心境の変化ですか?」

「運命には逆らえないと思っただけよ」

 顔を背けたまま、マルガリータは答えた。

「まあ、あなたがそう決めたのなら」

 ナイトは意味ありげに微笑んだ。

「いいんですよ。あなたの気持ちが一番大事です」

 ――ナイトはきっと、私の本心を見抜いている。でも、構わない。彼に私を止める権利はないわ。

「それで、王子様にはいつ会えるの?」

「今は所用で出掛けておいでですので、戻り次第お会いになれますよ」

「そう」

「ああ、そうだ」

 ナイトは胸のポケットから、何か布に包んだ物を取り出した。

「忘れるところでした。これを」

「それは何?」

「王子があなたに渡すようにと」

 包みをほどいてみると、それはあの金の鍵だった。

「ついでに伝言を預かっています」

「どんな伝言?」

「城の中のどの部屋を見てもいいが、この鍵が合う部屋だけは決して開けてはならない、とのことです」

「……私、王子様が何を考えているのかまるでわからないわ」

「わからないのなら、わかろうとするべきではないですか?」

 マルガリータには返す言葉がなかった。



 夜中の零時を回ってからマルガリータはベッドに入ったが、眠ることは出来なかった。疲れているのに、感情が高ぶってもいた。明け方近くなるともう眠るのは諦め、決心して体を起こし、枕元に置いた金の鍵を手に取った。

 廊下は暗かった。窓からの微かな月明かりが足下を照らしている。階段を降り、庭園に出て、マルガリータは塔に向かった。

 塔の中も、やはり暗かった。それでも迷うことなく、地下の扉を開けて階段を降りた。手探りで小さなドアの位置を確認し、鍵穴に鍵を差し込む。

 予想した通り、その部屋の中も暗かった。が――。

「そこで何をしている?」

 マルガリータはぱっと顔を上げた。部屋の中が急に明るくなる。

 枕元のランプの明かりが、ベッドに身を起こした金の髪の若者を照らし出した。

 誰もいないと思っていたので、マルガリータは動揺してしまった。そのまま踵を返そうかと、数歩後ずさる。視線は目の前にいる若者から外すことが出来なかった。

「フィドルさん……」

 無意識に、口から言葉がこぼれ出た。

 ――いいえ、この人はフィドルさんじゃない。この人はこの国の王子よ。フィドルさんじゃない。そうよ。二人は別人だったのよ。

「お前は誰だ?」

 王子は目を細めてマルガリータを見た。

「もしや……」

「私はあなたの婚約者です」

「なぜここにいる? 伝言を聞かなかったのか?」

 マルガリータはどうにか気持ちを落ち着け、冷静に答えようとした。

「伝言は聞きました。王子様が何を考えているのかさっぱりわからなかった。だから、わかろうとしてみたんです」

「それで?」

「開けるなと言いながらわざわざ鍵を渡したのは、本当は開けて欲しいからなんじゃないかと」

「……なるほど」

 王子は下を向いて微かに笑った。マルガリータは少し驚いた。その笑い方が、これまでの彼とどこか違って見えたからだ。

「あなたこそ、どうしてこんなところにいるんですか?」

 戸惑いを隠してマルガリータは聞いた。

 相手も笑みを消し、堅い表情になった。

「ここは私の部屋だ。自分の部屋にいて何が悪い?」

「ここがあなたの部屋?」

 マルガリータは部屋の中を見回した。

「前に来た時は兄の部屋だとおっしゃいました」

 ――あの時は、私を追い払うためにああ言ったのね。自分の部屋の鍵を拾った娘と結婚しなければならなかったから。……結局、そうせざるを得なくなったわけだけど。

「ここは二人の部屋だ。私たち兄弟、どちらの部屋でもある」

 ――またうまくごまかすつもりなのね。

 マルガリータは精一杯冷ややかに聞こえるように声を作った。

「王子様ともあろう人の部屋が、どうしてこんなところに?」

「……どちらが魔法を使うかわからなかったから、父は両方を閉じ込めるしかなかったんだ」

 王子の口調が変化した。勿体振った、まるでマルガリータを試すような話し方だ。

「私は――私たちはちゃんと知っていた。どちらが魔法を使うか」

 マルガリータは敢えて表情を動かさなかった。

「この国の王子は一人だと見せ掛けるために、私たちは順番に外に出された。二人一緒に出ることは出来なかった。だから、私たちが二人一緒にいられる場所は、この部屋しかなかった」

 ランプの灯が揺らめき、王子の顔に怪しい模様を作っている。

「二人だけの時、私たちは色々な遊びをした。あいつの魔法のおかげで、退屈することはなかった。あいつは私にも、いくつか魔法を掛けてくれた。三つの願い事が叶う魔法とか」

「三つの願い事?」

「私が今ここにいられるのは、その魔法のおかげだ。――だが、あいつは今ここにいない」

 王子は壁の肖像画を見上げた。二人の兄弟の肖像画。国を継ぐ王子と、その犠牲になって消えた片割れの……。

「あいつは今、どこにいるのだろう」

「知りたいんですか?」

「ああ」

「知ってどうなさるんですか?」

 王子はマルガリータに視線を移した。

「兄弟の消息を知りたいと思うのは、自然なことだろう?」

 彼は言葉を継ごうとしたが、その言葉を掻き消すように、ドアを叩く音が響いた。続いて押し殺した囁き声。

「王子! 王子、何かありましたか」

 王子はベッドのカーテンを引き、マルガリータをその陰に隠した。

「何もない」

「本当ですか?」

 王子の返答に、ドアの向こうの声は納得していないようだった。

「誰か怪しい者が来ませんでしたか?」

「いや、誰も」

「しかし……」

「何もないと言っている。下がれ」

 王子は重々しく言い放ったが、それに答えた声は、彼よりも更に厳しく高圧的な声だった。

「王子、ここを開けよ」

 さっきまでの兵士らしい声とは明らかに違う。王子の顔に緊張が走った。

「開けよと申しておる」

 その気になれば向こうにも開けられるはずだ、とマルガリータは思った。彼女がさっき鍵を開けたのだから。しかし相手はそれを知らないし、王子は教えようとしなかった。

「王子。開けよ」

 三度目の命令で、ようやく王子はベッドから降りた。テーブルを避けながら部屋を横切ってドアの前まで行き、僅かのためらいののち、ノブを回す。

「父上、このような汚れた地下の部屋に、一体何のご用ですか?」

「そなたこそ、いつまでこのような場所に出入りしておる。いい加減立場をわきまえよ」

 マルガリータはカーテンの陰に隠れたまま、二人のやり取りを聞いていた。出て行って王子を困らせてやりたい気もしたが、実際にそうする度胸は到底なかった。

「わきまえておりますよ。でなければこんな城、とっくの昔に飛び出しています」

 王子には全く悪びれる様子がなかった。懸命に平静を装っているのかもしれないが……。

 王は答えず、父と息子は互いに押し黙った。重苦しい沈黙が地下の部屋を支配する。

「……今夜の舞踏会には必ず顔を出せ。良いな」

 最後にそれだけ言い、王は退いた。

 王子はドアを閉めたあともしばらくその場に立って外の様子を窺っていた。足音が遠ざかり、再び静寂が戻る。どうやら兵士も父親も去ったようだ。

「これで当分邪魔は入らない」と王子は言った。

 マルガリータはカーテンの陰から出て、王子に近付いた。

「今のが、あなたの父親……?」

「そう。この国の王だ」

「父親なのに、あなたのことを王子って呼ぶんですか?」

「父が私たち兄弟を名前で呼ぶことなど、ほとんどない。いつも二人まとめて王子と呼んでいた。上にいて、他の誰かが一緒の時は別だったが。そういう時はアズマラカイトと呼んだ。どうしても分けて呼ぶ必要がある時は、アズライトとマラカイト」

 王子はゆっくりと、足を引きずりながらベッドに戻った。

「怪我をなさってるんですか」

 マルガリータは思わず聞いた。

「いや、これは昔、鏡の……」

 口にし掛けた言葉を飲み込み、王子はベッドに腰を下ろした。また静かに話し出した時、彼の言葉の響きは全く違ったものになっていた。

「昔、私たち兄弟は同じ時に怪我をした。怪我が治ったあとも、相手が傷付いたり、危ない目に遭ったりすると、その時怪我した場所が痛むようになったんだ。だが、つらくはない。遠く離れていても、相手に何かあればすぐにわかるんだから」

 それは心に沁みるように優しく、悲しい声音だった。マルガリータはただ突っ立って聞いている自分に居心地の悪さを覚えた。王子はなぜこんな話をするのだろう。なぜ、今更――。

「別れたあとは常に鈍い痛みがあった。あいつはずっと苦しんでいたんだな。もうすっかり慣れてしまっていた」

 王子は微笑んでいたが、その顔には翳りが見えた。吸い込まれそうな青い瞳。あの人と同じ……。

「ところが、七日前に走った痛みはいつもと違った。あれほどの激痛は初めてだった。きっと、あいつに何か恐ろしいことが起こったのだとわかった」

 ――七日前。三日続いた舞踏会の、最後の日。マルガリータがフィドルと会った、最後の夜。

「話してくれ。お前はここに来たことがある。そして私を、フィドルと呼んだ。お前はあいつに会ったんだろう?」

 マルガリータにはやはり黙って立っていることしか出来なかった。

「知っていることを全部話してくれ。私は何も知らない。あいつがどうなったのか、どこにいるのか。探す手立てさえもない。話してくれ。ただ知りたいだけなんだ。もし、あいつを助けられるなら……」

「もう遅いわ」

「え?」

「もう遅いのよ。だって、フィドルさんは……あの人は消えてしまったんだもの」

 そう、あの日――三日目の、舞踏会の夜に。

「消えた? 死んだわけではないんだな?」

「わかりません」

「あいつはどこへ行ったんだ?」

「知りません。私が知りたいくらいです」

 ――フィドルさん、どこへ行ったの? あなたは死んでしまったの? ひとりぼっちで……。

 マルガリータは唇を噛んだ。

「今更、あなたに何が出来るって言うの? あの人は……あの人はあなたのために、犠牲になったのに」

 その瞬間、王子の表情が悲しげに歪んだ。マルガリータは見ない振りをし、部屋を突っ切ってドアを開けた。そのドアを、叩き付けるように閉める。

 ――辺りは真っ暗になった。

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