割れた鏡に映るのは
気が付くと、真っ暗な空間を漂っていた。波に揺られるように、ふわふわと――ふわふわと。
――真っ暗だ。何もない。
朦朧としていた意識が、だんだんはっきりして来る。
――何もない? ……ううん。何かある。
体のそばに、いくつかの光るものが見える。
――これは……鏡だ。
割れてバラバラになった鏡の欠片が、微かな光を放って浮かんでいる。首を巡らしてよく見ると、周り中、取り囲むようにそれはあった。
――私の顔が映っている。アリスの姿をしている私。
――私は、アリス?
手のひらを口に当てて考える。その指に、冷たい感触。
――ああ、これは王子にもらった、呪いをはじいてくれる指輪だ。
次に爪先を見下ろす。
――これは、ラークスパーさんが用意してくれた銀の靴。
アリスはしっかりと自分を意識して顔を上げた。
――戻らなきゃ。
前へ進もうとして足を動かしたが、前へ進む代わりにアリスの体は下に落ちた。その拍子に鏡の一つが腕に引っ掛かり、一緒になって落ちて来る。
鏡の欠片は完全に下までは落ちず、アリスの顔の辺りでゆっくり回転したあと、静止した。
――あ……。
鏡の面が揺らめき、少しずつ何かの形を映し出す。
それは二人の人物だった。男の人と女の人。立派なビロードの椅子に、向かい合って座っている。やがて鏡を通して二人の会話が聞こえて来た。
「私に何かご用でしょうか、王子様?」
「うん……マーガリン姫といったかな」
「マルガリータです」
「失礼、マルガリータ姫。まずはあなたに謝らなければ」
王子は真面目な顔になってマルガリータを見た。
「私はあなたとは結婚出来ない」
マルガリータはつんとして前を向いていた。
「王子様が私を妻に迎えるとおっしゃったのです。また気が変わったのですか?」
「私はその言葉を一人にしか言わない。そして気が変わることももうない。私が今日あなたの部屋を訪ねたのは、真実を知るためだ」
「知らない方がいいこともあります」
「私は知らなければならない。だからまず、自分が先に真実を話すことにした。双子の王子の真実だ」
「そ……」
「どうか最後まで口を挟まずに聞いて欲しい。でないと、全て話すという決心が揺らぎそうなのでな」
そして王子は語り始めた――双子の王子の、真実の物語を。
――十六年前、トロイメンの国に双子の王子が生まれた。二人はなぜか、地下の部屋に閉じ込められて育った。
双子の王子の片方は不思議な力を持っていた。けれど母親に、人前では決して使ってはいけないと言われていたためそれを守り、誰にも魔力を見せなかった。ただ一人、双子の片割れを除いては。
ある日、魔力を持った弟は、魔力を持たない兄に魔法を掛けた。三つの願いが叶う魔法だ。魔力を持たない兄が最初に願ったのは、川で溺れた弟を助けることだった。兄は弟を救った。しかしそのせいで、兄は国を追放されることになった。その時初めて、二人の王子は占い師の予言を知った。
『近い将来、この国に双子の王子が生まれるでしょう。片方は王様の血を引き、清く正しい王になりますが、もう片方はお妃様の血を引いて、悪しき魔の力を持って生まれて来ます。その力はやがて、国に不幸をもたらすでしょう』
自分たちが地下に閉じ込められていた理由を、その時初めて知ったのだ。
魔力を持たない兄は二つ目の願い事をした。弟の身に何かあったら、この国に戻って来られるように、と。そして魔力を持たない兄は国を追われ、魔力を持った弟が国に残った。
六年後、弟の危機を知った兄はトロイメンの国に戻って来た。それが二つ目の願いだったからだ。願いは叶えられた。しかし、弟は城にはいなかった。探しても、どこにも見つけられなかった。代わりに兄は本を見つけた。トロイメンの国の歴史の本。なぜかそこに書かれた過去の出来事は、今起こっていることとそっくり同じだったのだ。占い師の予言のこと、弟王子を助けるために魔法を使い、兄王子が追放されること。トロイメンの国の王子は南の国の姫と婚約し、城にカラスが飛んで来る……。
なぜ、過去に起きたことが繰り返されているのか。それを知る手掛かりを得ようと、兄は伝説のいばらの城へ出掛けて行った。正体を隠すため、同行した魔法使いに頼んで自分の姿を別人に変えてもらった。夜中の零時になると解けてしまう魔法だったが、朝までにまた掛け直してもらえば済むことだ。兄はそこで、六人の人物と出会った――
「トロイメンの城に戻った時、一緒にいたのはラークスパーを入れて七人。五頭のお供を連れて帰るはずだったのに、七人の小人になってしまった」
マルガリータは愕然として、目の前にいる王子を見つめていた。声の出し方を忘れてしまったかのように、口を開けたまま動かない。王子もしばらく何も言わず、相手の反応を窺っている様子だった。
「あなた、スワン王子なの?」
やっと、マルガリータは言った。
「いばらの城ではそうであったな」
王子はマルガリータを優しく見つめ返した。
「さあ、次はそなたの番だ、マルガリータ姫。いや、いばらの城で呼んでいた名前の方が良いか?」
「待って下さい」
マルガリータは王子に視線を据えたまま、小さく首を振った。
「あなたが……あなたが追放された兄王子なんですか?」
「そうだ」
「それじゃ、三晩続いた舞踏会の夜、森の中でバイオリンを弾いていたのはあなたなの?」
「違う」
「不思議な力で猫と話をして、遠い昔話を語ったのは……」
「違う。言ったはずだ。私は魔力を持っていない」
「じゃあ、『鍵を拾った娘を妻にする』と、お触れを出した王子があなた……?」
「それも違う」
王子は笑った。
「初めて聞いた。そうか、それでそなたが婚約者になったのか」
「どちらもあなたでないなら、あの二人は……」
「どちらも弟だったのだろう」
「ああ……」
マルガリータは両手で顔を覆った。
王子は椅子から降り、マルガリータの上に屈み込んだ。
「ショックだったのか。大丈夫か?」
「ええ。……でも、いばらの城からトロイメンの城に戻った最初の夜、地下の部屋にいたのはあなたなんでしょう?」
「そなたが来たのは朝に近かったがな。正直そなたはもう来ないかと思っていた。――そう、それは私だ。門番を通じて金の鍵と伝言をそなたに届けたのも私だ」
「どうしてそんな……」
「弟が選んだ婚約者なら、あの部屋のことや、弟の行方について知っているかもしれないと思ったのでな。それで、裏門から城を出て、一度宿に入ったあとでまた引き返して来たのだ。だがそなたは、弟は消えたとだけ言って立ち去ってしまった」
王子はマルガリータに微笑みを向けた。
「今日はちゃんと、話してもらえるかな」
アリスはその話を聞きたいと思った。そこで、よく聞こえるように一歩身を乗り出した。その途端、波紋が広がり、王子の顔がぼやけて見えなくなった。
鏡は一瞬明るく光ったかと思うと真っ黒になり、まるで役目を終えたようにぼろぼろに崩れてしまった。
アリスは立ち上がり、別の鏡を覗いた。――そこに映っていたのは自分自身の姿だった。
鏡の向こうのアリスは明るい部屋の中にいた。ベッドの上に膝を立てて座り、その膝を抱き抱えるようにして宙を見つめている。
――コン、コン。
「誰?」
「俺だよ、魔女」
アリスははじかれたように立ち上がり、飛んで行ってドアを開けた。
「王子!」
王子はドアの向こうで苦笑した。
「そう呼ぶなって言ってるのに」
「だって、もうお兄ちゃんとは呼べないし」
アリスは嬉しそうに王子を見上げた。
「私のことも、みんなの前ではアリスって呼んで下さいね」
「この部屋の居心地はどうだ?」
「快適です」
「ここでの生活に少しは慣れたか?」
「すっかり慣れました」
「寂しくないか?」
「大丈夫です」
王子は心配そうな顔になり、探るようにアリスを凝視した。
「本当か?」
アリスはどぎまぎしながら下を向いた。
「本当ですよ。ラークスパーさんが時々来て、歌を聞かせてくれるし……」
「そうか。今日はラークスパーの歌じゃなくて、俺のバイオリンでもいいかな?」
王子は手にしていたバイオリンを持ち上げて見せた。
「わあ! 聞きたいです。一緒に住んでた時は、よく弾いてくれましたよね」
「お前には邪魔ばっかりされてたっけな」
「私ももう子供じゃないんだから邪魔はしません。王子のバイオリン、久し振りに聞けて嬉しい」
アリスは手を叩いて喜んだ。
王子はバイオリンを右手で持ち、左手で今入って来たドアを閉めた。それから、部屋を横切って窓辺へ向かう。
「久し振り……でもないかな。地下の通路で聞いただろう? お前とダーク王子を呼ぶために弾いたんだ」
「えっ、あれ、王子だったんですか? ラークスパーさんかと思ってました」
「ラークスパーは楽器は弾かないよ。彼自身が楽器みたいなものだから」
――ラークスパーは道具に頼らなくても魔法が使える、ということか。バイオリンの音色が魔法になるように、ラークスパーは歌声が魔法になるのだろう。
二人は話しながらバルコニーに出た。
王子は手すりに身をもたせてバイオリンを構えたが、途中でその動きを止め、視線を下に落とした。何だろうと思い、アリスも近付いて見下ろした。
下の通路に人の姿があった。
「あれは……」
金のドレスに金の髪。
「南の国のマルガリータ姫だ」
王子が低めた声でアリスに教えた。
そうだ。あの日、舞踏会で王子の隣にいた――王子の婚約者。
マルガリータ姫がこちらに気付き、二人を見上げて頭を下げた。王子も軽く頭を下げ返す。しばらく視線を交わしてから、マルガリータ姫は再び前を向いて歩き出した。アリスは首を傾げた。
「舞踏会で見た時から思ってたんですけど……私、あの人とどこかで会ったような気がするんです」
「……」
マルガリータ姫の姿が門から出て、見えなくなった。
「朝早くからどこに行くんでしょうか」
「……どこに行くかは知らないけど……ちゃんと好きな相手のところへ行くようにって、俺は彼女に言った」
王子が答え、声を落として続けた。
「彼女との婚約は解消したよ」
「えっ……」
「代わりにお前と婚約するって、王に話すつもりだ」
アリスは顔を上げ、決然とした王子の眼差しを見て、再び俯いた。
「王子、それはだめです」
「だめ?」
「そんなこと、やっぱり無理ですよ」
「どうして?」
「だって……」
アリスは言い淀んだ。視線は王子から逸らし、下を向いたままだ。顔が上げられない。王子と目を合わせられない。
「だって、私は……」
「王は相手がどこの誰でも構わないんだよ」
アリスの言いたいことを察した王子は、幾分ぴりぴりした口調で彼女を遮った。
「宿屋の娘だろうが、身元のわからない孤児だろうが、どうでもいい。ただ俺に早く結婚してもらいたいだけなんだ」
「どうしてですか?」
「世継ぎが欲しいってことだろう」
「――ああ」
会話はそこで途切れた。
そよそよと風が吹いている。穏やかで気持ちのいい朝だった。
「ところで魔女、ダーク王子が今どこにいるか知らないか?」
王子が話題を変えた。
「あの人は王子じゃないですよ」
アリスは笑いながら答えた。内心、話題が変わってほっとしていたのだ。
「ダークさんは、百年前、いばらの城を閉ざした魔法使いの子孫で……これから逃げた眠り姫を探しに行くんだって言ってました」
「え? ……彼がそう言ったのか?」
「はい」
王子は手すりに腕を掛け、空を見上げた。その体勢のまましばらく逡巡し、やがてぽつりと口にした。
「眠り姫は見つからないよ」
更に一拍置いてから、だめ押しのように繰り返す。
「絶対に見つからない」
「どうしてわかるんですか?」
「姫はもうずっと前に逃げてしまっているからだ」
「まだ十日も経ってませんよ」
「いや。百年経ってる」
アリスは思わず王子の横顔を見やった。王子は目を伏せ、重い口調で言った。
「姫は百年前、恋人と一緒に外の世界へ逃げたんだ。――いばらの城の眠り姫なんて、最初から存在しなかったんだよ」
結局バイオリンは弾かず、王子は部屋の中に戻ってしまった。
「おいで、魔女」
アリスは未練がましくバルコニーに残っていた。
「お前にも、ちゃんと話さないとって思ってたんだ」
王子はバイオリンをテーブルに置き、代わりに本を取り出して、暖炉の前のカーペットに腰を下ろした。
「さあ、ここに来て、俺の横に座って。昔、本を読み聞かせてやっていた時のように」
アリスは猶もぐずぐずしていたが、やがて諦めのため息をつき、渋々王子の言葉に従った。
「どこから話そうか」と言って、王子は首を傾げた。
「……眠り姫は最初から存在しなかったんだっていう話」
王子が困っているようなので、アリスは答えた――昔、どの本を呼んで欲しいか尋ねられた時のように。
「じゃあ、そこから」
王子は膝の上に本を載せ、アリスの肩を抱き寄せた。本はまだ開かれていなかったが、表紙であのトロイメンの本の上巻だとわかった。
「百年前、南の国のメリッサ姫は、トロイメンの国の王子との政略結婚を嫌って、恋人と駆け落ちするつもりでいた。だけどただ逃げたのではすぐに捕まってしまう。それで、呪いの話をでっち上げたんだ」
王子は昔本を読んでくれた時のように、ゆったりとした柔らかい口調で語り始めた。
――南の国には代々王に仕える魔法使いの一族がいて、メリッサ姫は当時城にいた魔法使いの娘と仲が良かった。それで彼女に協力してもらったんだ。
魔法使いの娘はカラスに化けて城に行き、呪いの言葉を叫んだ。そして、メリッサ姫に眠りの魔法を掛けた。ただし百年ではなく、三日で目覚める眠りの魔法をね。それから、森の中の城に秘密の抜け道を作って置き、眠りに落ちた姫をその城の塔の上に連れて行くよう、王子を誘導した。そのあとで城にいばらを巡らし、森には人を迷わす魔法を掛けた。
全てうまく行った。三日目に目覚めたメリッサ姫は、地下の通路で待っていた恋人と駆け落ちした。いばらの城で眠っているはずの姫を探す者など誰もいない。万事計画通り。だけどメリッサ姫も魔法使いの娘も、百年経ったあとのことは考えなかったんだ。
クリスタロス王子が子孫に眠り姫を託す遺言を残すつもりだと聞き、魔法使いの娘は自分のしたことが怖くなった。百年目に王子がいばらの城を訪れた時、姫がいなかったらどうなるか。そこで彼女も子孫に遺言を残すことにしたんだ。百年経ったらいばらの城へ行き、眠り姫の振りをすること。地下の部屋に姫の肖像画を掛けて置くから、それを見て上手に化けるんだよ、と。
王子が話し終えるのを待ってから、アリスは口を開いた。
「カラスに化けて呪いの言葉を叫んだ魔女と、いばらの城に魔法を掛けた魔法使いは同じ人物だったんですね」
「ああ」
「その人の子孫が、ダークさん?」
「らしいね」
「魔法使いの娘は、子孫には真実を伝えなかったんですね。ダークさんは眠り姫を探しに行くって言ったんです。見つからないとわかっていたら、探しになんか行かないでしょう?」
「どうだろう。百年前に逃げた姫が、その後どんな運命を辿ったか探りに行く、という意味だったのかもしれない」
王子は両手を組み合わせて額に当てていた。じっくり物を考える時の、彼の癖だ。
「だって、眠り姫が眠っていたなら、肖像画なんか必要ないじゃないか。その場で彼女を真似ればいいんだから」
王子に寄り掛かったまま、アリスもじっくり考えた。逃げた姫の行方。それは……。
「それはラークスパーさんが知ってるんじゃありませんか?」
アリスの言葉の意味を、王子はすぐに理解した。
「メリッサ姫の駆け落ちの相手は、クリスタロス王子の兄のアメタストス王子。ラークスパーはその子孫」
「ですよね?」
「俺もそう思ったけど、ラークスパーははっきりとは肯定しなかった」
「そうなんですか……」
「ラークスパーにもよくわからないのかもしれない。アメタストス王子が追放されたっていうのがそもそも嘘だしね」
「嘘?」
王子は頷いた。
「アメタストス王子は追放されたんじゃない。弟を助けようとして川に流され、そのまま行方知れずになってしまったんだ。みんな、アメタストス王子は死んだに違いないと思った。だがクリスタロス王子にはそれを言えなかった。兄が自分のせいで死んだなんて、幼い王子には残酷過ぎる事実だ。それで乳母が作り話をしたんだ。あの、占い師の予言の話――兄は悪しき力を持っていたために追放されたのだと。外から入って来た物語の中に、似たような話があったのかもしれない。クリスタロス王子はその話を信じた。ただ悪いことに、彼自身が魔力を持っていたんだ。だから彼は、本当は魔法を使ったのは自分なのに、兄が罪を被って追放されたのだと思ってしまった。自分は国に不幸をもたらす呪われた王子だ、と」
アリスは王子の話を頭の中で整理し、言うべき言葉を探した。
「でも……でも、アメタストス王子は生きていたんですよね。ラークスパーさんがアメタストス王子の子孫なんだから」
「うん。それは確かだ」
「それならなぜ城に戻って本当のことを言わなかったんでしょう?」
「アメタストス王子は溺れて死に掛けた上、記憶まで失っていた。ようやく回復した時にはもう城に戻れる状況ではなかったんだ。だから彼も、子孫に遺言を残したんだね。だけど、それがどういう遺言だったのか、ラークスパーは話してくれなかった。百年前の物語は今の俺たちが詮索することじゃない、大事なのは今の物語だ、ということらしい」
「今の物語?」
「先へ進もう」と王子は言った。
「本の中に人魚姫の話があっただろう? トロイメンの国の王子が人魚姫と結婚した話」
「はい。読みました」
「あれも嘘だ。クリスタロス王子は予言の話を信じていた。自分は周りを不幸にする。兄は追放され、婚約者は呪いを受けて百年の眠りに落ちた。もうこれ以上、誰も不幸にしたくない。だから誰とも結婚しない。そう言い張った。でも、国には世継ぎが必要だ。困り果てた王は花嫁候補を説き伏せ、嘘をつかせた。『自分は人魚姫で、王子様と結婚出来ないと泡になってしまう』。クリスタロス王子はその姫を受け入れるしかなかった。もう誰も不幸にしたくなかったから」
アリスは憤慨して顔を上げた。
「嘘ばっかりじゃないですか!」
「そうだね。この本に書かれている物語は嘘ばっかりだ」
「おかしいですよ。だって、この本には本当のことしか書けない魔法が掛かってるって、ラークスパーさんが……」
「そう」
王子は小さく頷いた。
「ラークスパーは嘘は言わない。この本も嘘は言わない。だから、これから本当になる」
アリスは口をつぐみ、王子が抱えている本に目を落とした。
「もう本当になったこともある」
王子は本を開いた。アリスの目の前で、ぱらぱらとページをめくる。
「例えばこれ、呪われた双子の王子の物語は、そのまま俺たち兄弟のことだ。それから、ここ」
王子がページを指差す。
やがて姫はトロイメンの国の王子と婚約し、城に迎えられた。
魔女は姫の幸せを許さなかった。カラスに姿を変えてトロイメンの城へ行き、城中に響き渡る声で叫んだ。
『私は呪いを掛けた。十六歳の誕生日、王子の婚約者は割れた鏡の欠片に刺され、百年の眠りに落ちるだろう』
「二年前、弟は――トロイメンの国の王子は一度、南の国の姫と婚約してるんだ。その時、城にカラスが飛んで来たと門番が言ってる。カラスは城中に響き渡る声で叫んだけど、何て言ってるのかはわからなかったそうだ。そのあと、ほとんどまとまっていた婚約の話が白紙に戻され、姫は国に帰されたらしい」
「カラスは呪いの言葉を叫んだんですか」
「多分そうだと思う。居合わせた者の中に、カラスの言葉がわかる人間がいたんじゃないかな。その頃王が急に国中の家を調べて、鏡を隠し持っている者がいたら全て捨てるように命じたって言うから。そんな風習、今ではもう守っていない民も多かったのに」
王子はまた本のページをめくった。
「だから物語は――ここまで進んでる」
話を聞いたトロイメンの国の王様は、国中の鏡を全て捨てさせ、呪いを解く方法を知る魔法使いは城へ来るように、とお触れを出した。しかし、呪いを解ける者は誰もいなかった。強大な力を持つ魔法使いにも、姫を愛する王子にも、どうすることも出来なかった。
「次はここだ」
運命の日、魔女が城に忍び込み、鏡の欠片を姫に届けた。
『これで王子の心臓を刺せば、お前は助かるよ』
愛する人を犠牲にして助かることなど、姫にはとても考えられなかった。姫は鏡の欠片で自ら胸を刺し、床に倒れた。
「そして――」
王子が駆け付けた時、姫は眠っていた――深く、深く。何度も名前を呼んで揺さぶったが、姫は目を開けなかった。
アリスは後ろから回された王子の手を、ぎゅっと握った。
「でも、呪いを受けたのは南の国の姫でしょう? 王子が彼女と婚約しないなら、この通りにはなりません」
王子はゆっくりと首を振った。
「ここを見てごらん」
『私は呪いを掛けた。十六歳の誕生日、王子の婚約者は割れた鏡の欠片に刺され、百年の眠りに落ちるだろう』
「魔女は『王子の婚約者』と言ってる。相手が誰であれ、王子と婚約した姫に呪いが掛かるんだ」
アリスは息を止めた。急に、言いようのない恐怖が湧き上がって来た。本に書かれた文字の一つ一つが、強い意志を持っているように感じられた。憎しみと、やるせなさと、深い悲しみと……。
「この本を書いたのは誰なんですか?」
震える声でアリスは尋ねた。
「さあ。クリスタロス王子本人かもしれないし、王子が騙されたことを知った別の誰かかもしれない。嘘をつかれた仕返しに、嘘を本当にしてやろうと思ったのかもしれない」
王子は淡々と言った。気味が悪いくらい、淡々と。
「俺はお前を失いたくない。俺と婚約すれば、お前に呪いが掛かる。だけど、そうしないと今度は――」
「王子と婚約したら、私は呪いに掛かって百年の眠りに落ちる。結婚出来なければ泡になって消える」
「どっちにもさせない。俺はそれ以外の未来を選ぶ」
「どんな未来?」
アリスの視線は開いた本の一文に釘付けになっていた。
『これで王子の心臓を刺せば、お前は助かるよ』
「王子は自分が犠牲になるつもりなんでしょう? 弟の身代わりになって追放されたように、今度は私の身代わりになろうと思ってるんでしょう?」
王子はアリスを見つめ、僅かに目を逸らした。
「他に方法がないならそうするけど……」
「だめ!」
「魔女」
「そんなの、絶対許さない!」
「魔女、俺は……」
王子が伸ばした手から逃れるように、アリスは立ち上がり、そのまま部屋を飛び出した。
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