アリスと眠り姫
「見つけた」
王子の声が、上から降って来る。
――ああ、見つかっちゃった。
いつもそうだ。お兄ちゃんは私がどこに隠れていても、簡単に見つけてしまう。
「お前はすぐにいなくなるからな。探すのもうまくなったよ」
王子は笑って、それから手を差し伸べる。
「出ておいで」
何もかも、昔のまま。王子にとってアリスは今も、『小さな魔女』でしかないのだ。
「出ておいで、魔女」
アリスは出て行かなかった。
「こら。返事くらいしろ」
アリスは返事をしなかった。
「困った奴だな」
王子は体を曲げて、アリスのいるテーブルの下に入って来た。
「狭いなあ」
王子が隣に腰を落ち着けると、アリスは王子に寄り掛かった。王子は微笑み、アリスの手に自分の手を重ねた。
アリスは目を閉じた。王子の温もりと、穏やかな規則正しい鼓動が伝わって来る。充分だ、と思った。そして、思ったままを口にした。
「充分です」
「え?」
「私の十六歳の誕生日はまだまだずっと先です。それまで王子のそばにいられれば、それだけで、私は幸せです」
王子にまた会えて嬉しかった。これからはずっと一緒だと言ってもらえて嬉しかった。たとえその通りにならなくて、自分が泡になって消えてしまったとしても、それでもいいと思えるほど、嬉しかった。だから、これでいい。
「そんなこと言うな」
王子はアリスの肩を掴み、自分の方を向かせた。
「ちゃんと最後まで俺の話を聞け。お前はスワン王子に言ったじゃないか。『運命は変えられる』って。俺は諦めないよ。わかるか? 俺は諦めない」
「諦めない……?」
「そうだよ。だから答えて。この世界に来る前、鏡の中から声が聞こえたって言ったね。それはどんな声だった? 話し掛けて来たのはどんな奴だったんだ?」
「えっと……」
アリスは上を向き、記憶を手繰った。
「姿は見えなかったけど……声の感じは、女の人みたいでした」
王子は真剣な表情のまま頷いた。
「魔女だったんだな」
アリスははっとして王子を見た。
「城に飛んで来たカラスと同じ……?」
「それはわからないけど、どっちでもいい。魔女を見つけて呪いを解かせる」
「でも、魔女の呪いが解けても、本の呪いがそのままだったら……何をしたって、最後には本の通りになっちゃうんじゃないんですか?」
「姫が眠ったあと、百年間目覚めなかったとは書いてない」
「下巻には書いてあるのかも」
「魔女は後ろ向きだな」
「王子は前向きなの?」
「もちろん」
王子はアリスの頬を両手で包み込んだ。
「諦めないよ。きっと方法はある。俺は自分が犠牲になってもいいなんて思ってない。俺が選ぶ未来は一つきりだ。俺とお前の未来だ」
ドアの開く音がした。
王子はアリスから手を離した。
「こんなところでかくれんぼですか?」
ラークスパーの声だ。
「野暮だな。いいところだったのに」
「それは失礼しました。でもここは使用人の食堂ですから、そろそろ人が集まって来ますよ」
王子はテーブルクロスをどけて首を突き出した。
「俺に用か?」
「王がお呼びです」
「またか。……今行く」
立ち上がってから、彼は思い出したように尋ねた。
「そっちのかくれんぼはどうなった? ダークは見つかったか?」
「まだです」とラークスパー。
「そうか」
王子はため息をついた。
「人探しはこの世界へ戻って来てからさんざんやって、やり尽くしたからな。やっぱり難しいか」
「何とかやってみます」
「悪いな」
とにかく王に会って来ると言って、王子は立ち去り、アリスとラークスパーがその場に残された。
「どうしてダークさんを探してるんですか?」
アリスはラークスパーに聞いた。
「確かめたいことがあるんだそうです」
「人を探すのって難しいんですか? 魔法でも?」
続けて聞いた時、廊下の方から足音と話し声が聞こえて来た。
「場所を変えましょう」とラークスパーは言い、アリスの腕に軽く触れた。
次の瞬間、二人は庭園に立っていた。
「すごい……」
アリスは突然変化した周囲の風景を、感嘆して見回した。
「本当に、鍵もバイオリンも必要ないんですね。どうやるんですか?」
言ってしまってから、我ながらばかな質問だったと後悔した。鳥に向かって、どうすれば飛べるんですか、と聞くようなものだ。説明出来るとは思えない。
それでも、ラークスパーは説明しようとしてくれた。
「まず、行きたい場所をぼんやりと思い浮かべます」
「ぼんやりと」
アリスはラークスパーの言葉を反復した。
「それから、その場所までの距離を何となくイメージして……」
「何となく」
「あとは、さっと」
「さっと」
「そんな感じです」
「それなら、人の姿を思い浮かべれば、その人のところへ行けるんじゃないですか?」
「人物には目標を定めにくいんです。生き物は動くし、変わりますから」
正直よくわからなかったが、それ以上聞くのは悪い気がしたのでやめて置いた。代わりにアリスは別のことを聞いた。
「ラークスパーさんにも、あの本の呪いは破れないんですか?」
ラークスパーは視線を上げた。柔らかい金の髪が風に吹かれ、顔の周りで踊っている。こうして見ると、改めて、サフィルス王子に似ているな、と思った。そして、王子にも。
ラークスパーの薄紫色の目が、アリスをひたと見据えた。
「本の呪いは破れません」
「……王子は魔女を探し出して呪いを解かせるつもりらしいけど……」
「一度掛けた呪いを取り消すことは出来ません。たとえどんなに悔やんでも」
そこまできっぱり断言されると、さすがにショックだった。結局全て本の通りになってしまうのか。
『呪いを解ける者は誰もいなかった。強大な力を持つ魔法使いにも、姫を愛する王子にも、どうすることも出来なかった』
どうすることも出来ない。本当に、もう……。
「もう希望はないんでしょうか」
惨めな気持ちでアリスは呟いた。
ラークスパーは表情を和らげ、慰めるように言った。
「希望はありますよ」
「本当ですか?」
「取り消すことは出来なくても、どこかに呪いを解く方法はあるものです。あなたもそういう物語を知っているでしょう?」
「でも、これは物語じゃありません。現実の……」
アリスは口をつぐんだ。今、初めて思い至ったのだ。
「……トロイメンの本を書いた魔法使いは、本に呪いを掛けて、嘘の物語を本当にしようとしたかもしれない。でも、眠り姫の呪いを実際に掛けたのは、本を書いた魔法使いでも物語の登場人物でもなく、現実の、自分の意思を持った人間ですよね」
魔女は自分の意思で呪いを掛けた。
「なぜ、そんなことをしたんでしょうか」
「それは……わかりません」
「そうですよね。わかってたら教えてくれてますよね」
「……」
ラークスパーは笑顔のまま固まったが、アリスはそれに気付かなかった。
「そうですね……。あの本をよく読んでみたらどうですか? 何かヒントがあるかもしれませんよ」
ラークスパーが教えてくれたのはそこまでだった。
夜、アリスはベッドの中で、昼間王子が置いて行ったトロイメンの本を念入りに読み返していた。
「ラークスパーさんは本の中にヒントがあるって言ったけど……」
何度となくページをめくり、手を止めては考え込む。
昔、トロイメンの国に一人の魔女が住んでいた。
魔女は不思議な鏡を持っていた。毎日この鏡に向かって、『世界で一番美しいのは誰か』と尋ねるのだ。鏡は決まって『あなたが一番美しい』と答えた。魔女はそれを聞くと満足した。鏡が嘘を言わないことを知っていたからだ。ところがある日、いつものように魔女が鏡に問い掛けると――。
『鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?』
『この国ではあなたが一番美しい、けれど南の国の姫は、あなたの千倍美しい』
魔女は激怒し、鏡を叩き割った。そして、どうしてくれようかと考えた末、一つの呪いを掛けた。
これをこのまま受け取れば、魔女は姫の美しさに嫉妬して呪いを掛けたということになる。本当にそうなのだろうか。あまりぴんと来ない話だ。
――コン、コン。
アリスは本から目を上げた。
「はい」
「俺だ、魔女」
「王子?」
慌ててベッドから降り、ドアを開ける。
「どうしたんですか、こんな時間に」
今何時だろうと振り返って時計を確認しようとした時、王子がアリスの手を握った。
「魔女」
「はい」
「駆け落ちしよう」
「はい……ええっ?」
「何だ? バルコニーの下まで行って、月に愛を誓わなければだめか?」
「月に誓ったら、あなたの愛は変わってしまいます」
アリスの台詞が棒読みだったためか、王子は吹き出した。
「笑わせないでくれ」
「笑い事じゃないですよ!」
アリスは王子の顔を覗き込んだ。何だか様子がおかしい。
「王子、寝ぼけてるんですか?」
「寝ぼけてなんかいないよ。酔っ払ってもいない。俺は正気だ」
「どうしたんですか? 何か、あったんですか?」
王子は答えなかった。
「とにかく、入って下さい」
アリスは王子を部屋に入れ、ドアを閉めた。
王子はさっきまでアリスが寝ていたベッドに腰を下ろした。アリスはその足下にひざまずき、王子を見上げた。
「王子?」
「王がお前との婚約を認めてくれないんだ」
――あ……。
「昼間、王様とその話を?」
「ああ。お前は俺が落とした鍵を拾ったから、婚約者の資格があると話したのに」
「やっぱり、身分もはっきりしないような娘じゃだめなんですよ」
「何でだめなんだ? 王は早く世継ぎが欲しいと思ってる。だから結婚を急ぐんだ。俺はお前以外の相手とは結婚しないと言った。なのに何で反対するんだ?」
王子はふてくされた様子でぶつぶつ呟いた。
「もういいんですよ、王子」
「いいことなんか何もない。俺が別の相手と結婚すればお前は泡になって、俺と結婚した姫は百年の眠りに落ちるんだ。不幸になる人間が増えるだけじゃないか」
「それは……」
王子の言葉を聞いて、アリスは違和感の正体に気が付いた。
――そうだ。このままだと、南の国の姫には呪いが掛からないんだ。
魔女は南の国の姫の美しさに嫉妬して呪いを掛けた。けれど姫は、王子と婚約さえしなければ呪いを受けることはない。魔女はわざわざカラスに変身し、城まで飛んで行ってこのことを知らせた。そればかりか、姫に王子を身代わりにしろとまで言うのだ。
――どうして? 魔女は何のために呪いを掛けたの? 魔女が苦しめたかった相手は……。
王子の髪が頬に触れ、アリスは我に返った。息が掛かるほど近くに王子の顔がある。
「だから、魔女。俺と一緒に逃げよう。この国を離れれば、呪いを回避出来るかもしれない」
王子はアリスの手を取り、一心にアリスを見つめていた。
「お前は信じないかもしれないけど、俺は本気でお前を愛しているよ」
「……月に誓って?」
「月には誓わない。俺自身に誓う」
「その引用は不吉な未来を暗示するからやめた方が……」
「お前は絶対に死なせない」
アリスは俯き、考えた。
――魔女が呪いで苦しめたかった相手が、もし……。
「魔女?」
「わかりました、駆け落ちしましょう」
ついにアリスが言うと、王子の顔に明るい笑みが広がった。その笑顔を守りたいと、心から思う。
「じゃあ、ラークスパーにサンドイッチを作ってもらおう。俺も着替えて来るから、一時間後、庭園の噴水の前に集合だ」
そんな、ピクニックに行くような気分でいいのかと問いたくなったが、アリスは黙って頷いた。
――開いたままのドアから中を覗くと、その部屋には明かりが灯っていた。
それはテーブルに載せられたランプの光だった。テーブルの向こうに黒い人影が佇んでいる。ランプの光に照らされて、ベッドの上の壁に黒い影が伸びていた。その影を見上げながら、黒い人影が呟いた。
「これで良かったのかなあ」
「何がですか」
問い返しても、黒い人影は背を向けたままだ。そして、逆に聞いて来た。
「はぐらかさないで教えてくれよ。あんた全部わかってるんだろう?」
「全部わかってはいないと思いますが……」
「そうなのか? だが、あんたは肖像画を見たんだよな、ラークスパー?」
その言葉と共に、ダークはようやくラークスパーを振り返った。
「ここに掛けられていた肖像画ですか?」
ラークスパーはダークに近付き、二人分の影が出来た壁に目をやった。
部屋の中を沈黙が支配する。ランプの光が揺らぎ、影が踊る。やがて壁から視線をずらし、ラークスパーはダークを見た。
「……それは、僕の胸の中に仕舞って置きます」
「そうか」
ダークはほっとしたように頷いた。
「やっぱり、そうするのが正しい選択か……」
「正しいかどうかはわかりません。何が正しいか見極めるのは、簡単なことではありませんから」
「そうだな。――で、あんたは何でここに?」
「あなたを探していたんです」とラークスパーは言った。
「スワン王子に会っていただけますか?」
「スワン王子じゃないだろう」
ダークはいつもの調子に戻ってにやりと笑った。
「それとも、本物のスワン王子が出て来たのか? 『スワン王子の姿をしたトロイメンの国のアズマラカイト王子』ではなく」
ラークスパーも笑顔で答えた。
「気付いていたんですね」
「いばらの城であいつに本を見せられた時、怪しいな、と思ったんだ。トロイメンの国の本なら、トロイメンの国にあるのが普通だろう? それに、俺は北の国のスワン王子に会ったことはないが、噂で聞いていたのと大分印象が違ったしな」
「そうですね。彼はあなた方ほど演技が上手ではないようです」
「あいつが俺に何の用だって?」
ダークは話を逸らした。
「それは直接会って聞いて下さい」
「あんたは今トロイメンの城で働いているのか?」
「いいえ。たまに台所を手伝うくらいです」
「王はあんたがアメタストス王子の子孫だって知ってるんだよな?」
「知らないと思います。王には遠い親戚だとしか言ってないんです。トロイメンの国に来てまだ日も浅いし……僕が魔法を使うことにも、多分気付いていないでしょう。王は魔力を嫌っていますから」
「だが、あんたにアズマラカイト王子の護衛を頼んだんだろう」
ラークスパーは苦笑を浮かべた。
「どういうわけか、初対面でもすぐに信用されるし、頼りにされるんですよ」
ああ、それはわかる気がするな、とダークは口の中で呟いた。
「そういう魔法を使っているんじゃないのか? 人の心を操るみたいな」
「自覚はないんですが……或いはそうなのかもしれませんね」
二人は地下の部屋から出た。
「おい、そっちじゃないだろう。そっちはいばらの城だぞ」
ラークスパーがすぐ脇にある階段を上ろうとするのを見て、ダークが言った。
ラークスパーは足を止めて振り返った。
「こっちでいいんですよ」
「アズマラカイト王子はいばらの城にいるのか?」
「アズマラカイト王子はいません。いばらの城にいるのはスワン王子です。正確には、『スワン王子の姿をしたアズマラカイト王子』ですね」
「また魔法を掛けたのか。……また旅に出るのか?」
「らしいです」
「ふうん……今度は白雪姫でも探すとか?」
「いえ、駆け落ちするそうです」
「はあ?」
ダークは素っ頓狂な声を上げた。
「駆け落ちするって、アリスと?」
「だと思います。僕はお弁当を持って来るように頼まれまして……」
「護衛付きの駆け落ちなんて聞いたことがないぞ」
ダークがぶつぶつ言っている間にラークスパーは階段を上り、地下の扉を押し上げた。
「……ちょっと待てよ。何で開くんだよ」
「開いたら困るんですか?」
「向こう側からしか開かないんじゃなかったのかよ」
「封印になっているのは扉の取っ手を隠している石です。あの石を外したままの状態で扉を閉じれば、こちらからも開くことが出来るんですよ」
「それは初耳だな」
「逆に石が被された状態なら、魔法を掛けた本人でも開くことは出来ないはずなんですが……」
「あれはパールの出任せだ。忘れてくれ」
それ以上突っ込まれる前に、ダークは先に立って地上へ上がった。
塔のドアを開けて外に出ると、明け方の庭園は紫色に沈んでいた。
「スワン王子とアリスは?」
ダークが辺りを見回す。
ラークスパーも同じように視線を巡らし、すぐに二人を見つけた。
「ああ、あそこです」
スワン王子とアリスは薔薇の生け垣の陰にいた。手を繋ぎ、肩を寄せ合って気持ち良さそうに眠っている。
ダークは大げさにため息をついた。
「はあー、のん気だよなあ、この二人は」
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