カボチャの馬車
――目の前に、知らない女の子がいた。
十五、六歳だろうか。長い金髪を肩に流し、濃い緑色の瞳でこちらを見つめている。不安そうに、覗き込むように。
「あなたは誰?」
手を伸ばしてみると、それは鏡だった。自分の顔が映っているのだ。けれど、鏡の中の顔にはやはり、見覚えはなかった。
「――私は誰?」
「マルガリータ姫」
疑問に答えるように、背後から声がした。
――姫?
振り返ると、扉のそばに若い男が立っていた。黒い髪、黒い瞳。そして、着ている服も全部真っ黒だ。この人は……誰だっけ?
「えーと……」
「私のことはナイトとお呼び下さい。さあ、急がないと。もう時間です」
彼はてきぱきと扉を開けた。薄暗かった部屋に、光が射す。
「わかってるわ。私はこれからカボチャの馬車に乗って、トカゲの従者と一緒にお城の舞踏会へ行くのよね」
「姫様」
「なあに」
「私はトカゲではございません」
「そうね。ごめんなさい」
ナイトは扉のそばに立ったまま、ただじっと待っていた。
「ネズミ……じゃない、御者は?」
「待たせてあります」
「そう……。わかったわ、もうちょっと待ってて」
髪を結い上げ、リボンを結ぶのに多少手間取ったあと、もう一度鏡の中の少女を見つめる。
「うまく……行くわよね」
「大丈夫ですよ」
答えたのはナイトだった。
「きっとうまく行きます」
舞踏会が開かれる城への道は、深い森を通っていた。昇ったばかりの月の明かりを頼りに、馬車は黙々と進んだ。
「お姫様が兄さんたちを探してさまよったのも、こんな森だったんじゃないかしら?」
マルガリータの呟きに、ナイトは何の反応も示さなかった。こちらを見もせず、無言で揺れに身を任せている。向かい合って座っているのに、まるで一人きりのようだ。窓の外に目をやり、マルガリータは言葉を続けた。
「兄さんたちには呪いが掛けられていたのよ。毎晩十五分の間だけ、兄さんたちは元の姿に戻れるの……」
返事がなくても気にしなかった。別に構わない。一人は慣れている。馬車はゆっくり、ゆっくりと木々の間を抜けて行く。聞こえるのは轍の音と、そして……。
「止めて」
マルガリータは御者に声を掛けた。
「今、何か聞こえなかった?」
ナイトがちらりと目を上げる。
馬車が停止するのを待ってから、マルガリータは耳を澄ました。
「……バイオリンの音だわ。ほら、微かに……」
「城の楽の音でしょう」とナイト。
「ううん、これはそういうんじゃない。これは……まるで……」
マルガリータは立ち上がり、押し開けるようにしてドアから出た。
「姫」
「ちょっとだけ。すぐ戻るから」
ナイトは尚も止めようとしたが、間に合わなかった。彼が外に出た時、マルガリータは夜の闇の向こうに消えていた。
満月が行く手を照らしている。なぜか懐かしいような、バイオリンの音色。前にもこんなことがあったような……。
耳に届く音色が大きくなるにつれて、マルガリータは少しずつ歩みを緩めた。茂みの間に、ちらちらと光るものが見えて来る。水……湖? 月光を浴びて輝く湖のほとりで、一人の若者がバイオリンを奏でている。
――眩しい……。
顔の前に手を翳した時、ドレスの裾が茂みに触れ、がさりと音を立てた。
バイオリンの音が止んだ。弓を下ろしながら、若者がこちらを振り向く。
ごめんなさい、とマルガリータは謝った。
「邪魔するつもりはなかったんです。私、ただ……」
「人が来るとは思わなかった」
低く澄んだ声で、若者は言った。
「道に迷ったんですか、お嬢さん?」
何てきれいな男の人なんだろう……というのが、若者に対する最初の印象だった。月の光を吸い取ったかのような、美しい金の髪。二粒の宝石を思わせる、透き通ったブルーの瞳。たった今彼が弾いていたバイオリンの音色と同じくらい、心地良く耳に響く声。微笑んでいるのにどこか寂しげで、目を離したらふっと消えてしまいそうな、儚げな雰囲気があった。この人は、誰……?
若者が、ほんの少し首を傾げてマルガリータを見た。不躾に見つめ過ぎたと気付き、マルガリータは慌てて頭を下げた。
「あの……私、バイオリンの音色が聞こえて……何だか呼ばれているような気がして……」
「私が呼んでいたのはあなたじゃないですよ」
若者は足下に目を落とした。
そこには二匹の猫がいた。茶色っぽい毛並みの猫と、やや小さめの白猫だ。互いに愛おしそうに体を擦り寄せ合っている。
「この白い方の子が、こっちの子を探していたんで、呼んでやったんです」
若者は二匹の猫を交互に見てから、再びマルガリータを見た。
「そうか。あなたは前世で猫だったのかな」
「前世……?」
「この子たちは、前世では夫婦だったんですよ」
不思議なことを言う人だ、と思った。この人は魔法使いか何かだろうか。
「あの、あなたは……」
あなたは誰? そう聞こうとしたマルガリータの声を、別の声が遮った。
「姫様ー」
ナイトだ。
「姫様、戻って来て下さい。そろそろ行かないと、遅れます!」
「今、行くわ!」
首を捻って叫び返し、もう一度若者を見やる。逆光になった彼の表情はよくわからなかったが、一瞬、瞳が揺れた気がした。
「ひょっとして、これから舞踏会へ行かれるんですか?」
尋ねる口調はどこか真剣味を帯びていた。まるでそれが大事な質問であるかのような。
「この国の、城の舞踏会へ?」
「あ、はい」
マルガリータは戸惑いながら答えた。
「姫様ー」
ナイトがしつこく呼んでいる。
声のする方へ顔を向け、若者はやや冗談めかして聞いた。
「あなたはどこの国の姫様ですか?」
「……えーと……南の国から来ました」
彼に嘘はつきたくなかったので、マルガリータは出来るだけ正確に、曖昧な言い方をした。
若者の瞳の青が濃くなった。目を見開いたせいかもしれない。
「南の国……」
若者がそっと呟く。同時にふわりと風が吹き、湖の面を揺らした。次の呟きは、風の音よりも微かだった。
「そうか……やっぱり、あなたがそうなのか……」
「え?」
若者は笑みを崩さず、視線をマルガリータに固定したまま首を振った。
「何でもありません。舞踏会、楽しんで来て下さい」
そう言うと、彼はまたバイオリンを弾き始めた。
美しい音色に後ろ髪を引かれながら、マルガリータは元来た道を戻り、再び馬車に乗った。
ナイトは不機嫌そうに馬の横に立っていた。マルガリータが座るのを見届けると、御者に声を掛け、自分も馬車に乗り込む。
「姫様、まさか目的を忘れたわけではありませんよね?」
「忘れてないわ」
マルガリータはナイトの顔を見ずに答えた。
ナイトはため息をついた。
「それならいいんですが……」
――大丈夫よ、ナイト。
マルガリータは自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
――大丈夫、ちゃんと覚えてる。私の目的はお城へ行って王子様に会うこと。そして……。
「ナイト」
「何ですか」
「この国の王子様ってどんな方なの?」
「それを聞いてどうします?」
「心構えをして置きたいのよ。私は……私は王子様と、結婚しなければならないんだから」
「そうですね……」
ナイトは腕組みをし、少し考えた。
「この国の王子は、氷のような方だと聞いています」
ナイトの話の影響か、その城はまるで氷の城のように見えた。月光に浮かび上がる、仄青い外観の城。空には星がきらめき、室内の明かりまでが外に漏れて辺りを照らしているのに、どこか暗く冷たい空気が漂う。
「怖じ気付いたんですか?」とは言わなかったが、そう言いたそうな目で、ナイトはマルガリータを見た。
「中までお供致しましょうか?」
「一人で大丈夫よ」
言い返しはしたものの、実際マルガリータは怖じ気付いていた。
――王子様の心が凍っているなら、ここはまさしく『雪の女王の城』ね……。
マルガリータは城の前に止まった馬車から降り、広い大理石の階段を上った。
――私はここで、この国の王子様と会う。そして、王子様を……。
『やっぱり、あなたがそうなのか』
不意にさっきの若者の言葉が蘇った。
――やっぱり? やっぱりってどういうこと? あの人は私の正体に気付いていたの……?
「あっ」
足下をよく見ていなかったマルガリータは、うっかり階段を踏み外してしまった。
「――!」
空が回転した。
落ちる、と思った瞬間、何かが彼女の背中を支えた。それは男の人の腕だった。優しく強く、温かい腕。咄嗟に首を回すと、青い水晶の瞳と目が合った。マルガリータよりも二段下に立っているのに、見上げるほど背が高い。
「あ……」
相手はにこりともせず、無言のまま手を離した。そして、何事もなかったかのようにさっさとマルガリータを追い越して行ってしまった。
「あっ、待って……」
マルガリータは慌てて残りの階段を上がった。
「どうしてあなたがここに……さっきは何も言ってなかったのに……あなたも舞踏会に来るなんて!」
青い瞳の若者は、広間の入り口で足を止め、その深く青く――氷のような眼差しをマルガリータに向けた。
「誰と勘違いしているのか知らないが、私は王子だ。敬意を払って口を利け」
「え……?」
マルガリータは思わず立ちすくんだ。
「だって、さっき……」
さっき森で会ったでしょう、と口にする間も与えず、若者は再び背を向けた。もう何も聞く気はない、そんな態度だ。マルガリータももう、「待って」とは言えなかった。
いつの間にかそばに立っていたナイトが、姫、と声を掛けた。マルガリータが階段から落ちそうになったのを見て、助けようと上がって来たらしい。
「あれがこの国の王子です」
「……あれが、この国の王子様……」
マルガリータはぼんやりと繰り返した。
――あの人が、王子様。氷のような方――その通りね。でも、さっき森で会った時は違っていた。穏やかに微笑んで、包み込むように優しい目で私を見つめた。別人みたいだわ。あんなにすげない態度で……誰かと勘違いしている、ですって?
森の中は暗かったから、顔がわからなかったのだろうか。わかっていて、知らない振りをしたのだろうか。それとも、本当に別人? あの冷たい目、冷たい声、冷たい態度。
――でも……背中に触れた手は温かかった……。
「確かめなきゃ」
「何をです?」
マルガリータはナイトを無視して広間へ駆け込んだ。
そこには音楽と、照明と、人の輪と、テーブルに並べられたごちそうがあったが、王子の姿はなかった。
――いない……? たった今、中に入って行ったのに。
がっかりして俯くと、足下にきらりと光るものが見えた。あの人が落としたのかもしれない。マルガリータは屈んで拾い上げてみた。ガラスの靴でも、指輪でもなく、それは金色の小さな鍵だった。
「それで、王子と踊ることは出来たんですか?」
帰りの馬車の中で、ナイトが尋ねた。
「いいえ」
踊れるわけないがないだろう。彼はあのあと、二度と姿を現さなかったのだから。
ナイトから顔を背け、マルガリータはずっと暗い森を見つめていた。バイオリンの音が聞こえた気がして何度も馬車を止めさせたが、実際には何も聞こえず、あの人と会ったのがどの辺りだったかさえ、判別が付かなくなっていた。
「まだチャンスはありますよ」
余程気落ちしていると思ったのか、ナイトが慰めの言葉を掛けた。
「舞踏会は三日続きます。今夜はまだ一日目。あと二日のうちに、王子の心を掴めばいいわけです」
――簡単に言わないでよ。
マルガリータは握り締めた指の間から、そっと小さな鍵を確認した。全体が金色で、持ち手の部分は輪になっており、真ん中に楕円形の青い宝石がはめ込まれている。
――これは何の鍵だろう。この鍵が開くのはどんな扉……?
私が開かなければならないのは、王子様の心の扉。
簡単ではないことくらい、最初からわかっていた。それでもマルガリータは、やると決めたのだ。この身に掛けられた呪いを解くために。物語の結末を、変えるために。
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