トロイメンの国の物語――下巻
本当のことしか書けない本
――暗い、と思った。
なぜこんなに暗いのだろう。暗くて、寒々しくて、心細い。まるで世界が空っぽのような……。
両手を前に出して数歩進むと、固いものにぶつかった。ドアのようだ。ノブを探り当て、ゆっくりと回す。ドアは外側に向かって開いた。
外は夜だった。生い茂るたくさんの木々を、月の光が明るく照らしている。この場所は知っていた。シュタルクの店の果樹園だ。
――あれ? 私、どうしてここにいるんだっけ……?
戸惑いながら視線を横にずらすと、りんごの木の下にぽつんと一冊の本が落ちているのが見えた。なぜこんなところに? ――そうだ。昨日、自分が落として、そのままにしてしまったのだ。
――昨日? あれは本当に昨日だった? 何だか遠い昔のことのように感じられる。彼と交わした会話さえ、ほとんど思い出せないくらい――。
アリスはりんごの木の根元まで行き、本を拾い上げた。そっとページをめくってみる。
――昔、トロイメンの国に一人の魔女が住んでいた。
魔女は不思議な鏡を持っていた。毎日この鏡に向かって、『世界で一番美しいのは誰か』と尋ねるのだ。鏡は決まって『あなたが一番美しい』と答えた。魔女はそれを聞くと満足した。鏡が嘘を言わないことを知っていたからだ。ところがある日、いつものように魔女が鏡に問い掛けると――。
『鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?』
『この国ではあなたが一番美しい、けれど南の国の姫は、あなたの千倍美しい』
魔女は激怒し、鏡を叩き割った。そして、どうしてくれようかと考えた末、一つの呪いを掛けた。
やがて姫はトロイメンの国の王子と婚約し、城に迎えられた。
魔女は姫の幸せを許さなかった。カラスに姿を変えてトロイメンの城へ行き、城中に響き渡る声で叫んだ。
『私は呪いを掛けた。十六歳の誕生日、王子の婚約者は割れた鏡の欠片に刺され、百年の眠りに落ちるだろう』
話を聞いたトロイメンの国の王様は、国中の鏡を全て捨てさせ、呪いを解く方法を知る魔法使いは城へ来るように、とお触れを出した。しかし、呪いを解ける者は誰もいなかった。強大な力を持つ魔法使いにも、姫を愛する王子にも、どうすることも出来なかった。
運命の日、魔女が城に忍び込み、鏡の欠片を姫に届けた。
『これで王子の心臓を刺せば、お前は助かるよ』
愛する人を犠牲にして助かることなど、姫にはとても考えられなかった。姫は鏡の欠片で自ら胸を刺し、床に倒れた。
王子が駆け付けた時、姫は眠っていた――深く、深く。何度も名前を呼んで揺さぶったが、姫は目を開けなかった。
王子は森の中にある城へ行き、塔のてっぺんの部屋に姫を寝かせた。そして、魔法使いに命じて城を閉ざし、周りを木々やいばらで覆い、付近の森には人を迷わす魔法を掛けさせた。姫が目覚める日まで、百年の間、その眠りが安全に守られるように――
また別のページをめくる。
――昔、トロイメンの国の占い師が、一つの予言をした。
『近い将来、この国に双子の王子が生まれるでしょう。片方は王様の血を引き、清く正しい王になりますが、もう片方はお妃様の血を引いて、悪しき魔の力を持って生まれて来ます。その力はやがて、国に不幸をもたらすでしょう』
占い師の予言通り、数年後、トロイメンの国に双子の王子が誕生した。
王様はお妃様に、『お前は魔女なのか』と尋ねた。
お妃様は『違う』と答えた。
『そうか。だがもし王子のどちらかが魔法を使ったら、私はその子を追放するぞ』
二人の王子は魔法を使わなかった。二年経ち、五年経ち、八年が過ぎる頃には、王様も予言は間違いだったのだと思うようになった。
――けれど、双子の片方は確かに魔力を持っていた。そして、使わずにいることも出来なかった。二人の王子が十歳を迎えた日、ついにそれが明らかになった。
兄王子が魔法を使い、城の外の森にあった川を干上がらせてしまった――。その知らせは王を落胆させた。
『川で溺れた弟を助けるためにやったのです』
兄王子は弁解したが、王様は彼を信じず、また許しもしなかった。
兄王子の追放が決まった時、弟王子は泣いて訴えた。
『兄上は私を助けようとしたのです。私を代わりに追放して下さい』
兄王子は弟王子をなだめ、こう言った。
『もしもお前のナイフが錆びたら、五頭のお供を連れて、必ずこの国に戻って来るよ』
そして、兄王子は国から出て行った。
本のページが風に煽られ、ぱらぱらとめくれた。川の流れの中から、微かにバイオリンの音色が漂って来る。
――この音色は……。
アリスは立ち上がり、川上に向かって歩き始めた。
辺りには霧が立ちこめている。バイオリンの音色以外、何も聞こえない。自分の足音さえ……。アリスは足下に注意しながら川を辿った。川が途切れると、バイオリンの音もふつりと止んだが、もう迷わなかった。そのまままっすぐ足を踏み入れた先に、淡い色の空間が現れた。そして、光の中にぼんやりと立つ、金の髪の若者。
「フィドルさん……」
消え入るような呼び掛けだったが、彼はすぐに気付いてアリスを振り返った。バイオリンはもう引く気がないらしく、切り株の上に置いてある。バイオリンの代わりに、フィドルの手には一冊の本が握られていた。
アリスは目を見開いた。
「その本……」
こちらに向けられた表紙に、『トロイメン』の文字が読み取れる。アリスは自分の持っている本と、フィドルの手にある本を見比べた。
フィドルは微笑んだ。
「こんにちは。……いえ、こんばんはかな」
「やっぱり、フィドルさんだったんですね」
「やっぱり?」
「バイオリンの音が聞こえたんです」
「――ああ」
目を落とすと、フィドルの足下にウサギがいた。月明かりに浮かび上がる、真っ白なウサギ。
「他の子はどうしたんですか?」
フィドルはまた首を傾げた。
「他の子?」
「ほら、あの森の中の小さな家にいた。確かライオンと、キツネと……クマとオオカミでしたね。フィドルさんがバイオリンで……」
「あの子たちですか。さあ、どこへ行ったのか……いつの間にかいなくなっていました。私に付いて来たのはこの子だけです」
白いウサギは何か問いたげにフィドルを見上げた。
「この子だけは……」
ウサギの言いたいことがわかったかのように、小さく頷いて見せてから、彼は続けた。
「この子だけは、どうしても私から離れないんです。何度置き去りにしても、必ず追って来る……」
「きっと、フィドルさんのことが好きなんですよ。置き去りにするなんてかわいそうです」
フィドルは不意に優しい眼差しをアリスに向けた。
「あなたも置き去りにされたんですね」
それは鋭く胸を刺す言葉だった。いたたまれなくなり、アリスは急いで話題を変えた。
「フィドルさん、どうしてここにいるんですか? 確か呪いに掛けられていて、あの森から出られないって言ってましたよね。呪いが解けたんですか?」
「いいえ」
フィドルはゆっくりと首を振った。
「状況は何も変わっていません」
「え? でも……」
「私はここにいるけれど、ここにはいないんです」
「意味がわかりません」
「でしょうね」
「だってフィドルさんは、間違いなくここにいます。姿も見えるし、声も聞こえるし、こうして……」
触ることも出来る――。伸ばし掛けた手を、アリスは途中で止めた。
――そういえば、私、一度もフィドルさんに触ってない。
前に会った時も、フィドルは常に距離を置いていて、触れ合うほど近付いては来なかった。鍵を渡された時でさえ、直接指には触れていない。
アリスは改めて、フィドルをじっと見つめた。フィドルはただ微笑んでいる。月の光に溶けてしまいそうな、淡く霞んだ輪郭。この手は本当に、彼に届くのだろうか。まるで空気を掴むように、通り抜けてしまうのでは……。
アリスが躊躇していると、フィドルは目を細め、アリスが手にしている古い本を見やった。
「その本に掛けられているのがどんな魔法か、知っていますか?」
「え……?」
アリスは本を見下ろし、少し考えてから答えた。
「……本当のことしか書けない魔法」
「ちょっと違う」
「どう違うんですか?」
フィドルは答えず、アリスに自分の持っていた本を差し出した。
アリスはその本を受け取った。二冊の本の表紙に目を落とし、またフィドルを見上げる。
「書いたことが、本当になる……魔法」
その答えを聞くと、フィドルは悲しげに微笑んだ。
「正解です」
アリスは本をまとめて胸に抱え、身を乗り出した。
「フィドルさん、私は何をすればいいんですか? 教えて下さい。私は、どうすれば……」
「呪いを解く方法を、見つけて下さい」
フィドルはゆっくりと言った。
「私には呪いを解くことが出来なかった。だから、あなたに託した。人魚姫は泡になり、眠り姫は百年眠り、王子は本当の姫を見失い――魔女は罰を受けて死んでしまう――そんな結末にはしたくないから」
二人の間を強い風が吹き抜けた。
「物語の結末を、変えて下さい」
風に煽られたページがぱらぱらとめくれ、アリスは支え切れずに本を落としてしまった。拾おうとして屈んだ時、開いたページの文字が目に入った。
――魔女――。
――魔女の手は血まみれだった。周りには鏡の破片が散らばっている。ひざまずいた姿で欠片の一つを見下ろし、魔女は言った。
『お前は幸せになれない』
それは呪いの言葉だった。
『お前も、お前の愛する相手も、幸せになれない。二人一緒に、幸せにはなれない。この呪いを、解くことは出来ない』
魔女の表情が歪んだ。
『これが、犯した罪の報いだ……』
文字が見る見る大きくなり、本を掴むつもりだったアリスの手は、文字と文字の間を突き抜けていた。そして、あっと言う間に体全体が本に吸い込まれ、周り中が真っ白な光に満ちた。アリスは目を閉じ……あとは何もわからなくなった。
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