王子と魔女
――コン、コン。
「入れ」
ノックに答えると、ドアが静かに開いた。
「そなたが王に知らせたのか」
窓際に立っていた王子は、相手の顔を確認するなりそう尋ねた。
婚約発表があった舞踏会の夜が明け、もう昼に近かった。何かとばたばたしていて時間が取れず、今やっと彼を呼び付けることが出来たのだ。
「何の話ですか」とラークスパーは言った。
とぼけているわけではなく、本当に心当たりがないようだ。
「そなたがトロイメンの国の王様に、私がこの国に戻っていることを知らせたのか、と聞いておるのだ」
今度はちゃんと伝わるように、わかりやすく丁寧に説明する。
意味は通じたようだが、ラークスパーはやはり首を振った。
「いいえ。王子のことは何もお知らせしていません。僕はただ、王のところへ挨拶に伺っただけです」
「ばか。そなたが戻ったのなら、私も一緒に戻ったと思われて当然であろう」
「……」
返す言葉がなかったのか、ラークスパーが沈黙したので、王子は質問を変えた。
「人魚姫はどうしている?」
「まだその名前で呼ぶんですか」
「……」
今度は自分が沈黙する羽目になった。この男に対して優位に立つのは難しいと、しみじみ思う。
事実、王子は彼女を本来の名で呼ぶことを避けていた。彼女を守るためだと言い聞かせていたが、心の底では、ただ彼女に気付かれるのを恐れていただけなのだ。――自分が同じことをされたら怒るくせに。
王子が黙っていると、ラークスパーの方が先に王子の質問に答えた。
「彼女は城にいます」
「この城に?」
「下働きでも何でもすると言うので、台所を手伝ってもらうことにしたんです」
「ああ。それで、スープの中に指輪を落とすのか」
「ケーキの中かもしれませんよ。午後になったら、ケーキに入れる果物を取りにシュタルクの店に行って下さいと、彼女に頼んでありますから」
「……」
王子は沈黙した。――今度の沈黙は長かった。
――同じ日の夕刻。シュタルクの店の果樹園で、アリスはいちごを摘んでいた。
「はあ」
さっきからため息しか出て来ない。これからどうしようと、そればかり考えていた。
昨日――いや、もう日付が変わっていたから今日か――どうやって舞踏会から帰って来たのかもよく覚えていない。いつの間にかそばにラークスパーが立っていて、アリスはその腕に縋って、帰りたいと訴えた。それから――。
それからずっと、どうしようと考え続けている。
どうしようもない――わかっているのだ。あの人は私の手の届かないところへ行ってしまった。きっともう、会うことさえ出来ないんだ。
アリスはいちごに手を伸ばし、また重いため息をついた。
「はあ」
「そんなに嫌なら代わろうか?」
背後から、今まさに会いたいと思っていた人の声が聞こえた。なぜこうもこの人は、神出鬼没に現れるのか。
「スワン王子」
アリスは振り返ってその人の名を呼んだ。それから、気付いて言い直した。
「いえ……アズマラカイト王子」
「スワン王子の方が呼びやすいなら、そう呼んでもいいが……本物のスワン王子が現れた時困るかな」
王子はアリスをまっすぐに見つめた。
「疲れておるのか? 川からそなたのため息がひっきりなしに流れて来ておったぞ」
アリスは王子から目を背けた。今は顔が見られない。彼がスワン王子の姿をしていた時はまだ良かった。自分だけではなく、相手も別人だったのだから。
「あの……スワン王子というのは架空の人物ではないんですか?」
いちごの籠が気になる振りをしながらアリスは聞いた。
「ダークさんはその人の噂を聞いたことがあるって言ってましたけど」
「北の国のスワン王子は実在する人物だ。ラークスパーが以前関わったことのある王子らしい。姿と名前を借りることには許可を取ってあるから心配ない、と申しておった」
「結局、みんな嘘つきだったんですね」
「私は嘘は言っていない。スワン王子だと名乗った時、私はちゃんとスワン王子の姿をしていた」
「それは屁理屈です」
「お前だって、嘘の名前を言ったじゃないか」
王子は急に口調を変えた。
「お前は魔女だろう」
アリスの手を掴み、その手を自分の口元に持って行く。
「……俺の魔女」
アリスは狼狽した。力任せに王子の手を振りほどき、転がるように逃げ出した。
「こら、待て」
待てない。木々の間を通り抜け、ひたすら走る。走って走って、最後にりんごの木の陰にさっと飛び込んだ。
「魔女」
王子が呼んでいる。――呼ばないで。心が揺れるから。
「怒らないから出ておいで……」
声が少しずつ遠ざかる。――行かないで。私はここよ。
「魔女」
王子は呼び続ける。あの日、彼女が彼を呼び続けたように。
「魔女」
アリスは堪らなくなり、木の陰から僅かに顔を覗かせた。
気配に王子が振り返った。アリスを見つけると、ほっとしたように微笑む。
「さあ、ここに来て、何があったのか話してごらん」
王子の声音は優しかった。それは慣れ親しんだ温もりのように、アリスの心を溶かしてくれた。
「お兄ちゃん……」
小声で、アリスは呼んだ。
――お兄ちゃん。
私には、お兄ちゃんしかいなかった。ひとりぼっちになった私を、お兄ちゃんが見つけて、育ててくれた。ずっとそばで守ってくれた。この世で一番、大切な人。
お兄ちゃんと初めて会ったのは、暗い夜の公園だった。
細かい雨がしとしと降っていて、辺りは物悲しさに包まれていた。物悲しく、ひとりぼっちで、とても心細かった。月も星も見えない、冷たくて寒い夜。ただ凍えないように丸まって、震えているしかなかった。――そんな時、お兄ちゃんが声を掛けて来たのだ。
「お前、行くところがないのなら、俺のところへ来ないか?」
お兄ちゃんはそう言って笑った。
ひとりぼっちで、どうしていいかわからなかったから、黙ってお兄ちゃんに付いて行ったんだ。
お兄ちゃんが住んでいたのは古びた洋館だった。お兄ちゃんは「空き家なんだ」と言ってまた笑った。お兄ちゃんはよく笑う人だった。
「お前のことは魔女と呼ぼう。黒い髪は魔女の証だからね」
勝手に人の名前を付けて置いて、自分は名乗らない。だからこっちから聞いた。
「お兄ちゃんの名前は何ていうの?」
「え、俺の名前? 聞いてどうするんだい?」
お兄ちゃんは笑いながら問い返した。
「名前を聞かないと、何て呼んだらいいかわからないじゃない」
「俺は王子」
「王子? それが名前なの?」
「親はそう呼んでた」
「名付けのセンスは親譲りなのね」
「でも、お前は俺を王子とは呼ばないで欲しいな。そう呼ばれるのはあまり好きじゃないんだ」
名前が王子なのに、王子と呼ぶなと言われたら、何て呼んだらいいのかいよいよわからなくなる。仕方がないので、最初に呼んだまま、ずっとお兄ちゃんと呼ぶことにした。
お兄ちゃんは優しかった。書斎にある本を片っ端から読んで聞かせてくれたし、熱を出した時は一晩中看病してくれた。それに、お兄ちゃんはほとんど家の外に出なかった。出掛けるのは生活に必要なものを調達しに行く時だけだ。だから、いつも一緒だった。
「この世界の人間とは、あまり関わりたくないんだ」と、お兄ちゃんは言った。
「あいつも今孤独だろうから、俺も孤独でいなくちゃいけないと思うんだよ」
それからこっちを見て、申し訳なさそうに笑うのだ。
「そうだ、お前がいたんだっけ」
お兄ちゃんの言うことは、理解出来ないことばかりだったけれど、それでも良かった。そばにいられるだけで幸せだったから。
「俺は別の世界の人間なんだ」
お兄ちゃんはいつも唐突に語り出す。
「その世界で俺は王子だった」
「へえ、そうなんだ」
おざなりに相槌を打たれても、お兄ちゃんは気にしなかった。
「罪を犯した罰として、この世界に追放されたんだ。いつか迎えが来たら、俺は自分の世界へ帰らなきゃならない」
「かぐや姫みたい」
「信じてないね」
「信じてるよ。私だって、本当は別の世界のお姫様だもん」
もちろん、信じてはいなかった。お兄ちゃんがいつも話してくれる物語と同じようなものだと思っていたのだ。けれど、その話は本当だった。
「お前とは、これでお別れだ」
ある日突然、お兄ちゃんがそう告げた。
「俺は旅に出る。多分長くなると思う。もしかしたら、もう戻って来られないかも……」
――何、それ。意味がわからない。私はどうなるの?
「お前を置き去りにするのはつらいけど、お前だってもう、充分一人で生きて行ける年頃だよ。そうだ、嫁に行くといい」
「どうしてそんなこと言うの? 私はお兄ちゃんが……」
「俺がいなくなったら、俺のことは忘れろ」
「そんな……」
「全部忘れて幸せになれ。二度と会えなくても、俺は永遠にお前を愛している」
あまりにも唐突過ぎて、色々考えている暇がなかった。――ううん、考えている場合じゃない。まずは止めなくちゃ。お兄ちゃんと別れるなんて、絶対に嫌だ。
「ちょっと待ってよ!」
叫んで、お兄ちゃんに飛び付く。お兄ちゃんは床に押し倒され、背中をしたたか打った。
「いって……乱暴だな」
こっちだって必死だ。ここで離れたら本当に、二度と会えない気がする。
「わかるように説明してよ。理由を言って」
無駄だとわかってはいた。お兄ちゃんはいつも余計なことは一切言わない。いつも、要点だけで済ませてしまう。この時もそうだった。
お兄ちゃんは悲しそうに目を伏せた。
「……ごめん」
必死でしがみついていたつもりなのに、簡単に押し退けられてしまった。悔しい。力ではお兄ちゃんに敵わない。
「待って!」
階段を上がり、お兄ちゃんが向かったのは書斎だった。
「お兄ちゃん!」
少し遅れながらもあとを追って駆け込むと――。
「……お兄ちゃん?」
中には誰もいなかった。お兄ちゃんも、どこにも……。
「お兄ちゃん……?」
足を止め、うろたえて見回す。
「お兄ちゃん、どこ……?」
一瞬、はっとした。ドアの正面に大きな鏡が掛けられている。そこにお兄ちゃんの後ろ姿が映っていたのだ。――いや、違う。お兄ちゃんは――鏡の中にいた。
「お兄ちゃん!」
鏡に体当たりしたけれど、中には入れなかった。
――お兄ちゃんはどうやって中に入ったの? どうやったら中に入れるの? どうやったら、お兄ちゃんを引き止められるの?
出来るのは呼び続けることだけだった。
「お兄ちゃん! 行かないで!」
お兄ちゃんが僅かに顔を振り向けた。
「俺は、行かなくちゃ」
その顔に、寂しげな微笑みが浮かぶ。
「戻らなきゃ……俺の世界へ」
――お兄ちゃん? 何言ってるの……?
「だって、そういう物語だろう?」
「お兄ちゃん!」
声を限りに叫んでも、お兄ちゃんはもう振り返らなかった。背中がどんどん遠ざかり、小さくなって行く。
「お兄ちゃん! 待って、お兄ちゃん! ――お兄ちゃん!」
そのまま、お兄ちゃんの姿はふっと消えて、見えなくなった。
「お兄ちゃん――!」
――お兄ちゃんは行ってしまった。そして、二度と戻って来なかった。
「お兄ちゃんに置いて行かれたあと、諦めきれなくて、私は鏡の前で待っていたの。何日も何日もずっと。どれくらい経ったかわからない。そしたらあの日、声が聞こえたんだ。『王子のところへ行きたいか?』一瞬、何を言われたのかわからなくて戸惑ったけど、とにかく私は『はい』って答えた。今思えばあれは鏡から聞こえた声だったのね。『ならば行かせてやろう』って、鏡の中の声は言った。『ただし、お前は王子の心を自分のものにしなければならない。もし、王子が別の誰かと結婚したなら、お前は泡になって消えてしまうだろう』って」
話し終えると、アリスは長い息を吐き出した。
二人が今向かい合っているのはりんごの木の陰だ。王子はじっと座って考え込み、アリスは幹にもたれて王子の反応を待っていた。
やがて王子も長い息を吐き、アリスを見上げた。
「こっちに来て、座って」
アリスは言われた通りにした。
「お前が俺を追って来るなんて……」
王子はアリスの髪を、愛おしむように優しく撫でた。
「あの、小さな魔女が」
アリスは泣きそうになった。けれど、それが嬉しいからなのか、それとも悲しいからなのか、よくわからなかった。
「私が魔女だって、いつわかったの?」
「最初はわからなかったよ。お前は前と変わっていたし」
「でも、最初に魔女かって聞いた」
「そうだな。最初から疑ってはいた」
「魔女だってわかってたのに、どうしてキスしたりしたの?」
「……キスくらい、前にもしたことあるだろう」
「でもあれは、そういうキスじゃなかったもん!」
「よくわかるな……経験もないのに」
「お兄ちゃん!」
「わかったわかった、悪かった」
王子はなだめるように、またアリスの頭を撫でた。
「お前が魔女だって確信はなかったし、それに……別にそれでもいいかなって」
「良くないです! だって……だって、お兄ちゃんは……王子はあの人と結婚するんでしょう」
最初は威勢の良かった声が、だんだん弱々しくなって行く。
「あの人?」
「婚約したって、昨日」
「ああ、そのことか」
「何ですか、その、どうでもいいみたいな言い方」
「俺にもよくわからないんだ。なぜ彼女が婚約者になったのか」
「だって……」
「俺は彼女と結婚するつもりなんかないよ」
「だって」
「だってじゃない」
王子は真剣な目でアリスを見た。
「俺は、お前を泡にしたくない」
「それって同情だよね」
「愛してるからだよ」
アリスは涙を堪えながら首を振った。
「でも……それは、違うよ。私の欲しい愛じゃないよ……」
「魔女」
もう何も言わせまいとするかのように、王子が両手を広げた。
「おいで」
アリスはその胸に飛び込んだ。力強い腕がアリスの体を包み込む。二人はしっかりと抱き合った。
「置き去りにしてごめんな。これからはずっと一緒だ。もうどこかへ行けなんて言わないよ」
「お嫁に行けとも言わない?」
「ああ。俺以外のところに嫁になんか行くな」
アリスは王子の背中に回した手に力を込めた。ずっとこうして抱き締めたかった。でも、出来なかった。彼は手の届かない人だった。今は違う。どこへも行かないように抱き締めて、誰にも傷付けさせないように、この手で守ることだって出来る。
「私はあなたのそばにいます」
アリスは涙の中で笑い、心から言った。
「私はあなたのそばにいます。あなたが危険な目に遭った時は、その危険から、私があなたを守ります」
「違うよ、魔女」
王子がアリスの言葉を訂正した。
「俺がお前を守るんだ」
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