夜中の零時に解ける魔法

 夕方近くなって、ラークスパーがアリスの部屋をノックした。

「入ってもいいですか?」

「どうぞ……」

 アリスは窓辺に座り、ぼんやり外を眺めていた。その窓は裏庭に面していたが、見えるのはあの広い果樹園ではなく、物置と井戸があるだけの質素な庭だった。多分、こっちが本当の庭なのだろう。

 ラークスパーが部屋に入って来てドアを閉めた。

「スープくらい飲みませんか?」

 スープくらいと言いながら、トレイにはスープの他に、サンドイッチとタルトとオレンジジュースが載っていた。

 それを横目で見たアリスは、断れない気がしてスプーンを手に取った。おとなしくスープを飲み、デザートも少し食べる。

「これ、裏の果樹園で採れた果物ですか?」

 アリスはいちごとブルーベリーのタルトを指差して聞いた。

「そうですよ」とラークスパーは答えた。

「ラークスパーさんが育てているんですか?」

「仲間と一緒に世話をしています」

「それで、どこにいてもすぐ見に行けるように、魔法のドアを作ったんですね」

 ラークスパーはすぐには答えず、少し考えた。

「ドア……というよりは、鍵です。『魔法の鍵』。行きたいところを念じて回せば、どこにでも繋がるんですよ」

 アリスは地下の通路で見たスワン王子の光る鍵を思い出した。

「……もしかして、あの金の鍵?」

「いえ、特定の鍵ではなく、鍵なら何でもいいんです。鍵じゃなくてもいいし、鍵なんかなくてもいいんですけどね。形があった方がやりやすいので」

 ラークスパーの言っていることはよくわからなかった。アリスは考えようとした。けれど考える前に、ラークスパーが話題を変えた。

「それで、王子に何を言われたんですか?」

 見透かされていたことに戸惑いながら、アリスは俯き、フォークを指でもてあそんだ。

「……お嫁に行けって、言われました……」

「お嫁に行くんですか?」

「行きませんよ。第一、相手がいません」

 ふてくされたようなアリスの表情を、ラークスパーは不思議そうに見た。

「じゃあ、お城の舞踏会に行ってみますか?」

「舞踏会?」

 アリスは顔を上げてまばたきした。

「私がですか?」

「誰でも行っていいんですよ」

「でも、舞踏会が開かれていたのは昨日でしょう」

「三晩続けて開かれるんです。この国の王子アズマラカイト様の、結婚相手を選ぶための舞踏会ですから」

「童話の真似、ですね。どこの国でもそうなんですか?」

「そうとは限りませんが」

 ラークスパーは笑った。

「アズマラカイト王子だけでなく、方々から王侯貴族が大勢集まります。運命の出会いがあるかもしれませんよ」



 ――ああ、やっぱり場違いだ……。

 城に着くなり、アリスが真っ先に抱いたのはそんな印象だった。

 ラークスパーはアリスを広間の入り口まで送ってくれたが、中には入ろうとしなかった。

「一緒に来てくれないんですか?」

 引き返そうとするラークスパーを呼び止めると、彼は申し訳なさそうに笑った。

「やることがあるんです」

「スワン王子もそう言ってました」

 アリスは急に心細くなり、自分の着ている薄桃色のドレスを見下ろした。

「あの……ラークスパーさん」

「はい?」

「……私の格好、変じゃないですか?」

 ラークスパーはアリスに笑顔を向けた。

「大丈夫。べっぴんさんですよ」

 その言い回しがおかしくて、アリスもぎこちないながら笑顔を作った。

「どうしたんですか? さっきあれほど威勢良く『行きます』と言った人とは思えませんね」

「威勢良くなんて言ってません。……ただ、スワン王子があんまりひどいから……私はスワン王子が心配だっただけなのに」

「その気持ちは伝わっていると思いますよ」

 ラークスパーは優しく微笑んだ。

「さあ、そんな不安そうな顔をしないで。堂々と胸を張って、踊って来て下さい」

「無理です」

「無理ですか」

 アリスは下を向いた。

「だって、やっぱり、場違いです。私はお姫様じゃないし……童話の中のお姫様みたいに、魔女さんが魔法を掛けてくれたら、勇気が出るかもしれないけど……。あ、あれは仙女でしたっけ」

「そうですね……」

 ラークスパーは荷物を地面に下ろし、中身をごそごそと探った。

「魔女も仙女もここにはいないから、僕が代わりに魔法を掛けてあげましょう」

「……?」

 アリスはドレスの裾を持って、ラークスパーの手元を覗き込んだ。

「どうぞ」

「あ……」

 彼が取り出して見せたのは、小さなガラスの靴だった。



 ――やっぱり、場違いだ。

 まるで呪いの言葉のように、アリスはまた同じ言葉を呟いた。

 大勢の男女が行き交う広間の片隅で、彼女は一人壁の花になっていた。楽しい音楽も賑やかなお喋りも、慰めにはならなかった。一層惨めになるだけだ。眩しいくらい明るく、はじけるような空気の中で、孤独が胸を支配した。

 ――みんな、楽しそう。

 アリスは脱け殻になったような空虚な気持ちでダンスを眺め、音楽に耳を傾けた。

 ――ああ、せめてラークスパーさんがいてくれたら良かったのに。

 ラークスパーはアリスに靴を渡すと、にこやかに手を振って行ってしまったのだった。魔法が解ける時間になったら迎えに来ます、と言い残して……。

 夜中の零時はまだまだ先だ。つまり、当分迎えは来ないということだ。アリスはため息をついた。

 ――やっぱり、来なければ良かった。

「おお、これはこれはお美しい姫君だな、ダンスのお相手をしていただけますか?」

 雨降りみたいなアリスの心とは裏腹に、上天気な声が後ろから聞こえた。

 まさか自分に言ったのではないだろうと思いつつ、アリスは振り返った。そして、目を見張った。

「……ダークさん?」

「あ、何だよ、その顔は。こんな華やかな場所には不釣り合いな奴だ、とでも思ってるのか?」

「そんなこと思ってないですよ」

 確かに、全身真っ黒な彼の出で立ちは、この場には相応しくない気もしたが。

 ダークはアリスの隣に立ち、顔を覗き込んだ。

「本当か?」

「はい。だって、私の方がもっと釣り合ってませんから」

「そんなことはないよ」

「本当ですか?」

「ああ。すごくきれいだ」

 アリスは微かに顔を赤らめて笑った。お世辞だったとしても、素直に嬉しいと思った。

「ありがとうございます」

「ところで、一人で何やってるんだ? パートナーはどうした?」

「パートナーなんていません」

「スワン王子は?」

「……」

「もしかして、振られたのか?」

 アリスがぷいと横を向くと、ダークもさすがに悪いことを言ったと思ったのか、アリスのご機嫌を取り始めた。

「俺で良ければダンスの相手になるぞ。あ、何か飲むか? 食べ物の方がいいかな」

「いりません。欲しくないです」

「そう言わずに。適当に持って来てやるから」

「それより、ダークさん」

 アリスはその場を離れようとするダークを引き止めた。

「私まだ、ダークさんが何者なのか聞いていません」

 ダークは動きを止め、数秒置いてから振り返った。

「俺が何者かって?」

「パール姫とカーネリアン王子の手助けをしたって聞きましたけど、あの二人とどういう関係なんですか? ダークさんはいばらの城や眠り姫について色々知っていたし、あの二人もそうでした。ちょっと調べたくらいでは、わからないようなことまで――だから、ダークさんがトロイメンの国の王子だと言った時も、私は半分信じてしまったんです」

 ダークはアリスの立っている場所まで戻って来た。

「で、お前の見立ては? 俺の正体を何だと考えているんだ?」

 アリスはダークを見上げ、冷静に言葉を継いだ。

「クリスタロス王子の子孫でないなら、ダークさんは……クリスタロス王子に命じられて、いばらの城を閉ざした魔法使い――の、子孫か縁者じゃないかって考えています」

「……へえ」

「自分の代わりに姫の幸せを見届けるよう頼んだのは、クリスタロス王子ではなく、その魔法使いだったんじゃありませんか? 魔法使いだって、自分の掛けた魔法がちゃんと姫を守ってくれたかどうか、気になっていたはずです。それにダークさんは、目覚めた眠り姫が逃げるつもりだと最初から知っていたんでしょう? でないと色々おかしいです」

「そうか?」

「そうですよ」

「わかった。続けろ」

 ダークは腕組みをし、そのまま一歩後ろに下がった。

「いばらの城に魔法を掛けた魔法使いは、姫が目覚めたらすぐに逃げることを知っていた。だから地下の通路を作った。そして自分の子孫に、百年経って魔法の効き目が切れたら、代わりの姫をいばらの城に連れて来るようにと頼んだんじゃないでしょうか。肖像画があったのはそのためです」

「肖像画?」

「はい。偽者の眠り姫が、本物の眠り姫の肖像画を見て、うまくその姿を真似られるように」

「……なるほど。俺がその、魔法使いの子孫ってわけか」

 アリスはダークをまっすぐに見つめた。

「はい、そうじゃないかと」

「俺は魔力を持ってないぜ」

「子孫だからって、必ず魔力が遺伝するとは限りません。スワン王子もそう言ってました」

 ダークはしばらく黙っていた。口元に笑みを浮かべ、やがてため息と共に「そうか」と言った。

「お前、意外と鋭いな」

 アリスは少し後ろめたくなった。

「いえ、あの、トロイメンの城を出て宿屋に向かっている時、ラークスパーさんが言ってたんです。あそこまで話して置きながら、なぜ肝心のところを隠すのかって」

「ああ……まあ、あいつには見抜かれているだろうと思ってたよ」

 呟いてから、ダークは急にぱっと笑顔になった。

「せっかくの舞踏会だ。一曲踊らないか?」

「え?」

 アリスはダークの不自然な変わりように面食らった。

「ほら。次はワルツだ、踊れるだろう?」

 ダークの手がアリスに向かって差し出される。

「あ……はい」

 ダークの手を握ろうとして、アリスは一瞬躊躇した――その時。

「悪いが、彼女は私の相手ゆえ」

 別の誰かがアリスの手を取った。

「スワン王子!」

 アリスは驚いて振り返った。

 スワン王子はちらっとアリスを見てから、ダークに言った。

「そなたは他の相手を探してもらえるか?」

 ダークはあっさり引き下がった。

「ああ、そうだろうと思ってたから、別に構わないよ」

「ありがとう」

 スワン王子はアリスを連れて行こうとした。

 アリスはダークを見上げた。――もしかして、スワン王子に気付いていて、わざと……?

「あ、アリス」

 二人が立ち去る前に、ダークはアリスに声を掛けた。

「俺はこれから、逃げた眠り姫の行方を探すよ。姫がどうなったか見届けないと、ご先祖に申し訳が立たないからな」

 アリスはもう一度ダークを見ようとしたが、スワン王子に引っ張られたため振り返ることが出来なかった。

 スワン王子はアリスの腕を掴んだまま、大股で広間を横切った。

「スワン王子……」

 アリスはスワン王子の背中を見つめた。抱き付きたい……と思ってしまい、恥ずかしくなって下を向く。

 広間の中央まで来ると、スワン王子はアリスに向き直った。

「踊ろう。踊っていないと注目を浴びる」

「は、はい」

 促されるままにアリスは体を預け、スワン王子とワルツを踊り始めた。

「来てくれたんですね」

「そなたが王子と結婚するために、美しく着飾って舞踏会に出掛けたとラークスパーに聞いてな」

「それ、微妙に嘘です」

「ラークスパーは嘘は言わぬ」

 二人はしばらくの間くるくるとステップを踏んだ。

「上手だな、人魚姫。まるで猫のように軽やかに踊る」

「ダンスは好きなんです」

「だが……足をどうした?」

「え? ああ、大丈夫です。靴が大き過ぎるだけですから」

「その靴は?」

「ラークスパーさんが用意して下さったんです。でも、サイズが合わなくて……」

 スワン王子は妙に嬉しそうな顔をした。

「そうか。そなたはラークスパーの花嫁ではなかったというわけだな」

「何の話ですか」

「向こうに行って休もう。靴を脱いだ方が良い」

 ダンスの余韻を残したまま、スワン王子はアリスの手を引いてテラスに出た。アリスを手すりに座らせ、自分はその前にひざまずく。

「これは銀の靴だな。……ガラスの靴かと思ったが」

「ガラスの靴はいくら何でも歩きにくいので、替えてもらったんです」

「なるほど」

 アリスの足の具合を見ながら、スワン王子は笑った。

「銀の靴のかかとを三回打ち合わせると、何が起こるか知っているか?」

 アリスも笑った。

「知ってますよ。三歩でどこでも行きたいところへ行けるんですよね。ラークスパーさんの鍵みたいに」

 笑い合ったあと、二人は無言になった。どこか気まずい沈黙が流れる。

「あの……もう大丈夫ですから、広間に戻りましょう」

 立ち上がろうとしたアリスの手を、スワン王子が掴んだ。

「待て、まだ終わっておらぬ」

 アリスはどきっとして見下ろした。

「これをやる」

「え?」

 スワン王子は左手でアリスの手を持ち、右手には何か小さなものを握っていた。彼が指を開くと、それはきらりと青く光った。

「指輪……?」

「そう。呪いをはじいてくれるお守りだ」

「これを私に?」

「そなたはトロイメンの国を離れる気はないのであろう。何か身を守るものが必要だ」

「でも、こんな高価そうなもの、いただくわけには」

「着けないのなら、この国を出て行ってもらうぞ。どちらが良いのだ?」

「わかりました。着けます」

「よし、はめてやるから手を出せ」

 スワン王子はアリスの手を取り、そっと指輪をはめた。

「……結婚式みたいだな」

「スワン王子ったら……」

 アリスは頬を赤くした。その頬に、彼は吸い寄せられるようにキスをした。それから、瞳に――そして――唇に。

 ボーン、ボーン……と、城のどこかで時計が鳴り始めた。

 ボーン、ボーン……。

 突然、スワン王子はアリスを強く抱き締めた。

 ボーン、ボーン……。

「魔法が解ける時間だ」

 アリスの耳元に、微かな呟きが落ちる。

 ボーン、ボーン……。

「……本当のことを、話さなければならないな……そなたにも」

 憂いを帯びたその低い声は、しかし、スワン王子のものではなかった。

 ボーン、ボーン……。

 不意にアリスを包む腕の力が緩んだ。

 ボーン、ボーン……。

「スワン王子?」

 見上げた先にある顔は、スワン王子のものではなかった。けれど、知らない顔でもなかった。金の髪に青い瞳。懐かしい、優しい眼差し。アリスはその顔から目が離せなかった。

「あなたは……」

「王子、ここにいらしたんですか。先程から王が探しておられますよ」

 無粋な声が、二人の間に割り込んだ。

 テラスと広間を仕切るカーテンの脇に、使用人らしき若い男が立っている。

「今行く」

 王子は答え、アリスから離れた。

 ――待って。

 伸ばした手は届かなかった。まるですり抜けるように、王子は行ってしまった。アリスは少しの間動けずにいたが、やがて足をもつれさせながら、必死に王子を追い掛けた。

 ――どういうこと……? これは一体、どういうこと?

 王子は広間の中央に、王様らしき男性と並んで立っていた。その場にいる全員が二人に注目している。

「スワン王子……」

 人だかり越しに彼を見つめながら、アリスは無意識に呟いた。

 ――違う。あれはスワン王子じゃない。では、誰なのか。

 王が咳払いした。

「この度、我が息子、トロイメンの国のアズマラカイト王子が、婚約することと相成った」

 祝福の声が上がる。皆が王子を取り囲む。熱気とざわめきの中、輪の中心に立つ王子と、彼の前に進み出る金のドレスの姫君を見つめ、アリスはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

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