トロイメンの都

 ――明るい、と思った。

 朝だ。日の光が射し込んでいる。ここはどこだろう。

 アリスは体を起こした。ここは――ベッドの上。どうしてここにいるんだっけ。そう。確か、昨日――。



 昨日、アリスとスワン王子が地下から戻って塔の外へ出た時、ドアの前で待っていたのはラークスパーだけだった。

「他の者は?」

 スワン王子が聞くと、ラークスパーは、「舞踏会へ行きました」と答えた。

「えっ、行ったのか。物好きな」

「今城から出て行くのも目立ちますからね。少し時間を潰して、舞踏会から帰る振りをして門を通ろうということになったようです」

「私は行かぬぞ」

 スワン王子は早口に言った。

「今日は疲れたし、夜が更けぬうちに宿に落ち着きたい。目立つなら裏門から出よう」

 ラークスパーはおかしそうに笑った。

「わかりました。そうしましょう」

 三人はそのまま城を出て、夜の町を歩き、ラークスパーが導くままに宿に入り、何もしないで部屋に直行し、そしてそのまま寝てしまったのだった。



 ――ああ、そうだ。ここは宿屋だ。スワン王子とラークスパーさんは隣の部屋にいる。

 アリスはほっとした。

 ――大丈夫。一人じゃない。

 ベッドから出て、部屋のドアを開けてみた。隣のドアをノックしたい衝動に駆られたが、二人共まだ眠っているかもしれないと考え、思いとどまる。代わりに階段を降り、突き当たりにある入り口から食堂に入り、そこを突っ切って外へ続くドアを開けた。

 宿の中に人はいなかったが、外にはいた。それもたくさん。話し声や笑い声がわっと耳に飛び込んで来て、アリスは慌ててドアを閉めた。

「ああ、びっくりした……」

「どうしたのだ?」

 真後ろでスワン王子の声がした。

 アリスはますます慌て、あたふたと振り返った。

「ス、スワン王子、いつからそこに?」

 スワン王子は奥の厨房を指で示した。

「ラークスパーが朝食を作っているので、覗いて来たのだ」

 言われてみれば、パンのいい匂いがする。

「えっ、この宿屋って、ラークスパーさんが経営しているんですか?」

「いや。ラークスパーではなく、ラークスパーの知り合いの店らしい。時々手伝うのだと申しておった。……外に何かあったのか?」

「あ、違うんです」

 アリスは顔の前で手を振った。

「ただ、人があんまりたくさんいるからびっくりして……」

「ああ。昨夜は時間が遅かったし、舞踏会もまだ終わっていなかったゆえ、人通りはなかったな。普段はこんなものだぞ」

「そうですね。人気ひとけのない森やお城にずっといたせいで、世の中にはたくさんの人がいるんだってこと、忘れてました」

「さよう、人はたくさんいる。この国にも、この国の外にも。そして……」

 スワン王子は言葉を切り、ためらう素振りを見せてから続けた。

「そなたの王子も、きっとどこかに……」

「え……」

「その、サフィルス王子は違ったようで……残念だったな」

「あ……」

 アリスは思わず笑ってしまった。

「だから違うって言ったじゃありませんか。残念だなんて思っていませんから、安心して下さい」

「そ、そうか」

「そうですよ」

「そうか……」

 スワン王子はテーブルを囲む椅子の一つに腰を下ろした。

「そなた、これからどうするのだ?」

 アリスはスワン王子に近付いたが、椅子には座らなかった。スワン王子がアリスを見上げる。

「私……」

 言葉を選びながら、アリスは言った。

「これからどうするのか……わかりません。まだ、決めてません……」

 二人の視線が絡み合った。今度はスワン王子が口を開く。

「もし、そなたさえ良ければ……」

 その時、カランカランと音を立て、表のドアが開かれた。

「いやー、申し訳ない、店を留守にしちまって……」

 入って来たのは恰幅の良い、五十がらみの男だった。アリスはびっくりして跳ね退き、スワン王子はさっと立ち上がってアリスの前に出た。

 大男は抱えていた紙袋をテーブルの上にどさっと置いた。

「おお、あなたが今、ラークスパー様が面倒を見ておられる王子様ですかな」

「……この宿の主人か?」

 スワン王子は緊張の色を浮かべていたが、相手が頷くと力を抜いた。

「私はスワン王子だ。世話になる」

「なあに、ラークスパー様のお知り合いなら、いつでも大歓迎ですよ」

 宿屋の主人は自分はシュタルクだと名乗って頭を下げ、いそいそと厨房に入って行った。

「この国では、王子様より魔法使いの方が位が上なんですか?」

 シュタルクを見送りながら、アリスは疑問を口にした。ラークスパーへの敬意の表し方が尋常でないように思われたのだ。

「ラークスパーが特別なのではないかな」

 一応答えたものの、スワン王子も確信は持てない様子だった。彼自身、よく知らないのかもしれない。

「……まあ、この世界は元々魔法使いが作ったものだと言われておるが」

「魔法使いが作った?」

「外の世界を追われた魔法使いたちが、自分たちだけで生きるために魔法で作り出したのが、この世界の始まりとされている」

 スワン王子はどこか遠い目をして言った。

「人魚姫を作った魔法使いの話をしたであろう? あれも手っ取り早く民を増やすためだったらしい」

 アリスは熱心に耳を傾けていた。

「その話、読んでみたいです」

「ああ。では、食事のあとで本を貸そう」

 スワン王子がそう言って話を切り上げたのは、ちょうど厨房の戸が開いて、ラークスパーとシュタルクが朝食を運んで来たからだった。



 朝食を済ませるとすぐ、スワン王子は用があると言って出掛けてしまった。行く前にトロイメンの本を渡してくれたので、アリスは部屋に戻って午前中いっぱい読書に耽った。



 ――娘はトロイメンの国の王子に、自分の正体を明かした。

『私は人魚姫なんです。王子様と結婚出来ないと、私は海の泡になって消えてしまうんです』

 娘を哀れに思った王子は、彼女と結婚すると約束した。

『私の妻になれば、お前は完全な人間になれる』

『私を愛して下さいますか?』

『愛しているよ』

 二人は固く抱き合った――



 ――コン、コン。

 ノックの音で、アリスは現実に引き戻された。

「アリスさん、アリスさん」

 シュタルクの声だ。アリスはドアを開けた。

「昼食の時間ですよ、アリスさん」

「スワン王子は?」

「今し方お戻りになったが、話があると言って、ラークスパー様と庭に出て行かれたよ。あなたには先に召し上がるようにと」

「私もお二人を待ちたいけれど……」

「いやいや、食事はきちんと取らないと、ラークスパー様が心配なされる。昨夜も何も食べずに寝てしまったととても気にしておいでだった」

 アリスは顔を綻ばせた。

「わかりました。すぐにいただきます」

 シュタルクは嬉しそうに頷き、お部屋へ運びましょうかと尋ねた。

 アリスは少し考え、食堂で食べますと答えた。ラークスパーとスワン王子に会って、挨拶して置きたいと思ったのだ。ついでに、この本も返そう。 

 アリスは本を持ったまま、シュタルクと一緒に階段を降りた。シュタルクが食卓の準備をしている間に、裏口から外に出る。

 ――そこは庭というより、まるで果樹園のようだった。りんごや梨、見たことのない実を付けている木もたくさんある。そして、やたらと広かった。宿屋の裏にこんな場所が……?

 何気なく後ろを見たアリスはぎょっとした。そこにあったはずの宿屋の建物がなくなっていたのだ。周り中広大な森に囲まれて、アリスが出て来たドアだけが、木の枠にはまってぽつんと浮かんでいた。

 ――これ、魔法のドアだったんだ。

 アリスはドアにそっと触れてみた。僅かに開いたドアの隙間からは、ちゃんと宿屋の中が見えている。

 ――どうしよう……。

 辺りに目を走らせ、アリスは思案した。ドアが消えたり、どこにあったかわからなくなったりしたら困るので、ラークスパーたちを探しに行く気になれなかったのだ。

 ドアのそばをうろうろしていると、不意に声が聞こえて来た。

「物語はどこまで進んでいる?」

 スワン王子の声だ。

「王様はごまかすばかりで、何も教えてくれなかった」

 くぐもった、ゆらゆらとたゆたうような声。どこから……?

 アリスは下を見た。足下に小さな川があり、キラキラした水が流れている。スワン王子の声はその水の中から響いていた。水と一緒に声が流れて来ているのだ。

「そうだ」

 スワン王子の声。

「ただ、門番の話によると、カラスは確かに飛んで来たらしい」

 少し間が空いて、またスワン王子の声。

「ラークスパー、そなたまで私をたばかるつもりか? 本当のことを言ってくれ」

 ラークスパーもそこにいて何か答えているようなのだが、アリスには聞こえなかった。水が運んで来るのはスワン王子の声だけだ。

「他に方法はないのか?」

 さっきより長い間があり、押し殺したようなスワン王子の声が届く。

「では……やはり、私が死ぬしかないのか」

 ――え?

 思わず耳を疑いたくなる言葉だった。

 ――今、何て……?

 川縁に膝を突き、耳を凝らして待ったが、水の中からはもう何も聞こえなかった。

「どうした、こんなところで」

 その声は下ではなく、上から聞こえた。

 アリスはぱっと顔を上げた。いつの間にか、スワン王子が横に立っていた。川にばかり注意が向いていて、歩いて来る足音に気が付かなかったのだ。

「昼は食べたのか?」

 言いながら、スワン王子はアリスに両手を差し伸べた。

 アリスも両手を出し、スワン王子の手をぎゅっと握った。

「スワン王子」

「うん?」

「スワン王子、死にませんよね」

 一瞬、スワン王子の動きが止まった。

「……聞いていたのか」

 彼はアリスを立ち上がらせるとすぐ手を離そうとしたので、アリスは更に強く握って引き止めた。

「死んだりしませんよね?」

「あれはもののたとえだ。本当に死ぬわけではない」

「じゃあ、どうなるんですか」

 スワン王子はそれには答えなかった。

「ちょうど良い。そなたに話があったのだ」

「話……?」

 アリスはスワン王子を見つめたが、スワン王子はアリスの顔を見ようとしなかった。スワン王子はアリスの、手を見ていた。

「この国を離れてくれ」

「え……?」

「トロイメンの国から出て行け、と言ったのだ」

 アリスも手を見た。自分の手と、その手が必死に掴んでいるスワン王子の大きな手を。

「どうして……?」

「そなたも年頃だ。良い相手を見つけてやるゆえ、嫁に行け」

「どうしてそんなこと言うんですか。私はスワン王子が……」

 ――この言葉……このやり取り、前にもしたことがある……?

「スワン王子は……スワン王子が私を、妻にしてくれるって言いました」

「言ったかもしれぬが、忘れてくれ」

 口調は軽かったが、スワン王子の瞳はつらそうに揺れていた。

「私はそなたの王子ではなかったのだ。全部忘れて、他に相手を見つけて幸せになれ」

 ――前にも誰かが、私にそう言わなかった?

「もし、二度と会えなくなったとしても……」

「嫌です!」

 アリスは激しく首を振った。

「これからどうするかは自分で決めます。今、決めました。私はスワン王子のそばにいます。スワン王子が一緒でなければ、私はこの国を離れません」

「私にはこの国でやるべきことがある」

「それなら私もここにいます」

「そなたは邪魔なのだ」

 スワン王子はアリスの後ろにあるドアを開けた。そしてアリスを中に押し込むと、そのままがちゃんと閉めてしまった。

「待っ……」

 アリスはよろめきながらドアに取り付いた。

「待って!」

 ノブを回したが、ドアは開かなかった。

「スワン王子!」

 叫びながら、アリスは両手で何度もドアを叩いた。

「スワン王子! スワン王子! スワン王子!」

 ――前にもこんな風に、誰かを呼び続けたことがある。あの時、二人の間を隔てていたのはドアではなかった。あれは――何だったろう。

「大丈夫かね、アリスさん」

 食堂の中から、シュタルクの心配そうな顔が覗いていた。

「何かあったのかね?」

「……いえ」

 アリスはドアに縋ったままシュタルクを振り返ったが、ついに諦めて手を下ろした。

「ごめんなさい。私、気分が悪いので……お食事、いりません……」

 小さく呟き、消沈した様子で部屋に戻るアリスを、シュタルクはただおろおろと見送った。

 アリスがいなくなってしばらくしてから、裏口のドアが開き、ラークスパーが中に入って来た。手には果物でいっぱいの大きな籠を抱えている。

「今年はたくさん実りましたね。デザートがたくさん作れそうです」

 ラークスパーは陽気に言ったが、食堂まで来ると足を止めた。

 食堂にはシュタルクしかいなかった。

「……あとの二人は?」

「食事どころではないようですよ」

 シュタルクは二階の、アリスの部屋がある辺りに目をやった。

「痴話喧嘩ですかねえ」

「……」

 果物の籠をテーブルに下ろし、ラークスパーもシュタルクと一緒に二階を見上げた。

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