針の道、それともピンの道?
「いばらの城はそっちじゃない、右の道だ」
黒い若者は繰り返して言った。
「えっ? でもこの道しるべは、左に向いて……」
「いや、右の道だ。誰かが道しるべを動かしたんだろう。子供のいたずらかな」
白々しい言い方だった。すぐにぴんと来た。誰かではなく、彼自身が道しるべを動かしたに違いない……スワン王子の邪魔をするために。
「じゃあ、直して置かないと。次に来た人が迷ってしまいます」
アリスも白々しく言った。
「ん? ああ、そうだな」
黒い若者は道しるべを引き抜き、矢印を右の道へ向けて刺し直した。……が、またこっそり反対にずらしたのを、アリスは見逃さなかった。
「よし、行くぞ、アリス」
「はい。……え? どこにですか?」
「いばらの城に決まってるだろう」
「どうして私が一緒に行かなきゃならないんですか」
「お前、いばらの城へ行くつもりだったんじゃないのか? あのばか王子のあとに付いて歩いてたよな?」
「それは……今のところ他に行くあてがなかったから……」
「だろうな。だが、お前はいばらの城へ行くべきだ」
「どうしてですか?」
「やれやれ、わからないのか? いばらの城には近隣の国々から何人もの若者が集まって来てるんだ。その中にお目当ての王子様がいるかもしれないってことだよ」
黒い若者はにやっと笑った。
「お前、人魚姫なんだろう?」
――スワン王子との会話を聞いていたのね……。きっとこっそり様子を見てたんだ。それにしても……この黒い若者は何者なんだろう? さっき、私のことをアリスって呼んだ。私の名前を知っていた……?
「どうした? 早くしろよ」
既に右の道へ進み始めていた黒い若者が、アリスの方を振り返って急かした。
アリスはため息をついた。スワン王子はもうずっと先に行ってしまっただろう――間違った道を。つまり、間違いなくいばらの城へ向かいたいと思うなら、この人に付いて行くしかないのだ。
「わかりました。一緒に行きます」
よし、と言って黒い若者は再び前を向いた。
「それにしても、ばか王子はあんまりじゃないですか。あの人の名前はスワン王子です」
「知ってるよ。北の国のスワン王子といえば有名だからな。行く先々で問題起こしてるばか王子だって評判だ。あの王子の滞在中に厄介事に見舞われた国は数知れず」
「悪い人には見えませんでしたけど……」
「悪気がなくてもばかな奴はいる。さ、行くぞ」
「あ、待って。あなたのことは何て呼べば?」
黒い若者はまた振り返った。
「名前か。そうだな――俺のことは、ダークと呼んでくれ」
「ダーク?」
「ダーク・ナイトっていうのが俺の名前なんだ」
――ダーク・ナイト――闇夜? それとも暗黒の騎士? ……別にどっちでもいいけど……。
「ところでお前、それを持っていばらの城へ行くつもりか?」
「え……」
ダークの視線はアリスの手元に注がれていた。
「……あ」
アリスは鏡の欠片を握ったままだったということにようやく気付き、目をしばたたかせた。
「そんなもの持ってたら、姫にとどめを刺しに来た魔女かと思われるぜ」
「……あの場所に置いて来るべきでしたね。もしこれが落とし物で、落とし主が探しに来る可能性があるなら」
「お前のものだって可能性はないのか?」
「どういう意味ですか」
「自分が誰なのか思い出す鍵として、手放さずにいたものとか」
「私を魔女だと疑ってるんですか?」
「鍵が登場する物語は一つじゃない」
ダークは勿体振った言い方をした。
「だがそれを持って姫のところへ行ったら、確実に疑われるぜ」
「元の場所に戻して来ます」
アリスはくるりと方向転換した。
「いや、待て」
ダークが片手を上げて制した。もう片方の手を顎に当て、何やら思案している。
「その鏡、俺に預けてくれないか?」
「はい?」
「――いずれ役に立つかもしれない」
「落とし主が探しに来たらどうするんですか?」
「落とし主が魔女なら、眠り姫を危機から救った。別の誰かなら、鏡を持ち込んだ罪に問われずに済んだ。どっちにしろいいことをしたんだ」
ダークは鏡を受け取ると、懐に仕舞い込んだ。
「そんなに気にするなよ。いらなくなって捨てたって可能性もあるだろ。髪を梳かすにも、こんな小さな鏡、役に立たないしな」
何だか釈然としなかった。何か、頭に引っ掛かるものがある。けれど、それが何かはわからない……。
「おい、ぼうっと歩いてると危ないぞ」
ぼうっと歩いていたアリスは、ダークの声で我に返った。
いつの間にか道の両側にいばらが密集していた。ダークはナイフを持ち、鋭い棘の付いた枝をばさばさ払い除けながら先へ進んでいる。アリスはいばらに引っ掛からないようスカートを持ち上げた。
「まだ誰もこの道を通っていない」
ダークが呟いた。まるで確認するような口振りだったが、彼はアリスを見てはいなかった。
「このまま行けば、俺が一番早く城へ辿り着けるな」
ダークが他の者を出し抜いて、真っ先に姫と会うつもりでいるのは明白だった。気になるのは、閉ざされた城の中にどうやって入るのかということだ。
案の定、やがていばらはトンネルのようになり、枝が行く手を覆い尽くし、通れる隙間をなくしてしまった。しかし、ダークは歩調を緩めなかった。そのままずんずんいばらに向かって行く。
「何してるんですか?」
アリスはダークの腕にしがみ付いて止めた。
「何をするつもりなんですか!」
「何って……先へ進むんだよ、決まってるだろう。これだけいばらが増えて来たところを見ると、城が近いに違いない」
「だって、城を敵から守るためのいばらだって。命を落とした人が何人もいるって」
「それはただの噂だよ。と言うか、デマだ」
ダークの言葉が終わらないうちに、いばらはひとりでに左右に分かれ、道を作った。どうぞお通り下さいとでも言うように。
呆気に取られているアリスに、ダークが続きを語った。
「軽々しく近付く者がいると困るから噂を流したんだ。実際には森は人を迷わせるだけ――何度入ってもまた入り口に戻って来てしまう、そういう魔法が掛けてある。元々、百年経ったら魔法は自然に解けるようになってるんだ。俺があれこれ妨害してたのは何のためだと思う? 森の魔法が消え掛かっていたからさ」
いばらが取り払われると、雲が晴れて太陽が顔を出すように、くっきりと純白の城がそびえていた。
「これが……いばらの城……」
アリスはぼんやりと立ち尽くしていた。
「本当にあったなんて……」
城の周りを囲む高い塀をぐるりと眺め、やや左寄りに門を見つけたダークは、迷わずそちらへ行こうとした。
「待って下さい」
「まだ何か?」
アリスはダークが振り向けた黒い瞳を窺った。
「あなたって、もしかして……」
その時、彼方から馬の蹄の音が響いて来た。だんだん大きくなる。こちらへ向かっているようだ。
ダークは無言でアリスの腕を引っ張り、いばらの陰に隠れさせた。いばらは今や整然と並ぶ生け垣に姿を変えていた。
蹄の音が近付き、土埃が舞った。アリスは僅かに頭を出して覗いてみた。
「あれは……」
「見たところ、どこかの国の王子みたいだな」
ダークの言う通りだった。豪華な鞍の付いた白馬には、これまた豪華に身を飾った若者が乗っていた。真っ赤なマントをきらびやかに翻し、辺りに油断なく目を走らせながら、開いた門の中へ颯爽と入って行く。アリスとダークはその様子を、じっと見守った。
「……アリスのせいで出遅れてしまった」
ダークは呟いたが、さほど非難する響きはなかった。がっかりしているのかと思えばそうでもなさそうだ。
「残念でしたね。お姫様と結婚するチャンスだったのに」
「ん? どういう意味だ?」
「だって今頃、あの王子様がお姫様にキスをして、目覚めさせて……そのあとで、王子様とお姫様の結婚式が祝われて、二人は死ぬまで幸福に暮らすんですよ」
「いや、それはどうかな」
「何か間違ってますか?」
ダークは腕組みをしてアリスを見下ろしていた。
「現実は物語ほど単純ではないってことだ」
それから再び城の方へ目を向け、「そろそろいいかな」と言った。
「入るんですか?」
「もちろん」
ダークがさっさと行ってしまうので、アリスも慌ててあとを追った。
――城内は静まり返っていた。広い庭も、部屋がいくつもありそうな立派な宮殿も、まるでまだ眠っているかのようだ。けれどよく見れば、庭園の花々は鮮やかに色付き、草も木も生命力に溢れていた。
ダークはしばらくの間、庭の真ん中に佇んでいた。耳を澄まし、何かを聞き取ると、またさっと歩き出す。
「百年目に呪いが解ける時、運命の相手が姫を目覚めさせる。確かにそれが理想の結末だよな」
庭園を突っ切って行きながら、ダークはさっき途中になった話を再開した。
「だが姫には百年前に、心から愛した相手がいたんだ。永遠の愛を誓った相手……共に生きようと誓い合った『運命の相手』が」
そこまで聞けば何が言いたいのかは充分伝わったが、ダークは敢えて続けた。
「そんな大事な相手を忘れて、会ったばかりの見知らぬ王子と一緒になって、死ぬまで幸福に暮らすことなんて出来るものかな」
アリスには答えられなかった。ダークもそれきり口を閉ざした。
そうして二人共無言になると、ダークが何を頼りに進んでいるのかがやっとわかった。バイオリンだ。微かに、波のように流れて来る、透き通った調べ。惹き付けられずにいられない、切ない囁き――この弾き方には覚えがあった。
――まさか……でも……。
「ここだ」
ダークが言葉と共に息を吐き、アリスは息を呑んだ。二人はいつの間にか小さな塔の前まで来ていた。バイオリンに気を取られていて気付かなかったのだ。
「よし」
ダークは扉に手を掛けた。
「お前はここで待て、アリス」
「はい。……え? どうしてですか?」
「考えがある。あとで呼ぶから、適当に隠れていてくれ」
反発したくてもする理由がなく、アリスは渋々頷いた。実際、反発しようとしても、結局いつも言いなりになってしまっている。
ダークは満足そうに笑うと、扉を開けて塔の中へ踏み込んだ。
バイオリンの調べは既に止んでいた。狭い石の螺旋階段は、一段上るごとに足音が高く響く。永遠に続きそうな階段だ――と、思った矢先、突き当たりに木製のドアが現れた。すぐ脇の明かり取りの窓から外を確認してみたところ、どうやら塔のてっぺんにある部屋らしい。ちょうど真下に扉が見えたが、アリスの姿は見えなくなっていた。
「よし」とダークは言った。
「うまく隠れたみたいだな」
そのまま階段の残りを飛び越えてドアに向かい、軽く数回ノックした。
「開いてますよ、どうぞー」
中から何とものん気な返答が聞こえた。
ダークはドアの取っ手を引いた。
「これで三人目ね」
ベッドに腰掛けた娘が、ため息混じりに呟いた。
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