黒い若者と白い若者
目を覚ました場所は、色とりどりの花の中だった。頭上には青空が広がり、太陽がさんさんと降り注いでいる。どうやら長いこと眠っていたらしい。
起き上がり、首を巡らして見たところ、そこは森のようだった。木々と木々の間に咲き乱れた花の絨毯に埋もれて、彼女は倒れていたのだ。
「ここはどこなの?」
彼女はぼんやりと呟いた。それから、まじまじと自分の体を見下ろす。
「あれ? 私……いつの間にこんな格好……」
まるで童話に出て来るアリスのような服を着ている。赤い靴に、髪にはリボンまで。
「……まあ、いいか」
アリスはまたぼんやりと顔を上げ、辺りを見回した。と、花畑の先の、木々の更に向こうに小道があり、そこから人の声が聞こえて来た。
「誰だ?」
声の主はアリスではなく、別の相手――もっと自分の近くに向かって尋ねている。つまり二人以上の人物がいるということだが、アリスの位置からは一人しか確認出来なかった。その人物も後ろ姿で、白いマントを身に着けているのがやっとわかる程度だ。アリスは花の中を移動して、少し右に寄ってみた。今度はちゃんと、道で対面している二人の若者が視野に入った。
「怪しい者じゃない」
そう答えたのは、黒い帽子、黒い髪、黒いマントにブーツという、見事に黒ずくめの男だった。目の色は遠くて見えなかったが、多分黒だろう。怪しい者ではないと言われても、説得力がなさ過ぎる。しかし、相手の若者にはさほど警戒する様子がなかった。
「まるで悪魔か死神のようだな」と、無邪気に笑う。
「よく言われる」
一緒になって笑いながら、黒い若者も相手の装いを眺めた。こちらはマントからブーツまで白一色で、黒い若者とは全く対照的だった。
「もしや、いばらの城へ行かれるのか?」
今度は黒い若者が聞いた。
「そうだが」
「やめた方がいいんじゃないかなあ。これまでに何人もの若者が、無残に命を落としているって話だぜ」
白い若者は目を丸くした。
「そうなのか?」
「そうなんだ。城を外敵から守るために、無数の木々やいばらが繁っているからな」
「ああ、それなら大丈夫だ」
「は?」
「危険な場所は通らぬ。しっかり安全を確かめてから先へ進むゆえ、心配ご無用。では」
「待て待て」
歩き出そうとする白い若者の前に、黒い若者が回り込んだ。
「お前、手ぶらで姫に会うつもりか?」
「何だって?」
「贈り物一つしない訪問者に、姫はきっとがっかりするぞ」
「ああ」
白い若者は足を止めた。
「しかし、何を持って行けば良いだろう?」
黒い若者はにやりとし、大仰に両手を広げて周りを示した。
「ほら、見てみろ。この辺りにはきれいな花がたくさん咲いている。花束を作って姫への土産にすれば、喜ばれるんじゃないかなあ」
「なるほど」
白い若者は花を眺めて頷いた。
「では、そうしよう」
白い若者が道を外れて花の咲く野原へ踏み込むと、黒い若者は向きを変えた。そのまま意気揚々と立ち去る黒い若者の方を目で追っていたため、アリスは白い若者への注意が疎かになっていた。
「痛っ!」
「うわっ!」
気付いた時には既に遅く、白い若者はアリスに躓き、派手に転がった。
「いったー……気を付けて下さいよ」
アリスは足をさすりながら文句を言った。
「こんなところで寝ている方が悪いのではないか」
白い若者は起き上がって上着をぱたぱた払い、それからやっとアリスを見た。
「何だ、そなたは。なぜこんなところで寝ている?」
「なぜ、と言われても……」
「なぜこんなところで寝ているか、自分でわからぬのか? そなたはばかなのか?」
「あなたはすごく横柄ですね」
相手がずけずけと物を言うので、アリスもつられて思ったままを口にしてしまった。
「私は王子だ。王子が横柄なのは当然のことであろう」
「王子? あなた、王子なんですか?」
白い若者は気を悪くしたようだった。
「私は北の国のスワン王子だ」
「スワン王子……ですか」
「それは何だ?」
「……それ?」
スワン王子の指差す先に目をやると、何かがきらりと光った。何か、小さな欠片が落ちている。アリスは手を伸ばし、それを拾った。
スワン王子が息を呑んだ。
「それは……」
「鏡みたいですね」
「お前、魔女か?」
「え?」
「いや……それは、そなたのものか?」
「いいえ」
アリスはスワン王子の狼狽振りを不審に思った。
「これがどうかしましたか?」
「そなた、トロイメンの国の伝説を知らぬのか?」
「知りません。伝説って何ですか?」
スワン王子は突然すっくと立ち上がり、「花を摘まねば」と言った。
「そういえばさっき、花束を持ってお姫様に会いに行く、とか話してましたよね」
「さよう。トロイメンの国の伝説を確かめるために、はるばる旅をして参ったのだ」
スワン王子は花を摘みながら、その伝説を語ってくれた。
――昔、トロイメンの国に一人の魔女が住んでいた。
魔女は不思議な鏡を持っていた。毎日この鏡に向かって、『世界で一番美しいのは誰か』と尋ねるのだ。鏡は決まって『あなたが一番美しい』と答えた。魔女はそれを聞くと満足した。鏡が嘘を言わないことを知っていたからだ。ところがある日、いつものように魔女が鏡に問い掛けると――。
『鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?』
『この国ではあなたが一番美しい、けれど南の国の姫は、あなたの千倍美しい』
魔女は激怒し、鏡を叩き割った。そして、どうしてくれようかと考えた末、一つの呪いを掛けた。
やがて姫はトロイメンの国の王子と婚約し、城に迎えられた。
魔女は姫の幸せを許さなかった。カラスに姿を変えてトロイメンの城へ行き、城中に響き渡る声で叫んだ。
『私は呪いを掛けた。十六歳の誕生日、王子の婚約者は割れた鏡の欠片に刺され、百年の眠りに落ちるだろう』
話を聞いたトロイメンの国の王様は、国中の鏡を全て捨てさせ、呪いを解く方法を知る魔法使いは城へ来るように、とお触れを出した。しかし、呪いを解ける者は誰もいなかった。強大な力を持つ魔法使いにも、姫を愛する王子にも、どうすることも出来なかった。
運命の日、魔女が城に忍び込み、鏡の欠片を姫に届けた。
『これで王子の心臓を刺せば、お前は助かるよ』
愛する人を犠牲にして助かることなど、姫にはとても考えられなかった。姫は鏡の欠片で自ら胸を刺し、床に倒れた。
王子が駆け付けた時、姫は眠っていた――深く、深く。何度も名前を呼んで揺さぶったが、姫は目を開けなかった。
王子は森の中にある城へ行き、塔のてっぺんの部屋に姫を寝かせた。そして、魔法使いに命じて城を閉ざし、周りを木々やいばらで覆い、付近の森には人を迷わす魔法を掛けさせた。姫が目覚める日まで、百年の間、その眠りが安全に守られるように――
「トロイメンの国には今も鏡はない。持ち込むことも禁止されている」
スワン王子がそう締めくくると、アリスはじっと考え込んだ。
「どこかで聞いたような話ですね」
「有名な話だ。どこかで聞いたこともあろう」
「いえ、そうじゃなくて。小さい頃読んでもらったおとぎ話に、こんな風なのがあった気がします……何か色々混じってますけど」
「ああ――それは、真似をしているからな」
スワン王子は白い花を選んで束ね、上着のポケットから取り出した白いリボンを結んだ。
「真似?」
「もう百年以上前のことだが、外から童話や昔話がたくさん入って来て、その物語を真似ることが魔法使いたちの間で流行し始めたのだ」
「じゃあ、その話は実際に起きたことなんですか?」
アリスは驚いて聞いた。
「その城では本当に、お姫様が眠っているんですか?」
「ああ。そして今日、ちょうど百年目を迎える」
「まさか……それじゃ、あなたが会いに行こうとしているお姫様って……」
「その通り。いばらの城の眠り姫だ。――さあ、出発しよう。大分道草を食ってしまった」
スワン王子は道に戻り、黒い若者が行ったのと同じ方向へ歩き出した。
一瞬躊躇してから、アリスもスワン王子のあとに従った。
――いばらの城の眠り姫、か……。
二人はそれぞれの物思いに耽りながら黙々と歩いていたが、突然、スワン王子が立ち止まった。
「そうか。わかったぞ」
彼は声を上げ、勢いよく振り返った。アリスはぎくりとして身を引いた。
「そなた……」
「……何ですか?」
「そなた、人魚なのだろう? 人魚姫」
「……は?」
「生まれて初めて海の上に出て来た時、そなたは人間の王子に会って恋をした。それで、王子ともう一度会うために、人間の姿になり、ここまで訪ねて来た」
「……何ですか、それは」
呆れるアリスを尻目に、スワン王子は一人うんうんと頷いている。
「そなたがばかでないなら、色々思い出せぬのは記憶がないからであろう。どこかの魔女が、そなたに呪いを掛けたのではないか? 願いの代償に人魚姫は声を奪われたが、そなたは記憶を奪われた。その辺りは斬新だな。真実を話せぬ状態であることに変わりはない」
スワン王子はアリスにぐっと顔を近付けた。
「どうだ? そんな気はせぬか?」
アリスは動じなかった。
「記憶を奪われたら、王子様のことだって忘れてしまいます。どうやって会いに行くんですか?」
「一番大切なことは、たとえ記憶を奪われても、心の奥底で覚えているものだ」
「それは――確かにその通りですね」
「だろう?」
「でも、違います。私はそんなんじゃありません。それよりちゃんと前を見て歩かないと、また転びますよ」
二人は前方に注意を戻した。ちょうど分かれ道に差し掛かったところで、左右に伸びる道の真ん中に、道しるべが立っていた。スワン王子はすぐに左へ曲がったが、アリスは立ち止まり、道しるべに書かれた文字を読んだ。
『いばらの城』
矢印は左の方向を示している。アリスがスワン王子に倣って左の道へ進もうとした時――。
「そっちじゃないぞ」
出し抜けに、後ろから声が響いた。
驚いて振り返ったアリスを、黒い瞳が見下ろしていた。黒い帽子に黒いマント、全身黒い色で統一された――さっきの黒い若者だった。
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