トロイメンの国の物語――上巻

ウサギとバイオリン

「ここはどこなの?」

 もしかしたら返事が聞こえるかもしれないと期待して、声に出してみた。が、何も聞こえない。

 木々の間から月光が射し込む、暗い夜の森。静寂にすっぽりと包まれ、人の気配がまるでない。人どころか、生き物の気配すらなかった。

「誰かいないの?」

 何度呼び掛けても、やはり答えは返らない。――ひとりぼっちだ。

「ひとりぼっちが何だって言うの? 慣れっこでしょ。こんなところに座って考え込んでたってどうにもならないじゃない。とにかく、進まなきゃ」

 自分を叱って立ち上がったものの、再び考え込む。進まなきゃ――でも、どっちの方向へ?

 その時、茂みががさがさ動き、何かがぴょんと飛び出して来た。

「あ……」

 月明かりに照らされてこちらを見上げたのは、一匹の白いウサギだった。

「ウサギ……?」

 ウサギは一瞬首を傾げると、向きを変え、またぴょんぴょん跳ねながら行ってしまった。

「待って!」

 もうひとりぼっちにはなりたくない。止まらないウサギのあとを追って、急いで駆け出す。

「待って、ウサギさん!」

 ウサギはどんどん奥へと入って行く。

「待って」と叫び続けたかったが、息が切れ、途中で声が出せなくなった。見失わないように懸命に走るだけで精一杯だ。

 やがて前方から、微かにバイオリンの音色が聞こえて来た。切なく、呼び掛けるような旋律。

「誰かいるんだ……」

 誘われるままに歩を進めると、不意に木立が途切れ、明るい空間に出た。――視界に広がったのは、何とも不思議な光景だった。

 辺りは淡く霞み、柔らかな光に満ちていた。その光と溶け合うように、バイオリンを奏でる若い男の人の姿があった。木の切り株に腰掛け、口元には穏やかな笑みを浮かべている。深く優しい調べに合わせて、絹のような金髪がふわりふわりと揺れる。思わず息を呑んだ。天使……それとも妖精?

 ぼんやり見とれているうちに、若者がこちらに気付いて弓を下ろした。

「やっと人が来てくれた」

「え?」

「私は人を呼んでいたのに、寄って来るのは動物たちばかりで。森の仲間をこんなに呼び集めてしまいました。やり方を間違えたのかな」

 若者の周りにはたくさんの動物が群がっていた。足下にいるのは、さっき前を横切って行ったあのウサギだろう。他に、キツネとオオカミ、ライオン、そしてクマ。皆若者に気を許し、母親に甘えるようにそばでくつろいでいる。

「あの……あなたは誰ですか?」

 若者は小ウサギをそっと撫でていたが、尋ねられると顔を上げた。

「私はフィドルですよ」

「フィドル? それ、本当の名前ですか?」

 フィドルは軽く笑い、それから言った。

「あなたは?」

「え?」

「あなたの名前は?」

「ああ、えーと……アリス……です」

「それ、本当の名前ですか?」

 アリスの言い回しを真似て、フィドルがまた声を立てて笑う。快活で、感じのいい笑い方だ。その笑顔に勇気付けられ、重ねて聞いてみた。

「フィドルさん」

「はい」

「ここはどこなんでしょうか」

「ここは森の中ですよ」

「それくらいわかります」

「だったらなぜ聞くんですか?」

「……」

 会話が途切れると、フィドルは優雅な動作で立ち上がった。

「こちらへどうぞ。そこに私の家がありますから、一緒にお茶でもいかがですか?」



 フィドルの家は森の奥深くにあるらしかった。彼は動物たちを従え、木々の間の細い道を、奥へ、更に奥へと進んで行く。茂みを掻き分けながら、アリスは小走りに追い掛けた。

「あ……」

 木立の陰に隠れるように、小さな家が建っていた。家というより小屋といった風情で、人が住むには小さ過ぎる気がした。石の壁も木製のドアも、どことなく幻想的な雰囲気を漂わせている。

 フィドルがぼんやり眺めているアリスを振り返った。

「七人の小人が住んでいそうでしょう?」

「いるんですか?」

「いませんよ。私だけです」

 それから、彼はアリスを家に招き入れた。戸口は背が低く、フィドルはもちろん、アリスも腰を屈めないとくぐれなかった。

 家の中もまたこぢんまりとしていた。右側の窓の近くにベッド、反対側の壁際に戸棚があり、中央には小さなテーブルと椅子、テーブルの上には火の灯った青いランプと、本が一冊置かれている。奥には別室へ続くらしいドアが一つ。

「ここで暮らしてるんですか?」

「ええ」

 フィドルは戸棚からカップを出し、ティーポットのお茶を注いだ。

「一人きりで?」

「そうですよ」

「この森に、他に人は住んでいないんですか?」

「質問ばっかりですね」

 苦笑しながらも、彼はちゃんと答えてくれた。

「いないと思います。こうして誰かと話すのは久し振りですから……」

 アリスはテーブルの上の本を手に取ってみた。

「これ、何ですか?」

「本ですよ」

「それくらいわかります」

「だったらなぜ聞くんですか?」

「……」

「読んでも面白くないですよ」

 ページを開こうとするアリスに、フィドルが付け足した。

 ――そんなの、読んでみなければわからないと思うけど……。

「言い直します。読んだらつまらないですよ」

「え?」

「それは下巻ですから」

 表紙に目を落とすと、確かに『下巻』と記されていた。題名はよくわからない……トロイ――メン?

「上巻はないんですか?」

「ありません」

「ないなんてことないでしょう」

「ないんです。その本は役に立たない部屋にあったんですよ」

 アリスは目をぱちくりさせた。

「役に立たない部屋? 何ですか、それは?」

「あそこです」

 フィドルはベッドの脇のドアを指差した。

「錆びたナイフだの、ひび割れて姿の映らない鏡だの、どこに差し込むかわからない金の鍵だの……役に立たないものばかりが仕舞ってある部屋。一度整理してみたんですが、出て来るのは役に立たないものばかりでした」

「役に立たないものを、どうして大事に仕舞って置くんですか?」

「さあ……? いつか役に立つかもしれないからかな」

 何だか気になる、とアリスは思った。けれど、何が気になるのか、自分でもよくわからなかった。というより、気になることが多過ぎた。

 立ったままのアリスを見て、フィドルがそっと椅子を引いた。

「どうぞ、冷めないうちに」

「あ……はい」

 いつの間にか、テーブルの用意が整っていた。湯気を立てている紅茶に、焼きたてみたいなクルミのクッキー。花瓶に挿した薔薇の花――。

 アリスは椅子に座り、ティーカップを手に取った。

「おいしいです」

「それは良かった」

 ほんのり甘いアップルティーは、心も体も隅々まで温めてくれた。

「……フィドルさん」

「はい」

「もう一回、聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「ここは、どこなんでしょうか」

「……」

 フィドルはじっと考え込んだ。今度は真面目に答えてくれるようだ。

「……ここは……うーん……世界と世界の狭間、とでも言うのかな」

「世界と世界の狭間?」

「すみません、わかりにくいですね。他にうまい言い方がなくて……」

 アリスが首を傾げて見上げると、その視線をフィドルの瞳が受け止めた。深い、青の瞳。貫くようにアリスを見据え、彼は再び口を開いた。

「あなたは自分がどうしてここにいるか、わからないんですね」

「ええ。気が付いたらここにいて、この森から抜け出せなくなっていたんです」

 ――歩いても歩いても、出口が見つからなかった森。歩いても歩いても、誰もいなくて……。やっと巡り会えたのは、動物たちに囲まれてバイオリンを弾く、不思議な男の人。その人は、森の片隅にぽつんと建つ小さな家に、たった一人で暮らしていて――。

「フィドルさん」

「はい」

「もしかしてフィドルさんも、この森から出られないんじゃ……?」

「まあ、そうとも言えますね」

 フィドルの答えは曖昧だった。

「でも私は、自分の意思でここにいるんです」

「どうしてですか?」

「その質問には答えられません」

 彼は微笑んでいたが、口調には断固とした響きがあった。アリスは唇を噛んだ。

「私……私はここを出なきゃ……。ここを出て、探さなきゃ……」

「探す? 何を?」

「それは……」

 鋭い視線に困惑し、アリスは首を振った。

「わかりません、わからないんです……思い出せないんです。でも、大切なものなんです。とても、とても大切なもの。それだけは確かです」

 フィドルはアリスに近付き、傍らに膝を突いた。

「やっぱり、あなたには呪いが掛けられているんですね。そんな気はしたんですが」

「呪い?」

 アリスは顔を上げた。

「申し訳ないけれど、私にはあなたの呪いを解くことは出来ません。自分に掛かった呪いさえ解けずにいるくらいなんですから」

「フィドルさんも、何か呪いを掛けられているんですか? どんな呪いを?」

 フィドルは困ったような顔をした。

「その質問には――」

「――答えられないんですね」

「正解に直接繋がるヒントは与えてはいけないことになってるんです」

「そ……」

 それはどういう意味かと聞こうとして、アリスは言葉を飲み込んだ。多分、答えられない質問だ。

「呪いを解くことは出来ないけれど……」

 フィドルは首を回し、壁に立て掛けてあるバイオリンを見やった。

「ここを出るだけなら……ほんの少しなら、あなたの力になれるかもしれない」

「フィドルさん……」

「やってみましょう」

 力強く優しい声音は、アリスの心を温め、慰めてくれた。アリスは目に涙を滲ませたまま、小さく微笑んだ。

「……やっぱり、あなたは魔法使いなんですね。そんな気はしてたんですけど」



「外で待っていて下さい」と言われ、アリスはフィドルの家から出た。

 月が真上に昇り、辺りは昼間のように明るかった。ドアのすぐ横でウサギが丸くなっている。少し離れたところにはキツネもいる。家の右側に回ってみると、窓の下にオオカミがおり、左側を覗くとクマがいて、向こうの角からライオンのしっぽがはみ出しているのが見えた。

 アリスはくすっと笑った。――まるで悪いものが近付かないように、みんなでこの家を守っているみたい。

 正面に戻り、ウサギの上に屈み込んだ時、ドアが開いた。

「お待たせしました」

 フィドルは右手にバイオリンを、左手には小さな金の鍵を持っていた。

「それ……」

「役に立たない部屋にあったものです。別に何でもいいんですよ。頭に思い描くだけでもいいんですが……形があった方がやりやすいでしょうから」

 アリスはフィドルに渡された鍵をまじまじと眺めた。全体が金色で、持ち手の部分は輪になっており、真ん中に楕円形の青い宝石がはめ込まれている。

「じゃあ、始めましょうか」

 フィドルがバイオリンを構えた。

「鍵を差し込んで下さい」

「え? ……どこにですか?」

「どこにでも。こう、ぐっと差し込めばいいんです」

「こう……?」

 フィドルの身振りを真似て、アリスは空中に鍵を差し込む仕草をした。

 ――カチリ、と手応えがあった。

「……!」

「鍵を回して」

 短くバイオリンを鳴らしながら、フィドルの指示が続く。

「どっちの方向にですか?」

「どっちでも」

 少し迷ってから、アリスは手首を右に捻った。次の瞬間――。

「……これ、何ですか?」

「ドアですよ」

「それくらいわかります」

「だったらなぜ聞くんですか?」

 このやり取りはもう飽きた、と思った。

「今の今まで何もなかったのに、どうしてドアが……」

 ドアは木の枠にはまった状態で、地面からほんの少し浮いていた。アリスが握る鍵は、鍵穴にしっかりと刺さっている。鍵穴の上には取っ手があった。

「そのドアを通れば、外に出られます」

 振り返ったアリスに向かって、フィドルは微笑んで見せた。穏やかに――優しく。その表情からは何も読み取れない。嬉しいのか、悲しいのかさえ。アリスは息を吸い込んだ。

「フィドルさん、フィドルさんも一緒に行きましょう」

 フィドルは一瞬きょとんとしてから、また笑顔に戻った。

「言ったはずです。私は行けない。私は――出られない」

「出口がそこにあるのに、どうして出られないんですか」

「私はそこを通れない」

「どうしてですか?」

「もう質問は終わりにして下さい。切りがないですよ」

「――じゃあ、最後に一つだけ」

 アリスはフィドルをじっと見つめた。同じようにじっとこちらを見つめ返す、深い青の瞳。この瞳を――前にも見たことがある。

「フィドルさん……私たち、どこかで会ったことないですか?」

 初めてじゃない。前にも……。

「いつか、どこかで会ったことがあるような……」

「そう、思いますか?」

 フィドルは目を伏せ、呟いた。

「それならきっと、希望はありますね」

「え?」

 その呟きは小さ過ぎて、アリスにはよく聞き取れなかった。

「さあ、行って。ドアが消えないうちに」

 今度は強く、フィドルは言った。目を戻すと、ドアがかすれ掛かっていた。アリスは慌てて取っ手を掴んだ。

「フィドルさん、あの……」

「早く」

 促され、力を込めた手の中で、ドアが外側に向かって開く。

「あの、ありがとう、フィドルさん」

 やっとそれだけ言った時、開いたドアの隙間からうっすらと光が射した。その向こうは真っ白で、何も見えない。思い切って一歩前へ踏み出すと、温かい空気が足に触れた。

「アリス」

 突然呼び掛けられて、アリスは反射的に後ろを見た。そこにはもうドアはなく、フィドルの声だけが降って来た。

「諦めないで。希望はあります。一度掛けた呪いは取り消せないけれど、解く方法はどこかに必ずあるはずです」

 アリスはドアを抜けた。フィドルの名前を呼んだが、その声はもう届かなかった。



 微笑みを浮かべ、アリスがいなくなった空間を見つめたまま、フィドルは続けた。

「だって、そういう物語だから」

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