トロイメンの国の物語

波野留央

プロローグ

「お前とは、これでお別れだ」

 ある日突然、お兄ちゃんがそう告げた。

「俺は旅に出る。多分長くなると思う。もしかしたら、もう戻って来られないかも……」

 ――何、それ。意味がわからない。私はどうなるの?

「お前を置き去りにするのはつらいけど、お前だってもう、充分一人で生きて行ける年頃だよ。そうだ、嫁に行くといい」

「どうしてそんなこと言うの? 私はお兄ちゃんが……」

「俺がいなくなったら、俺のことは忘れろ」

「そんな……」

「全部忘れて幸せになれ。二度と会えなくても、俺は永遠にお前を愛している」

 あまりにも唐突過ぎて、色々考えている暇がなかった。――ううん、考えている場合じゃない。まずは止めなくちゃ。お兄ちゃんと別れるなんて、絶対に嫌だ。

「ちょっと待ってよ!」

 叫んで、お兄ちゃんに飛び付く。お兄ちゃんは床に押し倒され、背中をしたたか打った。

「いって……乱暴だな」

 こっちだって必死だ。ここで離れたら本当に、二度と会えない気がする。

「わかるように説明してよ。理由を言って」

 無駄だとわかってはいた。お兄ちゃんはいつも余計なことは一切言わない。いつも、要点だけで済ませてしまう。この時もそうだった。

 お兄ちゃんは悲しそうに目を伏せた。

「……ごめん」

 必死でしがみついていたつもりなのに、簡単に押し退けられてしまった。悔しい。力ではお兄ちゃんに敵わない。

「待って!」

 階段を上がり、お兄ちゃんが向かったのは書斎だった。

「お兄ちゃん!」

 少し遅れながらもあとを追って駆け込むと――。

「……お兄ちゃん?」

 中には誰もいなかった。お兄ちゃんも、どこにも……。

「お兄ちゃん……?」

 足を止め、うろたえて見回す。

「お兄ちゃん、どこ……?」

 一瞬、はっとした。ドアの正面に大きな鏡が掛けられている。そこにお兄ちゃんの後ろ姿が映っていたのだ。――いや、違う。お兄ちゃんは――鏡の中にいた。

「お兄ちゃん!」

 鏡に体当たりしたけれど、中には入れなかった。

 ――お兄ちゃんはどうやって中に入ったの? どうやったら中に入れるの? どうやったら、お兄ちゃんを引き止められるの?

 出来るのは呼び続けることだけだった。

「お兄ちゃん! 行かないで!」

 お兄ちゃんが僅かに顔を振り向けた。

「俺は、行かなくちゃ」

 その顔に、寂しげな微笑みが浮かぶ。

「戻らなきゃ……俺の世界へ」

 ――お兄ちゃん? 何言ってるの……?

「だって、そういう物語だろう?」

「お兄ちゃん!」

 声を限りに叫んでも、お兄ちゃんはもう振り返らなかった。背中がどんどん遠ざかり、小さくなって行く。

「お兄ちゃん! 待って、お兄ちゃん! ――お兄ちゃん!」

 そのまま、お兄ちゃんの姿はふっと消えて、見えなくなった。

「お兄ちゃん――!」



 ――お兄ちゃんは行ってしまった。そして、二度と戻って来なかった。

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