夜明け前から二番目の

@ZKarma

第一話

「も、もう無理……」


俺の下腹部の上に座ってこちらを見下ろす彼女に、息も絶え絶えに弱音を吐いた。


「そぉ?情けないのー」


地面に広げた新品のブルーシートは、既に皺と液体と貼り付いた枯れ葉で無残な有様だった。

びゅぅ、と吹く夜風が剝き出しに肌に当たる。

火照りと倦怠に包まれた体には、それが心地良い。


「まぁ、しゃーないかー」


本当に無理そう、ということを悟ったのか、彼女――小夜は、すくりと俺の上から立ち上がった。

諸々の体液が混じりあった粘性の強いそれが、俺と小夜との間で糸を引く。

疲労で上手く纏まらない頭でそれをぼんやりと眺めている俺を尻目に、小夜は地面に放り投げられた鞄の中からタオルを取り出して、身体を拭いていった。


僅かに白み始めた空。

近づけど未だ仄かな曙光と、ブルーシートの脇に置かれたLEDランプの光に照らされた彼女の躯は、青白く発光しているような錯覚を抱かされる。


「あ”--!!土付いてる!これもう履けないじゃん……!」


小夜は、ブルーシートから幾分か離れた場所に転がっていた布切れを摘まみ上げて叫んだ。

彼女が身に着けていたと思しき薄水色に黒いレースがあしらわれたソレは、遠目から見ても僅かに汚れているように見えた。


「ちょっとぉー、これタカ君が蹴っ飛ばしたからでしょー?どうしてくれんのよー!」


「いや、多分風に飛ばされたんだと…、うわ、待って、痛い痛い痛い!」


一糸纏わぬままこちらに戻ってきた小夜は、今だ立ち上がれない俺の脇腹をグシグシとつま先で蹴った。


びゅう、と風が吹く。

季節は初秋。

夏の名残の熱量と、俺の身体の火照りを、秋風は削るように攫って行く。


「これ、結構高かったのにぃ……」


俺を蹴るのに飽きた小夜はそう呟くと、脱ぎ散らかしていた白いノースリーブワンピースを身に着ると、俺を引っ張り起こして言った。


「朝日、見に行かない?」、と――



「小夜にそんな提案が出来る感性があったなんて、意外だったな」


薄暗い石段を、二人で歩く。


「名誉棄損で訴えてやろーかなーコイツぅ」


いつものように毒を吐き合いながら、キャンパスの無駄に広大な敷地内にある、裏山とでもいうべき丘陵を登っていった。


「お前、どうするんだソレ。何も履かずに帰るのか?」


「しょーがないじゃん汚れちゃったんだからさ~」


小夜は、結局汚れたショーツを履かないまま、かといって捨てることもせず、指先をヒモに引っ掛けてクルクルと弄んでいた。


夜、いきなり「出かけよう」と言い出したのは小夜の方だった。

何も今に始まったことじゃない。

彼女とつるんできた十数年余で、そんな提案は幾度もあった。


場所も決めず二人で寮を出て、フラフラと歩いて……まぁそんな、いつもの流れ。


山頂、というほど高くもない目的地に到着する。

とはいえ、ウチの高校は市街から離れた高所にある。

隔離施設と揶揄されるそこにある丘陵の頂からは、街を一望する景色が広がっていた。


「ここに来て3年目になるのに、ここに登ったのって初めてだよねぇ」


びゅう、と風が吹く。

3年。

もう、3年か。

白みがかってきた空を見やりながら、その思いがけない長さに内心でため息を吐いた。


そして、それを見透かしてか、核心めいたことを小夜は囁いた。


「私たち、これだけ経ってもハッキリしないよねぇ」


「お前、それは――」


小学生の頃は、「中学に上がれば」と。

中学生の頃は、「高校に上がれば」と。


俺達は、誰よりも分かり合っていた。

今更恋愛めいたことをするには、お互いの恥部を知り過ぎる程に。


俺達は、誰よりも図りかねていた。

彼我の距離と、それにつけるべき名前を。


「相性が良すぎたんだよねぇ、きっと」


長い月日がそうさせた、という訳でもない。

きっと、一目見た時から「そういう相手だ」と互いに理解していた。

血を分けた家族、という訳でもない。

けれど、確かに同じ何かが循環しているのだと信じられた。


だが、そろそろ、潮時だ。

これは小夜から出された、宣告の時なのだろう。


びゅう、と風が吹く。

その肌寒さに追い立てられるように、腹を決めた俺は、決定的なことを口に出し、


「小夜、俺は「だ~め」


――は?


小夜は、俺の口の前に指を立ててそれを制止して、小さく笑った。


「なんてツラしてんのよぅ。だっさーい」


「いや、そりゃお前が……」


言いかけて、口を閉じる。


小夜の瞳は、小刻みに震えていた。


「誰かと同じ名前をつけると、誰かと同じカタチに決まっちゃうでしょ。私はそれがキライ」


手に持っていた薄青色の布切れのヒモに指で引っ掛け、クルクルと回しながら、彼女は呟いた。


「だから、タカ君はそんなことはしなくて良いよ」


――わたしたちが、わたしたちであることに、名前は付けないでいい。


決定的になるはずだった何かは、そうなる前に消えていく。


「なのに変な顔で変なこと言いだそうとするから、びっくりしちゃった」


小夜は、俺を安心させるように微笑む。

夜が明け、暁の曙光が小夜の顔に差し込んだ。


垂れ気味の、夢見るような瞳と、緩いウェーブのかかった亜麻色の髪を秋風に揺らして佇む彼女。


朝陽に照らされ佇むその姿を見た俺は衝動的に、彼女の肩を抱すくめようと腕を伸ばし、けれどそれは空を切った。


「タカ君、変な顔してて気持ちワル~い!」


「お前、この空気でそりゃないだろ…」


びゅう、と風が吹く。

ケタケタと笑いながら俺の腕を掻い潜ろうと身を交わした小夜。

彼女が弄んでいた薄水色のショーツが、風に攫われて宙に舞い上がった。


「あーあ。高かったのに…」


決定的になる筈だった何かは、決定的になる前に、カタチを持たずに飛び去って行く。

決めないことを決めた俺たちがこの先どうなるかは分からない。


今は、まだ。


用を為さなかった俺の決意と同じように、その薄水色のショーツは秋風に流され、


そして、東の空へと飛んでいった。





















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