第133話 無幻――生きる骸

「――家族もいない。護りたい人もいない。戦う理由すらない。それなのに、アークは戻りたいの?」


 淡々と紡がれる言葉が、氷の剣となって俺の心を突き穿っていく。必死に覆い隠し続けて来た俺の深層を白日の下に晒してしまう。


「あの世界に戻りたい・・・・ではなく、戻らなければならない・・・・・・・・・・と思っているのなら、貴方は行くべきではないわ。それは、人間の在り方じゃない」


 俺を突き動かす動力源となっていたのは、夢・愛・希望・友情・欲望――そんな人として生きる為の当然の感情じゃない。心の深層に刻み込まれている誓い・・と名付けた強迫観念でしかないのだろう。

 それは母さんが言う様に、人間として正常ではない状態――。


 根本的な何かが欠落した俺の歪な在り方を、他の誰でもない母さんに突き付けられる。


「未練はないのよね?」

「……!」


 呼吸が乱れ、視界が歪む。

 本当ならば、そんな事はないと、やり残した事があると言わなければならないのに、俺の身体はいう事を聞いてくれない。


 “アーク・グラディウス”を形作っていた全てが、音を立てて崩れていく。


「……ぁ」


 思考が黒く塗り潰され、身体に力が入らない。とうとう自分すらも、支えきれなくなって自然と膝が折れる。

 母さんの言っていることは、何一つ間違っていない。それを証明するかのように――。


「――答えられるわけ、ないわよね」

「――ッ!?」

「貴方の心を壊してしまったのは、この私だもの」


 そんな俺の身体は、いつの間にか目の前にやって来た母さんに支えられていた。少しばかり落ち着いて前を見れば、母さんの悲痛に歪んだ表情が飛び込んで来る。


「ごめんね……アーク。私は家族に、貴方に何も残して上げることができなかった。唯一残ったものは、貴方を縛り付ける呪い・・だった……」


 母さんの頬を雫が伝う。


 俺にとってこの人は、強さという概念が具現化したような存在だった。


 だからこそ、こんな表情かおをさせた自分が許せなくて走り出したはずなのに、その俺の前で、今も母さんは涙を流している。


 こんな弱々しい姿を見るのは、あの月夜が最初で最後だったはずなのに、また懺悔ざんげの言葉を口にさせてしまっている。


 誓いは破られた。

 それを認識した瞬間、俺の中の何かが決壊した。



「――今まで、戦いを怖いと思った事は一度もなかった。戦ってる時は自分の成長を肌で実感できるし、相手が強ければ強いほどその感覚は大きくなって充実してる気になっていた。その瞬間だけは、生きてるっていう確かな実感を得られてた。戦って死ぬのならそれでもいい。何より許せないのは、戦えない無力な自分。ずっと、そう思って生きてきたんだ」


 誰にも伝える事のなかった、奥深く押し込めてきた想いが溢れ出す。


「それが間違っているのだとすれば、もう俺には何もない。空っぽのむくろが人間のふりをしようだなんて、土台無理な話だったってことだよな」


 精神ココロは死んでいるのに、身体は生きている。


 夢や目標、趣味の為に生きている人たちを眩しく思っていたのは、俺も自分の生き方が歪であると、どこかで理解していたからなのだろう。


「俺はきっと、死に場所を求めていた。だから、間違っている感情を正当化する為に、誓いを立てた……」


 人生で初めて魔法を使い、試運転代わりに赴いたダンジョンで狂化オーガと遭遇した。そんな事態に直面した時、恐怖で身を強張らせて逃げるなり、助けを求めたりするのが人間としての正常な在り方だ。

 近くにルインさんが居たのだから尚更だし、彼女も俺を助けようとしてくれていた。


 だが、俺の胸に沸き上がったのは、恐怖でも後悔でもなく、歓喜の感情――。

 それこそ、今まで生きてきた中でもとびきりの歓喜――。


 無職ノージョブから脱して魔法で戦えるようになった事への嬉しさが、目前に迫る死の恐怖を遥かに上回ってしまっていた。だからこそ、一人で突っ込んだ。


 今までの戦いだってそうだ。戦っている事自体が一つの安定剤だった。敢えて自分の命が危ぶまれるような無謀な戦いに身を投じ続けていた。


 その裏側にある想いから目を背けながら――。


「――でも、俺が立てた誓いは、絶対に叶えたい目標じゃなかった。俺はただ、死なない為の理由が欲しかったんだ」


 でも同時に、俺は自分が許せなかった。

 全てを壊した無力な自分が――。


「俺が生まれてこなければ母さんにかかる負担が減って、もしかしたら今も生きていられたかもしれない。だからこそ、母さんの代わりに生きるのなら、せめてその贖罪しょくざいをしなければならない。そうも思っていた」


 無力な俺に価値はない。

 こんな俺など、死んでしまえばいい。


 そう思う一方で、母さんの死を無駄にしたくない、同じ痛みを共有するルインさんを放っておけない、と――彼女達の想いに報いる為だという勝手な自己満足を二人に押し付け、死なない為の理由にしていた。


 個の感情を抑制し、死に場所を求めて生きるむくろ。心から死にたいと思っていながらも、自ら課した死ねない理由で雁字搦がんじがらめになって生き恥を晒している。


 醜く滑稽。

 正しく異常な人間擬にんげんもどきの在り方なのだろう。


 ならばこそ、やはり俺は――。



「――でも、自分で気づくことができたのでしょう? それなら、また歩き出せるんじゃないかしら?」

「え……?」

「他の人だって大なり小なり、皆どこか歪んでいる。皆は現実と擦り合わせられないその歪みを、世界への憤りに変えて他人にぶつけるの。そうするのが一番楽だから――。でも、アークはそうじゃない。この九年間、ずっと自分を罰し続けていた。だから……もういいのよ。少しは自分を許してあげなさい。悪いのは、母親としての役目を果たせなかった私だもの」

「それは、俺が……」

「アークは好きで無職ノージョブになったの?」

「いや……」

「――私だってずっと貴方達と居たかった。その為に生きていたかったけれど、叶わなかった。その事と一緒で、貴方の状況は誰にもどうにも出来なかったでしょう?」


 人間は進化し、発展し続けて来た。だが、どうにもできない事象というのは、往々おうおうにして存在する。


 もって生まれた才能や、他者の生死や想い、世界を取り巻く運命などが該当するのだろう。それは今も尚、不変の事実だ。


 つまり、これは絶対的な解決策答えがない問い。

 自分なりの答えを見つけて歩いていくしかないという事なんだろう。


「私達が愛情を上げる事を出来なかったから、貴方は人間の醜い感情だけを浴びて育って来てしまった。だから、いきなり他の皆と同じに変わるなんて、きっと無理よ。でも、アークはそれでいいんじゃないかしら?」

「だけど、それは間違ってる。許されない事なんだろう? 正直、俺一人がどうなろうが知ったことじゃない。でも、こんな不安定な俺が傍に居ればきっといつか――」

「取り返しのつかない事が起きて、周りの人たちが危険な目に合うかもしれない……。貴方はそういう子だったわね」


 現実を直視した事で自らを断じる俺をほだすかのように、優しい声音が響いた。そして、母さんは上を見ながら表情を綻ばせる。


「それでも、あの達はそう思ってないみたいよ」


 母さんの視線につられて顔を上げれば、上空に広がる光景を目の当たりにして、目を見開きながら驚愕した。


 破片の空に再び映し出されていたのは、闇の魔力を操る俺と戦うルインさん達の姿。いつもの優雅な姿とは打って変わって、彼女達は砂と埃に塗れている。

 対する俺は、殆ど無傷。


 この状況が意味する事は、ただ一つ。


「あれだけボロボロになっても、必死にアークを助けようとしてくれている。自分の命を懸けてね」


 ラセット・ランサエーレの時と同じように、俺の事を死ぬまで殺そうとしていれば、ルインさん達がこれほどの傷を負うはずがない。殲滅で動くのが最も合理的だというのは、火を見るより明らかだ。

 だが、そうでないという事は、間違いなく俺を救おうと何らかの手立てを講じてくれているのだろう。


「どうして、俺なんかの為に……」

「嫌いなのね、自分の事が……。でも、アークは無価値なんかじゃない」


 悲しそうに目を伏せた母さんは、嘗ての激流の女性と同じ事を口にした。


「――自分の事が嫌いでもいい。誰かに好きになってもらおうとも、誰かを好きになろうとしなくたっていい。それでも、誰かが好きになってくれた――ありのままの貴方自身を、少しは認めて上げなさい」

「誰かが好きになってくれた、自分……?」

「ええ、そうよ。例えば、あの子達は他の誰かが同じ目にあったとしても、あれだけ必死になって助けてくれるのかしら? そんな風に行動している裏には何があると思う?」


 彼女達ほどの人間が、俺の為に命を懸ける。


 俺には、それが理解出来なかった。


「理由は簡単。皆、アークが好きだから、どんな形であれ大切に思っているからよ。勿論、私もね」

「俺、を……?」

「自分を信じられなくても、他人を信じられなくても、あの子達が信じてくれた自分自身なら認めて上げてもいいでしょう?」

「……」

「それを否定するのは、あの子達の想いすらをも踏みにじる事だと思わないかしら?」


 母さんの言葉が、崩れかけていた俺の胸中を打つ。


 自分でも相手でもない、その信頼できる誰かの想いを信じる事。それもまた、一つの繋がりであり、人間の在り方なのかもしれないと思わせるものだったからだ。

 とても俺には、考えが及ばない領域の事だった。


「どう思うかはアーク次第。私が言ったから……じゃなく、その中で自分の答えを導きなさい」


 母さんは少しばかり突き放す様に呟く。


 答えを提示して正しい方向へ向かわせるのではなく、今までの俺を頭ごなしに否定するわけでもない。

 全てを肯定してくれて、その上で俺の意思を尊重してくれているのだろう。


「――最後にもう一度訊きます。アークはどうしたい?」


 怜悧れいりな瞳が、再び俺を射抜いた。

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