第132話 無幻――円環問答
「そんなに怖い顔をしてどうしたのかしら?」
母さんは、おどけた様に首を傾げる。
「母さんなら分かってる、はずだろ? この世界は、狂化因子の影響で投影された
俺は言葉に詰まりながら呟く。
「――どうして分かったの?」
「理由は色々あるけど……この世界は、俺にとって都合が良すぎるから」
その言葉を訊いた瞬間、母さんは悲しそうな
「俺は“剣士”系の
それでも言葉を紡ぎ続ける。
皮肉でもなく、
「――それに母さんはもういない。俺の無力さがその命を奪ってしまった。だから、こんな幸せな世界は存在しないんだよ」
この世界を形作る事象は、アーク・グラディウスが失ったモノであり、深層に押し込めて切り捨てたモノだ。同時に望んで止まなかったモノでもあるのだろう。
だが、そんな世界はありえない。戻るものが何もないというのを最も理解しているのは、俺自身に他ならない。
「元に戻るにはどうすればいい?」
詳しい理由は分からないが、俺達がこの世界の特異点であるという事は明白。俺が現状を認識出来たタイミングで母さんが現れた事がその証拠だろう。
破片の空に映し出されていた、ルインさん達の姿が見えなくなっていることも一因だ。
だからこそ、俺は目の前の母さんに問いかけた。
「戻ってどうするの? そもそも、アークは本当に
「何、を……」
「だってそうでしょう? この世界には、苦しい事も悲しい事もない。誰かから否定される事も無ければ、人間の醜さを見なくてもいい。アークが欲しかったものが溢れているわ」
「――ッ!」
「貴方は、理想の世界を棄ててまで現実に戻りたいの?」
母さんの口ぶりからして、何かしら脱出する手段はあるんだろう。しかし、俺はそれ以上の言葉を紡ぐ事は出来なかった。
きっと気付いてしまったからだ。
現実世界に
その戻らなければならない理由すら、虚構であった事に――。
「それは……」
「貴方一人戻った所で戦いは終わらないし、戦況が大きく変わるわけでもない。いなくなったのなら、誰かが代わりに戦ってくれる。だって、人類存亡の危機なんだもの」
今の俺は、帝都騎士団と冒険者ギルド総本部に所属する戦闘員だ。自惚れではなく客観的に見ても、それなりに周囲は認めてくれているという事も何となく感じていた。
でも、それだけだ。
俺一人が抜けた所で戦いの勝敗が決まるわけでもないし、あれだけの人員がいるのなら、その穴も埋められる。別に俺でなければならない理由とはなり得ない。
「そうまでして、あの世界に戻る理由があるの?」
母さんの
確かに俺という人間そのものが必要とされているわけじゃない。
それでも俺は、皆の負担を減らす為に、すぐにでも戻ると母さんに伝えなければいけない立場にある。
確実にそうであるにも拘らず、俺は母さんの言葉に対して首を縦に振ることが出来なかった。
「俺、は……」
あの世界にやり残した事は幾つかある。
一つ目はさっき言われた通り、魔族との決着がついていないという事。しかし、これはもう戻る理由にはなりえない。
「待っている人もいない。譲れない想いもないのでしょう? それなのに?」
二つ目は、ルインさんから受けた恩に報いる事。もう暫くの間、共に在るという事。この理由も、俺にとっての自己満足にしか過ぎない。
何故なら、ルインさんは恩赦目的で俺を助けてくれたわけもないし、彼女と共に在るのなら、もっと相応しい人間がいるからだ。
確かに俺とルインさんは同じ痛みを抱え、互いに誓いを果たす為、全てを棄てて走り続けている。こういった共通点が俺たちを引き合わせ、同じ道を歩ませていた。
でも、結局の所、俺と彼女は互いの傷を舐め合っているだけ――。
お互いが壊れない為に、同じ痛みを抱える誰かを求めたというだけだ。俺たちはまだ、独り立ち出来ない子供だったという事なんだろう。
だが、互いに自分が立てた誓いしか見ていなかった俺たちの狭い世界は、意図しない形でこんなに大きく広がった。そんな世界なら、ルインさんの全てを受け止め、彼女が寄りかかっても壊れないほど根がしっかり張った大樹のような人間は、きっと存在する。
いや、もしかしたら、もう
それは手負いの獣のように危なっかしいであろう――風が吹けば折れてしまうであろう俺と一緒にいては決して成しえないモノだ。事実、彼女には心配をかけ続けている。多分、今この時も――。
なら、ルインさんの隣にいるのが、俺である必要はない。
「そうまでして、アークが戦う理由はあるの?」
最後の理由は、目の前にいるこの人に対して立てた誓い。俺にとっての原初の想い。俺の生きる原動力だったその誓いは、それこそ自己満足の極致。
母さんからそう在れと言われたわけでもなければ、想いを託されたわけでもない。“剣”を握れない事に対する、
それらは、確かに俺にとっての戻らなければならない理由
「貴方が嫌いな、あの世界と人々の為に――」
俺が抱いていたのは、絶対に果たさなければならない誓いではないと、気づいてしまったから――。
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