第二章8  『悪女』

「む、むりですぅ……」

 

 トイレの個室に涼森蘭を連れ込み、カレンは弱音を吐いた。

 

「結構イケメンな男子五人も逆ナンしてさぁ、カラオケまで来たのに意気地無しだなぁ」

 

 ファーストフード店で見かけた黒西高校の生徒五人を逆ナンパ。

 もちろん全て涼森がやったことだが。


 カレンにとっては、男子という苦手な生き物と密室で密着するのはあまりにハードルが高い。

 

「む、むりですよぉ……」

 

「んー、じゃ、制約をつけよっかぁ」

 

「……制約?」

 

 涼森はカレンを背後から抱きしめ、耳たぶをペロリと舐める。

 

「ひゃ――っ!」

 

「あのね、尻軽女になる基準ってわかる?」

 

 涼森は、カレンの全身を妖しくまさぐる。

 カレンの体に力が入らない。

 

「それはね、分別がついているかどうか。誰とでもエッチなことをしちゃう女の子はね、尻軽なの。勘違いしちゃいけないのは、『男の子とよく遊ぶ子』は別に尻軽じゃないんだよぉ?」

 

 カレンは胸を優しく撫でられ、耳に息を吹きかけられる。

 

「ちょ……」

 

「これはね、イケナイこと。だから、決めよ。好きじゃない男の子とはしちゃダメなこと」

 

 涼森はカレンの髪の匂いを嗅ぎながら、カレンの言葉を待っている。

 カレンは頬を紅潮させながら、必死に頭を回す。

 

「わ、わかんないですよ……」

 

「じゃあ、提示してあげる。えっちなことはダメ」

 

 そんなの当たり前じゃないか。

 そんな淫らな女になりたいと思ったことは無いし、絶対になりたくない。

 

「キスも、ダメにしよっかぁ」

 

 それも常識だ。

 カレンの認識では、キスというのは好きな人同士がすることであって、無差別に誰とでもするものではない。

 

「じゃあぁ、手はおっけぇにしよ――」

 

「ダメですよ!!」

 

 まだ手を繋いだことも無い。

 初めてくらい、好きな人と……。

 そんな願望が、カレンにもある。

 カレンは乙女だ。言わずもがなだが。

 

「んー、それは縛りすぎかなぁ。じゃ、こうしよっかぁ」

 

 涼森はカレンの腕にしがみついた。

 

「男の子の腕にしがみつくのはアリ」

 

 それは夫婦がやるようなことだ。寒い北海道の冬、その夜に、体を密着させて、温めあって、でも、顔だけは熱くて、心もポカポカして、キュンキュンする――、

 

「妄想やめてねぇ。それただのオナニーだからぁ」

 

「――っ!!」

 

 いきなり卑猥な発言をする涼森。

 いきなりゆでダコのように真っ赤な顔になるカレン。

 

「そんなんしてても意味ないじゃん? だぁかぁら、腕にしがみつくくらいはしよぉ?」

 

「……わ、わかりました」

 

 カレンは下ネタに弱い。

 下ネタを聞くだけで頭がクラクラしてしまうのだ。

 だから、了承してしまった。

 カレン敗北。

 

「そういうふうにねぇ? ちゃんと分別ついてる女の子はモテるよぉ?」

 

 涼森は唐突にブレザーを脱ぎ、中のシャツも脱ぎ、上半身裸になった。

 乳房も見えてはいけないものも丸見えだ。

 

「え――っ!!」

 

 カレンは両手で顔を隠す。

 女子同士だとしても、なんで唐突に?

 襲われたりしちゃうのかな? 

 

 それは無論、杞憂に終わる。

 

「これとぉ」

 

 涼森はブラジャーを着け、シャツも着る。

 そして、シャツのボタン全てを外し、右肩と鎖骨だけをカレンに見せつけた。

 

「これぇ。どっちがえっちかな?」

 

 前者が裸。

 後者が肩出し、そして少しはだけた感じ。

 

「……後者です」

 

「だよねぇ? だってぇ、男子のぶかぶかなシャツから鎖骨見える感じとかもぉ、腹筋がちょっと見えるのとかもぉ、そうでしょぉ? 全部見せるんじゃなくてぇ、七割は隠すのぉ。そして、三割だけは見せるのぉ。そしたら、興奮するんだよぉ? 隠してるのが見えてる感じがねぇ、すごいそそるのぉ。それは、男子の方が顕著だよぉ? だってぇ、男の子って、お猿さんだもん」

 

 言われてみたらそうだ。

 全てをさらけ出してしまっては、もうその時点で上限が決まってしまう。

 だが、少しだけ相手に見せるという行為は、まだ余力が残っているという暗示にもなり、さらに隠された部分に期待する節がある。

 

「これと同じでぇ、一線は超えない女の子なのに、ボディタッチが多い女の子とかぁ、男子の大好物なんだよぉ?」

 

 涼森はブレザーを着て、身支度を整えた。

 

「じゃぁ、行ってみよっか」

 

 

 

 

 涼森が男子四人を相手にしてくれるらしい。

 カレンが相手にするのは一人だけでいいとのこと。

 それでも負担が大きいのは変わりないが。

 

「えっと、カレンちゃん、だっけ?」

 

 優しそうな好青年がカレンの相手である。

 誰にでも優しそうな男の子だ。

 そんな子でカレンは練習しなければならない。

 心が痛む。

 

『あのねぇ、男子が女子に過度なボディタッチしたらダメだけどぉ、基本的に女の子がやる分には全て許容されるんだよ? たとええっちなことでもね』

 

 とのことだ。

 

 だから、勇気をふりしぼり、男を落とすことだけを考えろとのこと。

 

「う、うん、そ、そうだよ?」

 

「カレンちゃんは趣味とかなんかある?」

 

「え、えっとね……お洒落とかかなぁ」

 

 これは涼森に助言されたことである。

 読書なんてやめとけ、と。

 

「お洒落か。いいね。すごくいいと思うよ」

 

 あまりに純情な好青年だ。

 汚れを知らない無垢な男の子。

 

「……ちょ、ちょっとさ、曲選びたいから、そ、そのリモコンとって、ほ、欲しいな」


「いいよ。はい、こ……れ……」

 

 青年からリモコンを受け取るとき、わざと青年の手に手をかざした。

 やさしく、包み込むように。

 

 涼森に命令されたことだが、カレンは顔を真っ赤にし、潤んだ瞳で上目遣いを青年に送った。

 

 上目遣いは狙ったわけじゃない。

 だが、無垢な青年には、あまりに重い一撃だった。

 

「……か、カレンちゃん……?」

 

 やりすぎた……。

 と後悔。

 羞恥がカレンの顔をますます真っ赤に染めあげ、もはや熱を伴っている。

 

「ご、ごめんね? い、嫌だったよね……?」

 

「…………」

 

 もうカレンは泣きそうだった。

 無垢な青年を弄んでしまった罪悪感。

 そして、あまりに大きく出てしまった自分に対する羞恥。

 もう帰りたかった。

 

「……いや、じゃないよ」

「え?」

 

 見ると、青年は顔を真っ赤にし、どこかカレンではない別の場所を見ている。

 これは……?

 

「ね、ねぇ、わ、私、もっと君のこと知りたい、かも」

 

 圧倒的棒読み。

 大根役者にもほどがある。

 

 ――だが、青年はもうイチコロだ。

 

「か、カレンちゃん……」

 

 強引にでは無く、優しく指先でなぞるように、青年の腕を触り、両腕でしがみつく。

 

「緊張しちゃったかも」

 

 カレンは青年の顔を見上げ、青年は息を荒くしている。

 青年の心拍が、カレンにも分かる。

 

 ――なんだろう、すごく、すごく………………いい。

 

「カレン……ちゃん」

 

 涼森を含めた四人は歌に熱中している。

 ――否、涼森が気を引いてくれているのだろう。

 だから、今は何をしてもバレない。

 

 ――もっと、見て欲しい。私を、私を、私を。私を私を。私。私だけを、私だけを見て。好きになって。

 

 カレンは目を閉じた。

 顎を上げ、青年に身を任せる。

 

 青年もさすがに耐えきれなくなり、ゆっくりと口を近づける。

 

 青年はカレンにキスをした。

 

「……?」

 

「ふふ、これは、また今度ね」

 

 青年の唇はカレンの人差し指に止められていた。

 

 カレンの心には、何かが芽生えた。

 この青年に対する恋愛感情じゃない。

 男に――異性に好意を向けられる感覚。感触。

 

 この青年はそこそこイケメンだ。

 彼女はいないらしいが、この青年に惚れている女の子は一定数いるはず。

 

 ――それを、初対面のカレンがオトス。ウバウ。リャクダツ。


 ……なんだろう、この気持ち……………。

 

「また、会いたいな」

 

 男の子の好意を、自分に向けさせる。

 好意を注がられる。

 愛される。

 愛。

 なんだろう……

 すごく、すごく、

 

 ――――すごく……気持ちいい………………。

 

 カレンの今まで留められていた承認欲求が、涼森蘭をトリガーとして爆発した。

 

 他者を愛さないのに、他者から愛されることを望む、最悪の悪女の誕生。

 そのきっかけが、こんな些細なことだとは、誰も知らない。 

 

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