第二章5   『APRIL FOOLs' DAY』

「ゲーム……?」


 月を背景に仮面を被る男――死神の言葉に、みのるは眉をひそめた。


「そう、ゲームだ。簡単なゲームだよ。四分もあれば終わる」


 実と死神の距離は五メートルほど。足の速い実が逃げ去ることは可能だろう。

 ――だが、芽衣の安否が頭から離れない。

 

「……待て……芽衣は……? 芽衣はどこだ……?」


 死神は笑った。

 真っ白な仮面のせいで表情は窺えなかった。でも、鈍い笑い声が死神の仮面から漏れたのは分かった。


「君がオレと遊んでくれるなら教えてあげる」


 その言葉は、芽衣が何らかの形で巻き込まれたことを暗示するものだった。

 実は奥歯をかみしめ、ゆっくりと首肯する。

 そして、死神は「よし」と言って、ポケットに手を突っ込んだ。


「当事者か傍観者かゲ〜ム」


 死神は片手を顎に添え、「即興で作ったからかなりダサいね。ま、いっか」と呟いた。


「……どういう」


「ルールは簡単。選択肢は二つのみ。三分間ここにいるか、それとも三分以内にこの崖から飛び降りるか」


 死神は背後の海――否、崖に親指を向けた。


「この崖は十メートル弱あるからね。落ちたら最悪死んじゃうよ。まあ、キミなら大丈夫だと思うけどね。骨折はすると思うけど」


「……意味が、意味がわかんねぇよ…………」


 もはやゲームにすらなっていない選択を突きつける死神に、実はひどく困惑した。


「そりゃ、いきなり飛び降りるか飛び降りないかの二択を突きつけられたら、飛び降りないを選ぶよね。赤ん坊でもそれを選ぶはずだ。でも、これに一つスパイスを付け加えるだけで、ゲームが格段に面白くなる」


 死神は一拍置いてから、


「――下の洞窟の中で芽衣ちゃんを拘束してるって言ったら、どうする?」


 血の気が引いた。

 実の全身が戦慄した。

 芽衣が、拘束、されてる……?

 殴りかかりそうになる気持ちを噛み殺し、なるべく死神を刺激しないようにする、と実は冷静な判断をした。


「……めいを……芽衣を無事に還してくれるなら、警察に言ったりしない…………絶対に、絶対だ。だから、なんとか、どうか、頼む……」


 あくまでも事態を穏便に済ませようとする実。

 警察に通報しないという心意気は真だったが、死神が汲み取ってくれたかどうかは分からない。

 しかし、次に死神が発した言葉は、最低なものだった。


「――洞窟の中で、芽衣ちゃんを椅子に拘束してる。そして、手首の血管に点滴を繋いでいるんだ。点滴ボトルの中身には有毒な液体も混入していてね、ええと、あと三分で毒物が芽衣ちゃんの体内に入っちゃうんだよ」


「嘘……だろ」


 年齢は分からないが、おそらく実とそう変わらないだろう。そんな程度の男が、有毒な液体など入手できるのだろうか? そもそも点滴をタイマーにする技術なんて本当にあるんだろうか?

 残酷なくらい実の思考は冷静だった。

 だが、死神は足の後ろに置いていたある物を手に取り、実の方へと投げた。

 それは、芽衣の靴だった。


「本当だよ?」


 理性なんて一瞬で消し飛んだ。

 ありえないと思っていたのに、実は死神に駆け寄り、崖から落としてやろうと拳を振りかざした。


 ――でも、気づけば実は地面に横になっていた。


「キミさ、サッカー部のエースなんでしょ? キック力とか活かさないと」


 何が起きたのかも分からなかった。

 殴ったはずの実が地面にひれ伏し、殴られたはずの死神は何の変哲もないように立っている。


「あと、二分半。さすがに時間が無いね。これ、あげる」


 死神はポケットから一枚の折り畳まれた紙を取り出し、実のポケットに入れた。


「これに芽衣ちゃんを助けるためのパスワードが書いてある。下に降りてから、見てね」


 死神は淡々と歩き、先程実がいた位置で止まって振り返った。


「あと、一分半。傾斜の緩いところは近くにないね。最速でも五分はかかっちゃう。その間に芽衣ちゃんはお陀仏しちゃうわけ。さ、どうする? ここで芽衣ちゃんを犠牲にするか。芽衣ちゃんを助けにキミが犠牲になるか」

 

 選択肢の持つ意味が変わった。

 選択肢として意味をなさなかった物が、またもや意味をなさない。

 ——ただ、選択が倒錯しただけ。

 

「あと、一分」

 

「待て……待って、くれよ……」

 

 時間だけは進んでいく。

 死神は地べたに這いつくばる実を観察している。

 まるで、実の中身に興味があるとでも言いたげに。

 

「待って……くれよぉ……」

 

 四つん這いになりながら、実は崖の下を覗く。

 昼に芽衣と訪れ、見上げたときよりも高さがあるように感じる。

 理性も本能もぐちゃぐちゃに掻き回され、手足が震え始めた。

 

「あと、四十五秒」

 

 落ちればいいわけではない。

 落ちて、這いつくばってでも芽衣のところに辿り着き、彼女を救わなくてはならない。

 もう、時間なんてない。

 

 実は震える体を強引に叩き起こし、今一度砂浜を崖の上から見下ろす。

 

「——さあ、キミはどっちを選ぶ?」

 

 死神の醜声が背後に突き刺さる。

 

 ――なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで……?


 不気味な死神の笑い声が木々を通して森の中を響き渡る。その笑い声は非情さの塊だ。あまりに醜く、あまりに惨い。

 だが、


 ――空っぽだ。


 赫い目の死神が笑いながら、選択肢を与える。与える選択肢は二つ。

 だが、選択肢はあってないようなものだ。


 選べる選択は一つしか無い。もう一つを選ぶことなど出来やしない。選択なんて体のいい飾りだ。


 ――怖い、駄目だ、助け――怖い、恐い、駄目だ。無理だ、でも俺がたす――恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 でも、でも、俺が、俺が、


 ――俺が救けなきゃ。


 ――だから、選ばなきゃ。


 不条理な選択。選択では無い選択。


 これは、





 ――選択という名の強制だ。

 

 

 

 

 ——ぐしゃりと、音がした。

 それが、自分の体内から発せられた音かどうかなんて、考える余裕もなかった。

 右足が内側から灼けるように熱い。

 少し頭を打ったせいか、視界もぼやけている。

 

「……め、いぃ……」

 

 全身の数多の骨が砕け散るのを無視し、実は地面を這う。

 洞窟の暗闇の中で拘束されているであろう芽衣を助けるため。

 顔が地面に削られるように擦られても、ムカデのように、ケムシのように、ミミズのように、四肢を使わずに這う。

 

「じゅーう」

 

 数秒前まで実が立っていた洞窟の上から、小さな声が聞こえた。

 

「はーち」

 

 死神が上から実を見下ろしている。

 実の醜態を貶すように見下ろしている。

 

「ろーく」

 

 その言葉がカウントであることに気づき、実は焦燥に呑まれる。

 折れた手足を懸命に使い、洞窟に向かう。

 カタツムリが欠伸するような速度で、実は這う。這う。這う。這う。這う。這う。這う。

 

 ——でも、進まない。

 

「あぁぁぁあああ」

 

「さーん」


 這う。這え。進め。進め。進め。

 

 実の目から汚い涙が流れ始める。

 土で汚れた顔面を洗うように涙が零れている。

 

「いーち」

 

「あぁああぁぁあぁぁああああ」

 

 まだ、実は洞窟にも入れていない。

 体は動かないのに、涙は出てくる。

 

「ゼーロ」

 

「ああああああああああああああああああああ」

 

 折れていない首を使い、地面に何度も頭を叩きつける。

 芽衣が、死んだ……?

 幼馴染の死を受け入れられない実を、死神は嗤う。

 

「みのる……?」

 

 泣き叫び、慟哭の嵐となった聴覚に、聞き慣れた声を感知した。

 それは、洞窟の中から発せられた声だ。

 洞窟の中だからか、少し反響している。

 

「み、のる……?」

 

 洞窟の中から何かが歩いてくる。ゆっくりと。でも、ムカデよりはよっぽど早い速度で。

 

 洞窟の暗闇から、何かが姿を現した。

 その何かは、少女だった。

 死んだはずの少女。

 

「ぇ……い?」

 

 正しい発音もままならなかった。

 

「みのる————っ!!」

     

 ムカデの醜態を目の当たりにした少女が顔を真っ青にしてムカデに駆け寄った。

 

「実!? どうして!?」

 

 少女——芽衣は実の体を触り、当惑している。

 

「……ぁんで、生きて……る?」

 

 拘束されてたはずじゃなかったのか?

 点滴は?

 毒物は?

 カウントは?

 

「ぅ……そ?」

 

 芽衣が泣き叫びながら自分の名前を呼んでいる。

 でも、実の理解は全く追いつかなかった。

 

「か……み、きれ」

 

 死神から貰った紙切れを思い出し、痛みを我慢しながらポケットから紙切れを取り出した。

 三日月の光のおかげで、なんとか字を識別するくらいはできた。

 

『今のキミの感情を教えてあげよう。

 きっと、わけがわからないだろう? だから、教えてあげるよ。

 まず芽衣ちゃんは洞窟に呼び出しただけ。そこで待機命令を出したのさ。洞窟から出たら実くんを崖の上から落とす、ってね。

 で、なんも知らないキミは馬鹿みたいに崖から落ちて、たぶん骨折してるよね。

 たぶん、ムカデみたいに地面を這うんだけど、間に合わないんだろうね。

 それで泣き叫ぶんだよね。嗚咽して、慟哭して、みっともなく。

 でも、芽衣ちゃんが洞窟から出てきて駆け寄ってくれるんだ。頭の中がぐちゃぐちゃになってるだろう?

 なんで芽衣が生きてるんだ? ってね。

 初めに言ったでしょ? これはゲームだって。

 ボクはそんな薬を手に入れることもできないし、そんな高度な技術も扱えないよ? ま、それは最初はキミも理解してたよね。

 短絡的な思考っていうのは良くないよね。やっぱり恋心が邪魔しちゃったのかな? ボクはそれを知りたいんだ。教えてね。

 でも、良かったね。

 芽衣ちゃんは何事もなく無事。

 キミが飛び降りた理由って、芽衣ちゃんを助けるためでしょ?

 良かったじゃん!!

 喜ぼうよ!!

 芽衣、無事でよかったって叫んでよ!!

 

 でも、キミは叫ばないよね。

 だって、叫べないもんね。

 なぜなら、キミが飛び降りなくても芽衣ちゃんは助かったわけだ。

 キミが早とちりしないで、胡乱なボクのことを信用しないで、三分間洞窟の上で待っていたら、芽衣ちゃんは洞窟からでてきたわけだよね?

 キミさ、何のために飛び降りたの?

 キミさ、何のために全身の骨を粉々にしたの?

 まさしく無駄骨だね。

 

 可哀想に。これで高体連は出れないね。サッカー人生にも大きく影響しちゃうかも。

 そもそも芽衣ちゃんがいなければこんなことにならなかったかもしれないよね。

 だから、祝福しようよ。

 芽衣、無事でよかったねって。

 早くしなよ。

 

 でも、できないのは知ってるよ。

 今、キミの頭の中にある感情は後悔だね。

 飛び降りなければ。

 しっかりと熟慮していれば。etc。

 

 芽衣ちゃんの安否なんてどうでもいいんじゃん。

 笑える。

 

 芽衣ちゃんのために飛び降りたのに、芽衣ちゃんが無事で安心しないの?

 やっぱりキミ、何のために飛び降りたの?

 ま、お二人さん仲良くね。


 キミが芽衣ちゃんのことなんでどうでもよくって、自分のサッカー人生のことで後悔している様を、ボクは上から見下ろさせてもらうよ。


 後悔の味、イタダキマス。

 

 HAPPY APRIL FOOL!!』

 

 コンピューターで印刷した文字が刻まれていた。

 

 まだ芽衣は叫んでいる。

 曲がってはイケナイ方向に曲がった実の手足を目にしながら、号泣している。

 

 ——でも、実がそれを気遣いすることはなかった。

 

 芽衣への「無事でよかった」という言葉が出てこない。

 たとえ嘘でも、出てこない。

 

 芽衣が無事ということへの安堵よりも、後悔が勝っていた。

 

 ——飛び降りなければ良かった。

 ——なんで、助けに? なんで? どうして? 俺は? なんの、なんのなんのなんのなんのなんのなんのなんのなんのなんのなんのなんのために?

 

 実は、芽衣の無事を心から喜べない自分をひどく恨む。

 

 でも、口から出た叫びは、飛び降りた後悔から来る嘆きだった。

 

 四月一日の嘘。

 その嘘が青年の心に与えたものは、あまりにも大きかった。

 全身の骨の痛みよりも、よっぽど。

 

 死神——流榎は、それを興味深そうに上から眺めていた。

 

 そして、呟く。

 


「あんまり面白くないな」

 

 

 

 

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