第二章2  『虚構の告白と本物の秘密』

「は……?」


 2019年の3月中旬。

 雪解けとは無縁の、閑静な喫茶店。

 そこに、少女の疑問符が轟いた。


 その少女の視線の先にあるのは、携帯の液晶に映るメッセージだ。


『ごめん! 先生に呼ばれた! 最悪帰ってもおけ』


 みのるからのLINEだ。

 待ち合わせをドタキャンされた、ということ。


「ほんとにいい加減……」


 その無責任すぎるメッセージに、呆れというよりは、怒気を混じえた嘆息をこぼす少女は、中野芽依なかのめいだ。


 ドン! とテーブルにスマホを叩きつけ、芽依はお手洗いへと向かう。

 実から貰ったお揃いのキーホールダーも同時に叩きつけられたのを少し後悔するも、彼女は足をとめない。


 憤りをまとった芽依めいの剣幕に、店内の客がカップを片手に視線を寄せているが、芽依はまったく気にしない。


 お手洗いに入るなり、芽依は洗面台の鏡を凝視した。


「……やっぱ、ツムギちゃんには勝てないかな」


 中野芽依は可愛い…………だろう。

 その曖昧な表現の理由には、芽依自身の自信のなさがあげられる。


 この高校の花美の寵愛を受けし、二輪の薔薇。

 その二人の圧倒的『美』のせいで、自分がひどく矮小なものに思えてしまうのだ。

 

 さらに、芽依は二人よりも告白される回数が多い。

 それは、薔薇には届かないと自重した末の選択が、中野芽依という『名無し』なのだろう。


 自分はモテている、などと過信していた一年ほど前の自分に、自嘲を込めた嘆息をぶつける。


「あー、もうイライラする!」


 行き場のないうやむやを両頬に叩きつけ、芽依はテーブル席へと戻る。


「絶対こないじゃん」


 諦念の呟きと同時に、芽依はスマホとバッグを取り、店を後にした。


 ――想い出のキーホルダーが消えているとは知らずに。





「うそ……!?」


 雪解けが大いに進み、緑が生い茂る大通公園のベンチにて、叫び声を上げたのは、またもや中野芽依だ。


「ない……うそ……」


 喫茶店を出て、なんとなしに大通公園のベンチに腰をかけていたとき、芽依はスマホのキーホルダーが無くなっていることに気づいた。


「だめ……それは、ダメ……」


 人目を気にせず、這いつくばってベンチの下やら、木陰などを捜索する芽依。

 だが、一向に小さなサッカーボールは見つからない。


「ほんとに……お願い……お願いします……」


 願う。ありもしない神に。信じてもいない神に。中野芽依は都合よく乞う。

 

 あれは実との大切な宝物。

 代用など効かない、まごうことなき宝物。

 それを芽依は踏みにじった。芽依が、芽依が実を、実との繋がりを断ち切ってしまったということなのか芽依は大切にしていたはずなのにそれはただ形だけだったということなのかちゃんと肌身離さずもっていたのにちゃんと大事にしていたはずなのに結果大事にできていなかったということそれは芽依自身の想いがその程度だったということへの表れなのではないかそんなはずがないということを証明できるのはあくまでも芽依自身なのにそれは芽依にしか分からないから意味が無いというジレンマでもありその証左が芽依自身というひどく信ぴょう性に欠けるものだしそれをどう実に説明しようと弁解しようと弁明しようと釈明しようと結果としてキーホルダーを無くしてしまっているわけだし実際実だって芽依を無下に扱うようになってきているということはそれは芽依のそんな適当な扱いを薄々勘づいていた可能性もあるしそれでも芽依は実との繋がりを断ちたくないけどキーホルダーはどれだけ探しても見つからないし、見つからないし、見つからないし、見つからないし、見つからない。見つからない――、


「――あの〜、これ落としましたよ」


 混乱し、不安と憂慮で脳内が埋め尽くされていた芽依。

 その背後から、炎のようにきらびやかな美声が鳴った。


「あなたは……」


 黒より黒い髪の毛に、赤より赫い毛先。

 ルビーのような赤眼。

 それらと対照的な白い容貌。


「これ、探してたんですか?」


 青年がにこやかな笑みでサッカーボールのキーホルダーを差し出してきた。


「あ! ありがとうございます!!」


 それはもちろん、実から貰ったものだ。

 芽依はそれを受け取り、大きな声で感謝を伝える。


「いえいえ、見つかって良かったですよ」


 その青年の満面の笑みに、芽依は思わず顔を逸らした。

 なぜ自分の両頬が熱を帯びているのか。

 その理由は、単に青年があまりに美しいからだろう。

 ここまでの美青年を、芽依は見たことがない。


「もしかして、黒東高校ですか?」


 紅潮させた顔を背けていた芽依に、青年が質問をした。


「あ、はい。そうです。一年生です」


 それに青年はまた輝くような笑顔を浮上させ、


「ボクも黒東の一年なんですよね」


 芽依はこの青年を知らなかった。

 ここまでの美青年が学校で話題にならないなど有り得るのだろうか?

 単純な顔立ちの端正さだけで言えば、あの龍神蓮より勝っているとも言える。

 身長や他のスペックを度外視にした場合だけれど。


「そ、そうなんですね。知らなかった、です」


「そうですよね。ボク、影薄いですもん」


「そんなことないと思いますよ!」


 別に惚れたわけではない。

 男が美女を見て恍惚とするように、女が美男を見て惚れ惚れとすることも当然ある。


「そうかな? ありがと。ところで、今おひとりなんですか?」


「そ、そうなんですよ。ドタキャンされちゃって……」


 青年は自分の顎を触りながら「なるほど」と呟いた。


「お気の毒に。こんなに可愛い彼女さんを差し置くということは、彼氏さんにもそれなりの理由があるのでしょうね」


 その芽依も、実すらも貶さない言葉。

 今まで有象無象に言われてきた可愛いという単語が、まったく別のニュアンスを含んでいるように感じる。


「か、彼氏じゃないですよ!」


「あ、それは失敬。……ところで、今お時間ありますか?」


「え、あ、あの、はい……」


「じゃあ、良ければお茶でもしていきませんか?」


 唐突の誘いに芽依は困惑するが、もう既に答えは出ていた。


「は、はい」


 それは、計算し尽くされた二つ返事だった。





「やった! 95点!!」


 小さな密室にて、高い声を響かせたながら芽依が両手を上げた。


「おめでとう。すごいね、芽依は」


 それを安らかな拍手で褒め称えるのは美青年――ルカだ。


 二人はあの後、近くのファーストフード店により、仲が良くなった後で、カラオケに寄っていた。


「今日すごい調子いい! ルカも歌う?」


「いや、ボクはいいよ。芽依の歌をもっと聞きたいかな」


 人の心をそっと包み込むような優しい笑顔に、芽依は心を奪われそうになる。


「そ、そんな……ありがと」


「というか、芽依は彼氏とか作らないの?」


 突然のルカの発言に驚きながら、芽依は実の姿を想像した。


「いや、私ごときじゃ、彼氏なんて作れないよ」


「そーかな? こんなに可愛いのにね」


 大きいL字のソファーなのに、二人の距離は手を伸ばせば触れ合える距離だ。

 ルカの褒め言葉とその距離感によって、心臓の鼓動が昂り、芽依の意識が乖離しそうになる。


「……る、ルカは彼女とかいないの?」


「いないよ」


 謎に安堵する自分が気持ち悪かった。

 芽依はルカを見てかっこいいと思うし、ドキドキもする。だが、これは恋とは違うような気がする。

 それは、もっともっと特別で不可視な感情のはずだから。


「――じゃーさ、ボクと付き合ってみる?」


 ルカが真剣な眼差しで、なかば告白のような言葉を告げる。

 その告白は、欲に汚されていなかった。

 でも、空っぽだった。


「え、えっと……それは……」


「んー、なんて言えばいいんだろ。最初からちゃんと付き合うというよりは、形から入るって感じかな? 浅はかかもしれないけど、ボクはきっと……いや、絶対芽依のことを好きになるよ」


 あまりにも唐突な告白。

 しかし、こんなにも甘い顔と声でささやかれては、さすがの芽依も狼狽えてしまう。

 それでも芽依は実との関係を危惧している。

 実との関係が壊れて欲しくないのだ。

 ――だって、芽依は、芽依は実のことが…………。


「こっち見てよ」


 気づけば、ルカは芽依のすぐ前にいた。

 俯く芽依の顎を、ルカはそっと上げる。


 芽依は何も言えない。言わなければならないのに、心が言葉をかき消してしまう。


「目、閉じて」


 ルカは目を妖艶に細めながら、ゆっくりと芽依の顔に――唇に近づく。

 

 芽依もこの後にする行動を悟る。

 でも、芽依の体は動かない。

 まるで鎖に縛られたように、体が動かない。

 それは、物理的なものではなく、ルカが強いるものでもない。

 中野芽依という一人の女が、ルカという男を求めている。

 

 ルカの甘い色気に負け、芽依もまた目を閉じた。


 もはや、芽依は実のことを考えていなかった。

 芽依がどんなに実のことを想っていても、それが実から返ってくる保証なんてどこにもない。

 でも、ルカは違う。

 ルカはこんなにイケメンで、こんなに優しい。

 なら、いいじゃないか。


 目を閉じていても、ルカが近づいてくるのが分かる。

 あと少しで、芽依の恋が終わって、新たなコイが始まる。

 だから、今は目を閉じているだけでいい。


「…………」


 ルカの匂いがする。

 甘く、淡く、鼻腔をくすぐるシャンプーの香り。

 ルカの前髪が芽依の顔に触れ、そのときがくる。


「……ごめん」


 それと同時に、芽依はルカの胸を押していた。

 

 なぜ、自分がルカを拒絶したのかは分からない。

 別にルカが嫌だとか、そんな単純な理由じゃない。

 

 ここでルカを受け入れてしまえば、本当に実を踏みにじってしまうような気がした。

 

「…………」


「その、なんというか……これは、ダメかな……」


「――――そうか」


「え?」


 芽依の心を恐怖が支配した。

 ルカ? の瞳が。ルカ? の眼差しが。ルカ? の声が。ルカ? の口調が。ルカ? の雰囲気が、芽依の心と体を戦慄させていた。


 ルカ? はその『無』表情から、またもや好青年のような優しい笑みを浮上させた。

 それは、一種のトリックのようだった。

 ――人が一瞬で入れ替わってしまうような、魔術にも思えた。


「ごめんね、ちょっと早とちりしすぎたかも。なんか気まずくなっちゃったし、ボクはここで帰らせてもらうよ」


 ルカは立ち上がり、丈の長いダッフルコートに身を包んだ。

 そして、二千円をテーブルに置いた。


「これ、多分二人分足りるよね。もし余ったら適当に使っていいからさ」


「だめだよ! 私も払うよ……?」


「いいんだ。大丈夫。ボクの責任だし」


 そう笑みをこぼしながら、ルカは芽依の頭を撫でた。

 その女子の理想を具現化したような動作。

 ――なのに芽依は、少しもときめかなかった。


「れ、連絡先くらいなら……」


 さっきまでキスしようとしてたのに、最大限の譲歩が連絡先の交換になっていた。

 それは、あのルカ? の一面を見てしまったからかもしれない。


「いいよ、別に。だって、どうせまた――」


 ルカが死んだ。

 物理的じゃない。精神的な意味だ。

 ルカという一人の好青年が跡形もなく、消え失せた。

 代わりにそこに居たのは、あまりに虚構な空箱だった。


「――すぐに会うだろうから」


 蛇に睨まれた蛙のごとく、芽依の体が動かない。――否、動くことを許されない。

 

「じゃあ、また。――ミノルくんによろしく」


 そう言い残し、ルカはカラオケボックスから去っていった。


 呆然とする芽依の意識を取り戻させたのは、実からのメッセージだった。

 実曰く、先生は実のことなど呼んでいなかった、と。

 

 奇妙な出来事に眉をしかめながら、サッカーボールのキーホルダーに目を向けた。

 ――とてもじゃないが、自然に外れるようには見えなかった。

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