第二章1 『傍観者』
「今日はここまで! すまないが、先生はこのあと用事があるから、今日ミーティングなしな! すぐ片付けて解散してくれ!」
広大な人工芝のピッチに、笛の音と監督の声が轟いた。
今日の練習はいつにも増して過酷だったためか、数秒前まで試合をしていたコート内の選手が倒れ込み天を仰いでいる。
――
彼は大の字になって呼吸を整えている。
「はぁ…………はぁ…………。うお――っ!!」
仰いでいた天から何かが降ってきた。
その何かは、
反射的に実がそれをキャッチすると、それは水色のボトルだった。
すぐに蓋を開け、水を喉に入れる。
「うめぇ…………。サンキューな、芽依」
ジャージの上にベンチコートを羽織った女子マネージャー――
胸まで伸びたセミロングの黒髪を、片手で耳にかけながら、
「天使かよ…………。まじ天使すぎ。やばい女神」
「の、飲みすぎ!」
一瞬だけ顔を赤くした芽依だったが、すぐに水をがぶ飲みする実からボトルを取り上げた。
「おふくろかよお前」
「お、お、おふくろ!? 最っ低……二度と持ってこないから。脱水で死ね!!」
そう吐き捨てて、芽依は去っていった。
これは、ツンデレと捉えていいのだろうか。
いや、違うな。ガチギレだな。
と、冷静に分析したのち、実も室内練習場に戻った。
室内練習場に戻ると、スタメンの先輩三人が実の方に向かってきた。
「和倉。なんか最近、あんま仕掛けなくなったな、自分で」
「そうですかね?」
「お前の武器はドリブルなんだ。それは自明だろ? だから失敗しても文句は言わねぇ。取られても取り返せばいいだけなんだからよ」
――それは少し乱暴すぎるのでは……。
だが、この三人は非常に優しい。
一年で唯一のスタメンである和倉に対して、よく気を遣って接してくれている。
出る釘は打たれる、なんて言うが、本当に上手い人たちはそんなことはしない。
これは実の経験則だ。
――だが…………。
「分かりました。自分にできる限りはチャレンジしたいと思います」
「おう、頑張ろうな」
三人は、三年生の集団へと戻っていった。
実がウィンドブレイカーを着て、マーカーを回収しているとき、
「和倉、片付けちゃんとしてんのか?」
今まさに片付けをしている実に、先輩が声をかけてきた。
人数は五人。
いずれも、スタメンはおろか、ベンチ外だ。
「はい、ちょうど今してるところです」
「あぁ?」
実は胸ぐらを掴まれた。
力でしか人を支配することができない。
昭和のヤンキーかよ。
「そうじゃなくてさ、試合終わったあとも、あの中野ちゃんと話してたしょ? そういうところなんだよね」
そうか、そうだったか。
実は全てに合点がいった。
この五人は一年でスタメンの実に嫉妬している。
それに加えて、芽依と仲がいい実にも僻んでいるのだ。
――くそが……。
「まぁ、そうですね。幼馴染なんで」
煽り倒すことにする。
実が最近自分でドリブルを仕掛けなくなった主な理由は、この五人だ。
脅されてはいないが、圧をかけられている。
別に自分にされるのはどうでもいい。だが、芽依は別だ。こいつらなら芽依に何をするか分からない。
「あんさ、あんま調子に乗らない方がいいよ? 君はともかく、芽依ちゃんを不幸にしたくはないでしょ?」
そう言うと、残りの四人が気味の悪いニヤケヅラを浮かべ、劣情を表に出していた。
思わず、実は五人を睥睨する。
その実の剣幕に五人はたじろぎながらも、
「芽依ちゃんに酷いことされたくなかったらさ、今日の片付け全部やろっか」
そう言ってその五人は一、二年生を連れ、帰宅した。
他の三年生も既に帰宅しているため、この場に残ったのは本当に実だけ。
「……はぁ。くそ」
あと、三十分くらいはかかるだろうか。
皆でやれば五分もかからないことを、わざわざ……。
外のコーンやマーカーの片付けを終え、実は室内練習場に戻ってきた。
「え……」
練習場に戻ると、散らばっていたはずのコーンやボールが全て整頓されていた。
「いったい誰が……」
その実の言葉と同時に、奥の用具室から人がでてきた。
セミロングの黒髪をポニーテールに縛った少女。
「芽依……」
「実、早く終わらせるよ」
そこから五分ごどで後片付けを終え、二人は帰路についていた。
「……芽依、なんで残ってくれてたんだ」
「……実ドジだから。サッカー以外なんもできないポンコツだもん」
酷い言われように実は反駁しようとするが、真意を悟ると、言葉は実の喉を逆流した。
「……ありがとな」
「……なんも」
歩道を歩く二人だが、少し空気が重い。
なぜだか、隣の国道を通る車の音がよく耳にはいる。
そんな重々しい空気を切り裂いたのは、実だった。
「芽依。なんで、付き合わないんだ」
中野芽依はモテる。
同学年からも上級生からも、とにかくモテる。
おそらく花美の二人――東峰紫苑と慈照寺紬に次ぐ存在だ。
だが、芽依は絶対に恋人を作らない。
「……私は顔と能力重視なの。そんな安い男にほいほいついていくほど尻軽じゃないもん」
「まあ、お前に告るやつの大半は人気者なんだけどな……」
芽依は小さな石ころを軽くつま先で蹴っ飛ばした。
「まーあ。私も圧倒的イケメンで、圧倒的優男に言い寄られたら押し負けちゃうかもなぁ〜? 龍神くんとか?」
芽依は片頬だけで笑いながら、実をからかうように煽った。
だが、実はそんなことに気づかない。
「蓮にはツムギちゃんいるだろ」
「……ちゃん付けきしょい」
同時に、芽依が実の脇腹を肘で小突いた。
結構痛かった。
声は我慢したけれども。
「なんでだよ。他に言い方ないだろ。まさか呼び捨てにするわけにもいかないし」
「……なんで皆そんなに神聖化するのかな。顔でしか選べないんだよね。やっぱ男は」
ということを、容姿端麗な娘が言うのはひどく滑稽である。これはもはや、ある意味では自虐と取れるのかもしれない。
「なに、嫉妬? あの人たちはあの人たち。芽依は芽依だろ。お前も顔は悪かねーしな」
『棘無しの赤薔薇』『棘塗れの青薔薇』
この二人は、たしかに美しい。
だが、美人だからなんだというのか。
この高校の花美というものは、あまりに度が過ぎている。
ここまでくると宗教クラスだ。神でもないのに過度に祀りあげるのを見ていると、少し窮屈に思える。
本人たちが一番嫌がっているかもしれないけれど。
「……なんで顔赤くしてんだ」
そんな実の考えとは裏腹に、芽依は頬を染め上げていた。
「ま、ツムギちゃんの方が可愛いけんどな」
「は!? 死ねばいいのに……。もう彼氏作るから。私なら作れるもんね〜だ」
今のは冗談だ。
実からすれば、芽依とツムギに画然とした差があるようには見えない。
それは、実個人の主観が入ってるのかもしれないが。
だが、実の冗談を汲み取れるほど、芽依は器用ではない。
――それも、芽依個人の主観が介入しているのかもしれないが。
「はいはい。つーかなに。今日やけにツンツンしてんな」
「……まぁ、ね」
俯く芽依を横目で確認しながら、実は小さな嘆息をした。
「なんで」
「なんでって……こっちがなんでよ……」
芽依の思わぬ返答。
それに実は「え?」と疑問符を浮かべる。
芽依の顔が悲壮感に侵され、疑問と共に困惑を隠しきれない。
「なんで……抵抗しないの」
目の前の青信号を無視し、芽依は立ち止まる。
当然、実も立ち止まり、青信号が点滅し始めた。
「いや、別に抵抗する理由もないし。俺がAチームの練習で片付けできてないのは事実だしな。他の一年にも悪いし。だから――」
「そんなの納得できないよ……」
頬をかき、斜め上を見ながら必死の言い訳をする実を、芽依の言葉が制止した。
「納得とかじゃなくてだ……ぁ」
言葉の最中、実が芽依と目を合わせると、芽依の瞳は潤んでいた。
「だって、Aチームに実がいるのは実が今まで努力してきたからでしょ! 幼稚園からずっとサッカーのことばっか考えて、練習して、でも、勝てなくて、泣いて、また練習して……そうやって積み重ねて上手くなったんでしょ!? なのに……なのに、なんで……なんであんな風に妬まれなきゃいけないの……?」
怒号。
とは、とてもじゃないが言えなかった。
ヒステリックでも、自分勝手でも、なんでもない。
今の言葉は、全て実を思ってのことだ。
その言われ様に、実は言葉を失う。
「芽依……」
「なんでよ…………」
中野芽依は、和倉実の幼馴染だ。
小さい頃から、ずっと実のサッカーを傍らで見てきた。
実が試合に負けたときも。
実のドリブルが上手くいかないときも。
実が試合に勝ったときも。
実がたくさん点を決めたときも。
それを自分の事のように、芽依は喜び、悲しみ、悩み、励ましてくれた。
それを、実は忘れていた。
『いつか連れてってよ。全国』
いつだろうか。思い出せない。
何年も前に芽依が実に言った言葉だ。
これに、実は返答していない。
理由は分からない。
ただ見ているだけの傍観者である芽依に、全国が安く見られているように感じたからだ。
「――俺が、連れてくよ……全国」
その、質問の答えになっていない返答に、また芽依は双眸に涙を浮かべた。
「答えになってない……」
「ああ、だから……応えるつもりだ」
少し零れた涙を拭った芽依は、少し赤くなった瞳を投げかけながら、くすくすと微笑んだ。
「じゃあ、まずは沖縄だね」
「ああ、そうだな」
3月31日から沖縄遠征がある。
そこでスタメンが確定するだろう。
「あ、また赤になっちゃった」
芽依の言葉を受け、実が前方を見ると、また信号が赤くなっていた。
「芽依が泣くからだろ」
「実が変なこと言うからでしょ!」
「てか、このキーホルダーまだ付けてんのな」
芽依のスマホには、サッカーボールの小さなキーホルダーが付いていた。
これは、中学生のときに実が芽依にゲームセンターでプレゼントしたものだ。
「実も付けてんじゃん」
「まあな」
二人はたわいもない話を、笑みとともにする。
笑いながら、長い赤信号を待つ。
「――僕にも見せてくれ、全国」
――陰で二人を傍観する死神もまた、嗤いながら信号を待っているのを、二人はまだ知らない。
赤信号は、まだ始まったばかりだった。
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