第一章幕間 『失格の烙印を押された親』



「行くぞ、ユリ」


 蓮は妹――百合と手を繋ぎながら、エレベーターに乗った。

 何のエレベーターかと言うと、病院のエレベーターだ。

 エレベーターの中は蓮と百合の二人だけである。閉じていくエレベーターの扉を見つめながら、五階のボタンを蓮は押した。


 五階は蓮の母親――龍神木夏たつがみこなつが入院している階だ。別に怪我や命に関わる病気などではない。心的外傷によるものだ。

 度重なる秀明の暴力や不倫により、木夏は体よりも先に心が壊れてしまったのだ。

 だが、最近は落ち着きを取り戻している。

 

 今現在、蓮、百合、木夏の三人は、秀明とは別居状態にある為だ。蓮が無理矢理に秀明を家から追い出した形だが、むしろ秀明は女を呼び放題、好き勝手し放題で何不自由ない生活を満喫しているだろう。それが蓮にとっては非常に腹立たしい。思わず、エレベーターの側面の壁を蹴ってしまいそうになるほどに。


「おにぃ? 着い……たよ?」


 考え込む蓮の袖を弱々しく掴むのは百合だ。怯えたようなか細い声を必死に出しているが、目は泳いで視点は定まらない。

 そんな状態で蓮の袖を掴んでいない方の手を自分の唇に持っていきながら、百合は未だにキョロキョロとしている。


「ああ、ごめんな。行こうか」


 自分の袖を掴んでいた百合の手を強く握り、蓮はエレベーターから出た。

 改めて百合を見ると、大分成長しているように見える。成長期とは恐ろしく、ついこの間まで蓮のお腹ら辺に頭が来るくらいだったのに、もう既に蓮の胸の真ん中くらいの所に百合の頭が来ている。

 顔も幾分か大人びて木夏の娘だと言うことを強く実感するくらいに木夏と似てきている。幸いなことにあの糞親父――秀明の面影は何処にも見当たらないので、蓮は深く感謝している。無論、自分にも秀明と似ている節は見当たらない。自分の母親の優秀すぎる遺伝子の恩恵には感銘を受けてしまうくらいだ。木夏は十年近く前まで、日本の人気トップ女優であった為、その遺伝子の破壊力は言わずもがなであろう。

 逆に、自分の顔が秀明に似ていたら、蓮はまず間違いなく整形していただろう。それが例えどんな美貌でも、この世で最も憎い相手の顔の一部が自分に付いているというのは、蓮からすると想像しただけで吐きそうなのだ。


「ユリ、どうだ……学校は」


 蓮は言うのを少し躊躇いながらも、何とか声を発した。

 蓮の言葉に一瞬体をビクリとさせながら、百合は握っている蓮の手を強く握り直し、


「……大丈夫になって、きたよ、おにぃのおかげで。やっと、昼までは学校に入れるようになったし」


「そうか……少しずつ頑張ろう。いや、ユリは頑張ってるよな。別に無理しなくていいから、困ったり辛くなったりしたら、兄ちゃんか母さんに言えよ?」


 百合は学校でいじめを受けていた。

 理由は、おどおどとしてコミュニケーションが友達と取れないからだ。それは全て秀明が起因している。秀明が働く日常の暴行の矛先は木夏だけでは無い。百合もその被害にあっていた。

 そのせいで、男性恐怖症のようになってしまい、男子とは話すことすら出来ず、話しかけられただけで泣き出してしまうのだ。それが日常茶飯事となり、早退や欠席が続いてしまった。結果として、それをサボりだと思ったり、人気の男子からですら話しかけられたら泣いてしまう百合に対して、女子の陰湿ないじめが始まったのだ。そうなると必然的に、男性恐怖症だけではなく、女性恐怖症にも陥る羽目になる。


 そう、全てはあの屑野郎が発端となっている。今まで、擦り切れそうながらも耐えてきた木夏の精神が、百合の弱りきった状態を見て完全に崩れ、崩壊してしまった。

 しかし、蓮は生涯で虐待を受けたことはない。空手や柔道を習っていた以外にも、体付きなどから今、秀明と闘ってもボコボコに出来る自信はあるが、幼い頃から暴行を受けたことは無かった。


 それは、龍神 蓮が優秀だからであろう。蓮は小さい頃から何でも出来た。それは才能などではなく、それ相応に蓮が努力していたからだ。政治家と人気女優という偉大な二人の親を持ったことに対して、恥じないように、また、二人に追いつき、追い越せるように必死に蓮は努力してきた。自分に出来ないことは出来るようになるまで練習し、勉強だって小学生から手を抜いたことなど一度もない。

 ある意味、努力すればある程度のことは出来るのは一種の才能かもしれないが、全部才能で片付けられてしまっては、自分の努力を否定されたような気がするから、蓮は才能という言葉があまり好きではない。


 だから、蓮は秀明の期待に応え続けてきた。常に成績ではトップ層を維持し、クラスの人気者になり、スポーツですら万能。それは全て、期待に応えたいという思いから来たものだった。

 それに秀明は大変満足していた為、蓮に対して不平不満を述べることは無かった。

 

 ――だが、木夏と百合は違った。

 木夏は元々、女優であった為、多忙で家事などはあまりして来なかった。だから、専業主婦になるには少し技量が足りなかった。でも、必死に努力はしていた。それを全て秀明が踏み躙ったのだ。


 百合もまた、気さくな性格では無かったし、特別成績が言い訳でも、特別運動ができる訳でもない、ただ可愛いだけの普通の女の子だった。

 ――だから、踏み躙られた。


 蓮は気付いてしまったのだ。自分が褒められていたのは努力ではなく結果なのだと。

 必死の努力も、普通の女の子らしい生活も全て秀明の前では何の意味も持たないガラクタ同然。全て蹂躙し、期待に応えろとばかりに脅し、殴り、恐怖を植え付ける。それは最早奴隷だ。木夏と百合は言うまでもなく、自分ですら、ただ期待に応えていただけの奴隷だと蓮は理解してしまったのだ。


「おにぃ?」


 百合が蓮の腕を掴んでくる。白くて細い指で必死に腕を掴みながら、蓮の体を揺さぶる。


「お、おう。ごめん」


 いつの間にか立ち止まってしまっていた蓮は、百合の言葉とその揺さぶりによって意識が戻ってくる。

 そして、目の前の個室の引き戸を開けると、


「――母さん」


 患者着を着ながら、奥にある寝台から上半身だけ起こし、窓の外を眺めている母親――木夏がいる。


「あら、百合も一緒なの? ありがとね」


 窓からゆっくりと引き戸の方に視線を変えた木夏は蓮と百合に微笑みながら言った。


「ママ……元気そうで良かった」


「座ろうか」


 蓮は腕にしがみついている百合と一緒に、木夏から見て右側の椅子に腰を掛けた。

 百合は、この世で信頼出来る二人の人間しかこの場に居ないことに安心したのか、蓮から離れ、自分の椅子にしっかりと座っている。


「母さん、大分顔色良くなったみたいだね」


 蓮は木夏よりもさらに奥にある窓際の花瓶に目を向ける。

 そして、再び木夏に目を向けると、やはり顔色はここ数ヶ月で非常に良好になっている。

 少し前までは、人気女優の見る影もないほどに老けて、憂鬱としていたその顔には、若かりし頃の眩しさが返り咲こうとしている。


 今の木夏の容姿は、木夏を知らない人に木夏の年齢を予想させたら、下手したら二十代と答える人が出るかもしれないくらいである。そうではなくてもほとんどの人がアラサーと答えるだろう。実際は、アラフォーだ。三十八だから、フォーまではいってないが。

 それでも、年齢とは不釣り合いなくらいに綺麗な女性である。そこら辺の女子高生顔負けの容姿であろう。顔には皺も見えず、黒ずみもない。艶やかできめ細かな肌が木夏の顔には貼り付けられている。


「ごめんね蓮、迷惑掛けちゃって。でも、もうすぐ退院出来そうなのよ。これも蓮と百合のおかげね。ありがとう」


 木夏は優しい慈母のような眼差しを蓮と百合に向ける。その笑顔を見る度に、よくこんな人を暴行する気になったものだな、と蓮は秀明をより一層軽蔑した。


「そうか、良かったよ。でも、あんま無理しないでいいから。ユリも最近は落ち着いて来たし、もう一ヶ月後には中学生だからな。その辺はこっちで何とかするから、母さんは今は自分のことだけ考えてくれ、頼む。それがオレ達の為にもなるから」


 言っている最中で恥ずかしくなった蓮は、木夏から目を外し、何も無い寝台の下を見ていた。

 すると、蓮が照れているのに気付いたのか、木夏は笑いながら蓮の頭を撫でて、


「立派になったね。本当に立派になった。蓮なら心配いらないね。百合のことも。蓮自身のことも」


「ちょっ、やめろよ」


 木夏の言い草に対しての照れ隠しで、頬を赤く染めながら蓮は木夏の手を払った。

 なんだか、蓮が木夏のことを気にしない発言をしたのは随分と久し振りな感じがした。

 

 ――こんな日常が続いて欲しい。その為に今は頑張ろう。

 そう心の中で蓮は願い、誓う。


「生意気なー!」


 今度は片手ではなく両手で蓮の頭を撫でると言うよりは擦る木夏。二人の関係は、親子というよりは、姉弟のように見えるだろう。


「だから、やめろって」


 また照れ隠しするように木夏の両手を払う蓮。その行動とは裏腹にどこか嬉しい気持ちも蓮の心の中には佇んでいる。


「……ママ」


 そんな二人の戯れを傍らで眺めていた百合が自分の手をいじくり、モゾモゾとしている。


「百合は甘えん坊だねー? ほら、こっちおいで」


 木夏は両手を広げてはだかりながら、満面の笑みを百合に向ける。

 その身振りに対して溢れ出る喜びを隠しきれんとばかりに百合は木夏に飛び付いた。


「ママぁ」


「よしよし」


 赤ん坊のように泣きそうになりながら抱きついてくる百合を宥めるように、体を抱きしめながら、木夏は背中を摩る。


 ずっと行っていなかった学校に通い始めたストレスや恐怖心などが百合には蓄積されていたのだろう。なんせ学校に行く理由が、木夏に心配をかけたくないという心意気から来たものなのだ。でも、まだ小学六年だ。伸し掛る重圧や負担は蓮の想像もつかないだろう。だから、こうして精神的に消耗してしまった二人の家族が目の前で支え合うのを見ると、人は人同士が支え合って生きているということを殊更、蓮は実感した。


 すると、百合が突然、木夏から離れた。


「ん? もう大丈夫なの? 百合」


「うん。ママに心配かけないって決めたもん」


 僅かに零れた涙を隠すように拭いながら、震えた力強い声で百合は決意を述べる。

 自分が守るべき存在であると思っていた妹の決意や決心を聞かされ、蓮は百合の成長を感じて感動してしまう。


「……そっか。ありがとね。ママも頑張らなくちゃね」


 娘の成長とその決意を聞いた木夏は、自分に不甲斐なさを感じたのか、少し鬱屈が目に現れた。だが、そんな脆弱な自分を戒めるように笑顔を作り出して、目の前で両目を擦っている百合の頭を、木夏は片手で撫でた。


「ああ、頑張ろう。これからは三人で。オレが二人を支えるから、困ったら二人もオレを支えて欲しい。だから、三人で支え合おう」


 黙って親子の感動の場面を眺めていた蓮が声を出す。それは、目の前で決意を決めた二人の家族に対して、自分も決意を述べるという意味でもあった。


「……無理しないでね。蓮は蓮だよ。秀明さんに囚われないでいいんだからね? 蓮はなりたいようになればいいの。勿論、百合もね?」


 依然として百合の頭を撫でながら、顔だけを蓮に向けて、甘く蕩けそうなくらいに優しい笑顔を贈ってくる木夏。

 その笑顔を見て、癒される自分が居るのと同時に、あの糞野郎のことを思い出してしまう自分がただただ蓮は腹立たしかった。


「……そう、だな。ありがとう母さん。でも……でも、あの糞親父――いや、親父なんて呼びたくもねぇな。あの糞野郎だけは潰さないと駄目なんだ。前だってオレの前に親の面して説教垂れに来やがった。親失格どころか人間失格な糞野郎のくせに……」


 蓮は爪がめり込むほどに強く己の拳を握りしめた。二人から顔を隠すように下を見ながら、蓮は歯を食いしばる。


「――違うよ」


 蓮は秀明の所業を脳裏に過ぎらせながら、復讐心や憤怒に駆り立てられていた。

 そこで、声が聞こえたのだ、目の前の女性――木夏から。

 蓮が顔を上げ木夏を見ると、木夏は百合でも蓮でも無く、窓際に置いてある花瓶を見つめていた。

 茎先に淡いオレンジ色の花を咲かせた美しい花――キンセンカだ。非常に美しい花であり、木夏と並んだらより一層美しさが際立つはずだ。

 なのに、その情景には悲しみ以外は何も無かった。


「なに、が?」


「……あの人は親失格なんかじゃないわよ。だって、ちゃんと働いて何不自由ない生活を私たちにさせてくれてるもの。――でも、私は違う。女優として稼ぐことがなくなってからは、家事も半人前で挙句の果てには、子供を置いて精神病院に入ってしまう折り紙付きのクズよ」


「そ、そんなことないだろ! 金さえあればいいのか!? しかも、母さんは必死に家事頑張ってたじゃないか! 別に他の一般の家庭なら、母さんの家事は普通かそれ以上の出来だろ!」


 自虐的な口調で暴言を自分に浴びせる木夏の言葉を必死になって蓮は否定しようとする。だが、木夏には届いていないようだ。


「……ありがとう。でも、それ以外にもあるのよ。もっと根本的に私はもうどうしようもないクズなの。親失格なの……親失格って言うのは私のことを指すのよ」


 意味が分からない。

 あんなに優しくしてくれて、あんな屑野郎にも文句一つ言わないで、反抗するとしたら百合への暴力のことだけ。そんな身を挺して子を庇う親が親失格だなどと誰が言えるだろうか。言えるやつは、神か屑のどちらかだけだろう。でも、そんなことを言うやつは蓮が許さない。


 だが、明らかに木夏の様子が違った。

 過剰な自虐でも無ければ、それが妥当な評価をしていると本心で思ってそうな口振りなのだ。


「な……なん、で? 意味がわかんねぇよ! 母さんが親失格なら全国の親は全員、親失格だろ!」


「そんなことないのよ。私はクズなの。これは過剰な謙遜でも自虐でもないのよ。言ってしまえば、私は……蓮が産まれる前からの、クズだもの」


 理解出来ない。

 全く話が噛み合っていない。噛み合っているようで一欠片も噛み合っていないのだ。

 蓮の知る情報と木夏の知る情報の差異がこの話のズレを生じさせているのだ。

 それなら聞く他ない。蓮は木夏の気持ちの心配をする余裕が無かった。

 だから、


「母さん……? 何……で? 何が、あったんだよ……?」


 蓮の言葉に覚悟を決めたのか、木夏は息を呑み、軽く深呼吸をする。

 その動作を見ながら、蓮も固唾を飲んだ。


 そして、


「……蓮にも百合にも言っていなかったんだけど、私はね、蓮が産まれる前に――」


「龍神さん。お昼ご飯ですよ〜。あ、あれ? 蓮君に百合ちゃんも来てたの? ごめんね、邪魔しちゃったかな?」


 背後から看護師が食事を乗っけたプレートを持ちながら、引き戸の所に立っていた。


「……ああ全然大丈夫ですよ。オレ達もそんなに長居する気は無いので」


「あー、どうします? これ食事置いていきます? 全然三人でお話しながら食べたりしても大丈夫ですけどー?」


 看護師は異様な空気を察知したのか、その空気を読むように気を遣ってくれた。

 蓮はまだ木夏の言葉の続きを聞いてはいない。だから、このお言葉に感謝して、素直にそれを受け止めようとする。


「ああ、そうですね。じゃあ、お言葉にあ――」

「大丈夫です。もう帰るみたいなので」


 蓮の受け答えを制止するように、木夏が言葉を紡いだ。

 蓮が木夏の方を向くと、屈託のない笑みを看護師さんに向けていた。

 人気女優にしかできない技術とでも言うべきか、本人の心の内とは対照的な笑みを『作り』出していた。


「あ、ああそうですか! 分かりました!」


 看護師は必死な営業スマイルを浮かべるが、本業の木夏とは力量がまるで違う。


「かあ……さん?」


「ごめんね、蓮。来てもらって悪いけど、今日はもういいよ、ありがとう。――でも、いつか言うわ。言わなければならない時が必ず来るから」


 憂愁のような悲しい笑顔を作りながら、木夏は囁くように呟いた。木夏の全身から漂うオーラは正に『悲劇』だった。

 

 だが、そんなことで蓮が納得できるはずもなく、


「母さん! それは無いだ――」

「おにい!」


 立ち上がり大声で怒鳴るように木夏に問いかける蓮の言葉を遮ったのは、今まで黙っていた百合だ。

 言葉だけではなく、全身を使って蓮を止めようとしているのが、今蓮の体に抱きついている百合を見れば一目瞭然だ。


「……ユリ?」


「おにぃ、もうやめよ? ママだってきっと言いたくないことだってあるよ……これでママの体調悪くなったら、ユリ、やだもん」


 段々と声が小さく細くなりながら、目に涙を浮かべる百合は、蓮を必死に説得する。

 確かにそうだ。全て百合が正しい。

 蓮の願いはこの大事な家族二人が幸せに過ごして欲しい、その一つだけだ。その為に今蓮は様々なことを努力している。

 なのに、蓮はその家族の木夏を傷付けようとしていたのだ。自分の考えの浅はかさや愚かさが酷いくらいに突きつけられて、心に大きな穴が空いてしまったような気分に蓮は陥った。


「……そうだな。ごめん、母さん。ごめん、ユリ。……オレが間違ってた」


「……いいや、蓮は間違ってないよ。悪いのは私だもの」


 未だに自虐を止めない木夏を止めることは、今の蓮には出来なかった。今の蓮にそんなことを言う資格は微塵もないのだ。

 だから、今は黙っていることしか出来なくて。


「……今日は二人ともありがとうね。また良かったら来てね? お母さん待ってるから」


 そんな蓮の心を察した木夏は、気まずくならないように細心の注意を払いながら、優しい口調で言った。


「あ、ああ分かった。また来週くるよ。母さんも元気でな」

「ママも元気でね」


「うん、ありがとね。またね」


 各々で挨拶を済ませ、蓮と百合はコートを羽織ってから、引き戸に向かう。

 百合は必死に手を振って、別れを惜しんでいるようだったが、蓮は木夏の顔を見ることが出来なかった。


 ――母さんに向ける顔なんてオレの何処にあるんだ。


 自分の行為からくる自責の念に呑み込まれた蓮は、個室の外の何も無い廊下を見つめることしか出来なかった。


「蓮」


 そんな蓮を気遣うように、またもや木夏が蓮に話しかける。

 しかし、蓮は木夏の方に顔を向けることが出来ない。ただ歯を食いしばり、拳を強く激しく握り締めることしか――――出来ない。


「蓮、元気でね」


 蓮の背中に浴びせられたその言葉。

 蓮は人生でこんなに短く、こんなに優しさで溢れる言葉を聞いたことがなかった。

 こんな状況でも子供への気遣いを忘れない木夏という母親は、正に親の鏡とも言えるだろう。


 ――母さんが『親失格』ならオレは『子供失格』だよ。


 そう、心の中で呟いて、蓮は何も言わずに廊下へ出た。





 ――後ろで子供の背中を優しく凝視する失格の烙印を押された親に、蓮は何も言えず、何も応えられなかった。

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